141. 怨
怨魔は跳ね起きると、一足飛びで流護へ飛びかかった。
振り回される腕を紙一重で躱しざま、流護は右の拳を突き入れる。迎撃されのけ反った怪物へ向かって、左右の連打、左の廻し蹴りを見舞う。
コンビネーションの全弾命中。
吹き飛んだ怪物は、そのまま牛の死骸へ頭から突っ込んだ。腐肉と汚泥が飛び跳ねる。
「す、すげぇ……」
そんな呆然としたカルボロの呟きを掻き消すように、怨魔が立ち上がった。死者を蹂躙するかのごとく、その黒い足はガシャリと骨を蹴散らして進み出る。
「……、」
全力だった。
ドラウトローならばすでに終わっている。段違いの頑強さに、流護は内心で驚嘆した。
しかし、効いている。
――ロシ リュ
怪物はかすかにふらつきながらも一歩一歩、流護へ向かって大地を踏みしめ――
数歩進んだところで、加速した。黒い塊が瞬く間に迫る。流護は迎撃するべく軸足に力を入れ――
「っ!?」
力を込めた左足が、ずるりと滑った。
咄嗟に目を向ければ、足元の土がわずかにぬかるんでいる。
「く……!」
何とか転ばず持ち直す流護だったが、振り下ろされた怪物の一撃を躱しきれず、黒い残影が右肩をかすめていく。
「がっ、ぁ……!」
技術も何もない、ただひたすらに力任せの打撃。
鈍い音。奔る激痛。
思わず叫びそうになる痛みを堪えるも、目前の怪異はすでに追撃の動作へ入っている。大きく、弓を引くように黒い拳を構え――
「食らえぇっ!」
カルボロの気合と共に飛んだ雷光が、怨魔の腕に着弾した。
しかしその一撃は、かすかな白煙を舞わせるのみ。怪物は怯む素振りすら見せない。
「効かねぇのかよ、くっそ……!」
詠唱の末に放った、渾身の神詠術だったのだろう。
震えたカルボロの声と同時、怨魔の拳が死を告げる直線となって空を切った。
一撃が、流護の右頬へと突き入れられる。
「――――――――」
流護はその勢いに逆らわず、殴られた方向へ首を回した。
否、首だけではない。
身体ごと、反時計回りに回転する。
「ッ……らぁ!」
遠心力のままに繰り出した左のバックナックルが、怪物の顔面を捉えた。血飛沫を撒き散らし、怨魔が後退する。
兵士たちから歓声が沸いた。
「……ペッ」
流護は口の中に広がる血の味を吐き捨てる。
変則気味のスリッピング・アウェー。
カルボロの電撃によって怨魔の速度が落ちていたからこそ成し得た芸当だった。流護としては、もう一度やれと言われてもできる自信はない。
間合いの離れた怪物を見据えて、流護は浅く息を吐く。
そうして互いに、一歩。また一歩。
じりじりと、距離を詰めていく。
――テヤ
怨魔も数度凌がれたことで迂闊に仕掛けていい相手ではないと判断したのか、人のような構えこそ取らないものの、すり足で間合いを詰める。
(……見逃さねえ)
トン、トンと。一歩ずつ確かめるように、流護も距離を縮めていく。
薄暗い洞穴。つい今ほど、ぬかるみに足を取られたばかりだ。地面が確かであることを感じ取りながら、慎重に前進していく。
流護が狙うはカウンター。この環境、闇雲に踏み込んでまた滑ったのではたまらない。足場を確保し、待ち構える。己から仕掛けるのではなく、怪物が飛びかかってきた瞬間、その場で斬って落とす――
刹那。
耳をつんざく破裂音と共に、怨魔の身体が爆ぜた。
「……ッ!?」
アスファルトへ水を叩きつける音に似ていた。
感電したみたいに跳ねた怨魔は、全身から血を噴出させながら仰向けに倒れ込んでいく。大の字で横たわり、そのまま手足をぐったりと投げ出した。
「こんなところかしらね」
声に目を向ければ、
「ケリスデルさん!」
「ケ、ケリスデル殿……!」
『銀黎部隊』が一人、ケリスデル・ビネイスの姿。長身の女は小柄な女兵士を引き連れ、遅れてきた主役のごとく堂々とした足取りで広間へと踏み入ってくる。兵士たちの間に安堵の空気が広がった。
「なん、だ……? 今の……」
流護が気にかかったのは、今の一撃だ。
一触即発のその瞬間、横から飛来した何か。派手な破裂音と同時、一瞬にして血まみれとなった怨魔。今のは、まるで――
「ケリスデルさんの得意技だよ。通称、『ショットガン』ってんだ」
いつの間にか隣へ来ていたカルボロが、どこか誇らしげに答えた。
散弾銃。
今の光景を見て、流護の脳裏に浮かんだ単語もそれだった。
「よく分かんねぇけど、カッコイイよな。ロックウェーブ博士が名付けたらしいぜ」
ケリスデル・ビネイスの属性は、風。
それも、にわかな突風を起こす程度でしかないという。
しかし彼女は、及ばない能力を道具で補った。
緩やかな風に毒粉を乗せて、撒き散らす。突風に鉄菱を混ぜて、叩きつける。ショットガンも、まさに凶器と神詠術の融合が生み出した技術の一つ。
彼女はそれらの技を練磨し、『銀黎部隊』六十余名の一角にまで上り詰めた。
ともかく足りない部分を道具で埋め合わせるそのスタイルは、これから防具を扱おうとしている流護と共通しているようにも思え――
――ふと。かすかな、息の漏れる音が聞こえた。
「!」
横たわった怨魔へ視線を向けた流護は、思わず息をのむ。
怪物は、まだ生きていた。
仰向けに倒れ、でっぷりと突き出た大きな腹を上下させながら、その身体を震わせている。
「こ、こいつ! まだ生きてるぞ!」
気付いた兵士が悲鳴混じりに叫んだ。
流護のラッシュを受け、ケリスデルのショットガンを喰らい、血まみれになりながらも生き延びている。凄まじいまでの生命力だった。
「ケリスデル殿……どうしますか」
「あら? ドラウトローにしては大きいと思ってたけど……見ない顔ね。未知の怨魔らしき生物……といったところかしら。生け捕りにできれば研究も捗るんでしょうけど、未知ゆえに迂闊な真似をするのは危険なのよねえー。どちらにせよ、もう死にそうだし……もたないでしょう」
ケリスデルは片手を目の高さに掲げた。
「――止めを刺すわ。全員、離れて」
指示に従い、倒れた怨魔から兵士たちが距離を取る。
流護も離れようとして、思わず足を止めた。
――ロシ、
音。
――リュ、
音が漏れている。先ほど、この怨魔を観察していたときにも零れていた。この怪物の呼吸音か。
倒れた怨魔を凝視する。瀕死の黒い怪物は、剥き出しのギョロリとした眼球で流護を見つめていた。互いの視線が、交わっている。
「――……、」
何だこいつ。何か言いたそうな目ぇしやがって。
寒々としたものを感じた流護は、早々に後退しようと――
――テヤ、ル
そこで、小さくかすれてはいたがはっきりと聞こえた。
怨魔の口から。
発せられたそれを音ではなく、声と認識するならば。
――コロシテヤル リューゴ
直後、怨魔の頭が吹き飛んだ。
放出されたショットガンによって、黒い全身に新たな孔が穿たれる。頑強なはずの肉体が、耕されるように跳ね上がる。爆ぜ飛んだ血飛沫が舞う。念には念を、といわんばかりの激しい掃射。仮に命が複数あったとて、その全てを殺しきるような凄まじい弾幕の嵐。
パラパラとにわか雨のような音を残して、血と鉄菱が散乱した。
そうして、静寂が訪れる。
一体、何発の『弾』が撃ち込まれたのか。怨魔は、もはやピクリとも動かず。今度こそ間違いなく、絶命していた。
兵士たちにホッとした空気が広まる中、流護はひとり立ち尽くす。飛んだ返り血が顔に付着してしまっていたが、それを拭うことすら忘れて立ち尽くす。
(…………は……今、喋っ……? 殺して、やる……? ……え? 俺、を……?)
喋った? 怨魔が? どうして? 俺の名前を? なんで?
「はー、終わったなリューゴ! いやー、お前のおかげで……リューゴ?」
棒立ちとなった流護を訝しく思ったのか、カルボロが気遣うような声をかける。
少年は動かぬ肉塊と化した怪物へ目を向けたまま、呆然と尋ねていた。
「…………カル、ボロ。……あの怨魔から、こう……何か、聞こえなかったか……?」
「ん? どういう意味だ? どうかしたのか?」
「……、いや」
他の兵たちへ顔を向けるが、誰も気付いていないらしい。皆、勝利に沸いている。
今、怨魔の一番近くにいたのは流護だ。自分だけに聞こえたのか。偶然、そう聞こえただけなのか。はたまた、洞穴に吹き込んだ風のいたずらか。それとも、気のせいにすぎないのか。
しかしあの、流護をじっと見つめていた二つの眼球。
表情もないゆえ推し量れなかったが、あの視線に込められていたのではないだろうか。その言葉通りの感情が。『怨魔』というその名称に相応しい、負の情念が。
「……現状、死者二名……ね。……さて、元凶はこの怨魔だと思うけど……総員、念のため周囲の探索を続行して頂戴。実際にドラウトローもいたことだしね。他に脅威がなければ、撤収するわ」
その前に……あの、怨魔が喋ったんですけど。
そう言って、今この場にいる兵たちは信じてくれるだろうか。
この世界で『神詠術が使えない』ということ以上にありえないと思われるその事実を、話してみる気にはならなかった。
洞窟を出ると、すでに辺りは薄暗く染まっていた。夜の始まりを告げるべく、巨大な女神がその姿を覗かせている。
密閉された空間に篭っていたためか、頬を撫でる風が涼しく心地よい。
洞窟内の状況から、農場襲撃の犯人はあの黒い怪物だと断定された。
ドラウトローより遥かに大きな体躯。焚き火を起こすという知能。
それ以外には分からない点ばかりだが、回収した死体を研究部門が調べれば、何か判明するかもしれない。
居合わせた二匹のドラウトローは無関係(という言い方はおかしいかもしれないが)。最近になってやってきたのか学院襲撃の件から棲みついていたのかは定かでないが、ともかく今日流護たちが訪れる直前に怪物同士は遭遇・激突し、敗北したドラウトローの一体が洞窟を飛び出したところで、兵士の一グループと鉢合わせたと予想される。
ドラウトローが本来は夜行性であることを考えると、あの黒い怨魔のほうから襲いかかったのかもしれない。
今は、怨魔の死体と戦死者の亡骸を回収しに来る部隊を待っているところである。通信の術で、依頼主にも仕事が完了したことを伝達済みだった。
「アリウミ遊撃兵、お疲れ様。協力、感謝するわ」
「…………いえ」
ケリスデルの礼に対して、流護は自分でも驚くほど疲れを滲ませた声で答えていた。
未知の怨魔と交戦し、死者二名。
被害規模としては、最小限の部類だという。情報に乏しい怨魔と遭遇してしまった場合、為す術なく部隊が壊滅してしまうことも珍しくないそうだ。
ケリスデルの言葉には、被害を抑えられたことに対する称賛も含まれているのだろう。
――けれど。
あの怨魔を見つけたとき、もっと早く飛び出していれば。
さらには、あの怪物が放った『言葉』。
未だ、混乱から立ち直れないでいる。
「うぅっ、畜生……、ユレク、タルコトよぉ……」
兵の亡骸が包まれた袋を前に、一部の兵士たちがうなだれて鳴咽を漏らしていた。
「……、」
少年は思わずにいられない。
自分がもっと上手く立ち回っていれば、誰も死なずに済んだだろうか。
「もっと自分が上手くやってれば……なんて思ってる?」
「!」
まるで心を読まれたかのようなケリスデルの言葉に、流護はびくりとした。
「それは傲慢というものよ。兵士たちは同僚。共に肩を並べて闘うべき戦士であって、アナタが護るべき対象じゃない。アナタは成り立ての遊撃兵。指揮官じゃない」
流護を擁護しようとしている訳ではないのだろう。ただ淡々と続ける。
「確かに結果としては、アナタが逸早く飛び出していれば犠牲は出なかったかもしれない。けれど、相手は未知の怪物。得体の知れない能力を持っていて、返り討ちに遭う可能性もあった。様子見は正解よ。そうそう最良の手を打って最高の結果が残せるものじゃない。後から『こうしていればよかった』なんてのは、結果を知っているから言えることよ」
夜空を塞ぐ大きな月を仰ぎ、黒い女は表情のない顔で語る。自戒のように。
「二人が死んだのは、アタシの責任よ。対象をドラウトローだと決めつけ、それを前提に作戦を組んだこのアタシの……ね」
「らしくないな。弱ければ死に、強ければ生き残る。それが、お前の信条じゃなかったか?」
そう言って流護たちの元へ近づいてきたのは、大柄な兵士だった。
ケリスデルは溜息をつきながら答える。
「そうよナイルズ。だから、弱いアンタらの実力を考えて作戦を組み立てられなかった、アタシの落ち度だ……って言ってるんじゃないの」
「ふん、減らず口を」
ナイルズと呼ばれた大きな男は、言葉とは裏腹に安心したような笑みを見せた。
彼は兵士たちへ向き直り、身体に見合った大きな声を張り上げる。
「よーし! ユレクとタルコトの弔いを兼ねて、飲みに行くぞ! 俺は……、一人でも行くぞ!」
一方的にそう宣言して、返事を待たず、ナイルズはずんずんと歩いていく。兵の亡骸を包んだ袋の前で跪き、握りしめた拳を掲げた。
「ユレク、タルコト。俺は行く。お前たちの分まで、戦ってみせるさ。……俺も、いつまで戦い続けられるかは分からんがな……。あの世になるか来世になるかは分からんが――必ずまた、逢おう」
目元を拭い、大男は立ち上がって吼える。やけくそ気味に。
「よおおぉし! 今日は飲むぞ!」
悲嘆に暮れていた兵士らも動き始めた。ある者は涙を拭って雄叫びを上げ、ある者は気持ちを入れ替えるように己の頬を叩きながら、ナイルズと同じように死者へ祈りを捧げ、別れの言葉を捧げ、立ち上がって歩いていく。
「…………、」
呆然とその様子を見ていた流護に、
「リューゴは行かねぇのか? 奢るぜ?」
祈りを済ませたカルボロが、静かに声をかけてきた。
「い、や……俺は、」
脳裏にこびりついて、離れない。
首をねじ回されてしまった、兵士の顔。流護を見て安堵の表情を浮かべたひげ面の兵士の顔が、粉砕されてしまった光景。生々しい音。飛び散る鮮血。
奇麗事を言うつもりなどない。流護は、死んだ彼らのことを何も知らない。悲しいとか、正直そんな気持ちはない。
ただ、衝撃的だった。ショックだった。
以前、アルディア王と対峙したディーマルドが『消えた』ときとは違う。あまりに生々しく残酷な、人の死というもの。人間が物言わぬ肉塊と化してしまう、その瞬間の光景。
この世界は残酷だ。幾度となく、そう思ってきた。しかし今まで、人の命が失われるその瞬間を目撃したことはなかったのだ。
そして。
――コロシテヤル リューゴ
「……そんな気分に、なれねえよ……」
流護はどこか非難じみた口調で、そう答えていた。
今この場で嘔吐せずにいるだけでも、上出来だと思った。目の前で人が死んだショックと怨魔が喋った混乱で、頭の中がグチャグチャだった。
「……はは。俺も初陣のときさー、そう思ったよ」
「え……?」
それぞれに歩いていく兵士たちの背中を眺めながら、カルボロは目を細めて独白する。
「兵士ってさ、つらい仕事だよな。俺……仕事で家を出る前に、いつも自分の部屋を振り返って思うんだ。『俺はこうして家を出て、それきり帰ってくることはないのかも』なんてさ」
死んだ二人も、そんなことを思って家を出たりしたのだろうか。
「言っちまえば、いつ死ぬか分かんねー仕事だろ? 隣で今日の勝利を喜んでる奴が、明日にはいないかもしれない。だからこそ、生きてる間に騒ぐんだよ。死んだ奴がいるなら尚更、そいつの分までさ」
先輩の受け売りだけどな、とカルボロは付け足した。
今日生き残った仲間が、明日には消えるかもしれない。
だから生ある者たちは、生き延びたことを祝い、またの生還を誓って、杯を酌み交わす。そして、死者には来世での幸せを願う。
明日という日が、訪れるとは限らないから。悔いが残らぬように。
「学院の子を紹介してくれって言ったのも、同じようなもんだよ。兵士で恋人同士になってさ、片割れが明日には死にました、なんてキツすぎるからなぁ」
苦笑いを浮かべて。カルボロは語る。
「つー訳でさ! 行こうぜ! 今回は、お前さんが主役みてえなもんだろ!」
「…………」
流護も、理屈として理解できない訳ではない。
しかし。
「……悪い。俺は、帰るよ」
それでもやはり、とても騒ぐ気分にはなれなかった。
参加したところで、食べ物も飲み物も、喉を通りそうにない。
「……そっか。まぁ、無理にとは言えねぇしな」
カルボロは流護に向かってグッと拳を突き出す。
「また一緒に仕事しようぜ。次会うまで、死ぬんじゃねーぞ?」
「……、ああ」
拳を打ち合わせて応えた。
「ケリスデルさーん! どうしますか?」
「ああ、アタシは引継ぎを済ませて、依頼主のところに寄ってから行くから。場を暖めておきなさい」
「了解しましたー!」
カルボロは弾むように答え、「じゃあまたな、リューゴ! 創造神の加護があらんことを!」と言い残して走っていく。
一人残された流護に、ケリスデルが溜息混じりで言葉を漏らした。
「……以前会ったときも思ったけど。アナタも不思議な子ねえ。それだけの腕前がありながら、驚くほど繊細な一面を持っている。まぁ何でもいいけどね」
回収に来る部隊が到着するまで、ケリスデルと二人、しばし待つことにした。