138. 不穏の足音
その一報が入ったのは、昼を回ってすぐのことだった。
「農場が荒らされてる……ですって?」
食後のハーブティーを楽しみながら。『銀黎部隊』の一人であるケリスデル・ビネイスは、部下からの通信に眉をひそめた。
『はい。家畜が何度も被害に遭っているそうで……』
「狼か何かかしらね?」
『それが――』
場所はディアレー郊外、壁の外側に展開している農場地帯。
一軒の農家から、飼っていた鶏の一羽が消えたのが二十日ほど前のこと。早朝、現場に残されていた血の跡を労働者が見つけたことで発覚した。そのときは、運悪く野犬にでも襲われたのだろう、と思ったそうだ。
しかしそれから数日の間に、山羊と牛が一頭ずつ姿を消した。鶏と同じように早朝、血痕だけが発見される形で。
襲われているのは夜間。山羊や牛までもが襲われ、死体もないとなると、野犬の仕業などではない。近くに猛獣でも居着いてしまったのか。
牧場の労働者たちも警戒を強め、近辺の森や川のほとりを見回った。が、どうも獣が棲みついている気配はない。
そうこうしている間にも、羊が一匹犠牲になった。
意を決した労働者の数人が、作業小屋に泊まり込んで見張りをすることにした。
明かりを消し、静かな闇の中を交代で見張り続けること数時間――
日付が変わった頃、犯人は現れた。
のしのしと物色するように牧場を闊歩する、二本足の影。
運の悪いことにイシュ・マーニの恩恵も弱く、距離もあったため、どこから現われたのかは確認できず、その姿もはっきりとは見えなかった。しかし暗闇に蠢くその動きを見て、人間だと思ったそうだ。
こんな時間に一人。それも挙動不審。家畜に手を出していたのは、獣などではない。盗人だ。
労働者たちの恐怖と緊張が、次第に怒りへと変わっていく。人様の家畜に手ぇ出しやがって、人間なら恐れるこたぁねぇ、とっちめてやる――と。
しかし次の瞬間、彼らは震え上がることとなる。
おもむろに一頭の牛へと近づいていった影は、腕を大きく振り上げ――叩きつけるような一撃を繰り出した。凄まじい打撃音と共に、牛は重々しく横たわった。
さらにその影は、仕留めた牛を軽々と肩に担ぎ上げ、闇の中へ――北の方角へ消えていったという。
それが三日前の話。
そしてその朝、すっかり怯えた労働者たちはすぐに数人の傭兵たちを雇い、牛を強奪していった怪物の討伐を依頼したのだが――
『今現在に至るまで、傭兵は一人も戻ってないとのことです。この間、牧場は襲われてないようですね』
「ふうん……」
いよいよ手に負えないと判断し、兵に頼ってきたのだろう。
概要を聞き終えたケリスデルは、静かに思索する。
怨魔の仕業であることは間違いない。
街や街道と同じく、農場や牧場にも魔除けの施術はされているが、広い敷地を有する場合、処置が行き届いていないことも多い。そこを付け入られ、侵入した怨魔に家畜などが襲われることも少なくなかった。
今回も、まさしくその事例と思われる。
しかし、気になるのはその怨魔の正体だ。基本的にはこのディアレー近辺に、カテゴリーD以上の怨魔は棲息していない。比較的安全、と評していいだろう。だからこそ、壁の外に農場が展開できるのだ。
牛を一撃で殴り殺し、軽々と運んでいったとなると、並大抵の力ではない。そして、人間と見紛うような二足歩行の影。
「ドラウトロー……かしらねえ」
ケリスデルは最も可能性が高い怨魔の名を呟く。
二ヶ月ほど前、ミディール学院が襲われた一件。
邪竜ファーヴナールが襲来したことにより、遥か北に棲息していたドラウトローたちが各地へと散らばった。その結果、近隣の街や村では少なからず被害が出ることになった。
ディアレーの近くにも現れ、ケリスデルが駆除に当たっている。未だこの近辺に、その生き残りが潜んでいても不思議ではない。
夜間に家畜を襲うという行動も、夜行性であるドラウトローならばありえるだろう。
だが、気になる点もある。
労働者たちが当初、人間と勘違いしたという点。
ドラウトローは確かに二足歩行で移動するが、その挙動は猿に酷似している。体長も一マイレ前後。背丈は、子供よりも小さい。
闇夜の中で距離もあったとはいえ、そんなものを人間と見間違えるだろうか。
そして、もう一点。
確かに剛腕で知られるドラウトローだが、いくら何でも一撃で牛を仕留められるものなのか。そのうえ牛を担いで運んでいったというその膂力。ケリスデルの知るドラウトロー像とは今ひとつ噛み合わず、違和感がある。
もっとも、怨魔と呼ばれる存在は、明らかになっていない部分のほうが多い。
それこそドラウトローに至っては、まさに学院の一件で『恐慌状態に陥った場合のみ昼間にも行動し、従来の魔除けをも受け付けなくなる』という特徴が発覚しているのだ。予期せぬ行動を取る可能性は充分にある。
「――さて」
いずれにせよ、現場へ向かってみる以外に手はないだろう。
「人数は集められる?」
『はっ……すでに手の空いてる者を揃えましたが、十名ほどで……』
「フハッ。人手不足にも困ったものねえー」
敵がドラウトロー、それも複数体いる可能性を考慮した場合、十名では全く足りない。
ケリスデルは問題ないが、通常の兵たちでは奴らの趣味である音鉱石に断末魔を記録するだけになってしまうだろう。
「んー、そうねえ……あ、」
妙案を思いついたケリスデルは、思わずポンと手を打っていた。
――人や動物が神に愛されし子であるならば、『彼ら』は悪魔に魅入られた存在といえるであろう。
「…………ふーむ」
そんな見出しで始まる重厚な書物のページをめくっていた流護は、一息ついて首を鳴らした。
隣の席で宿題に励むミア以外は誰もいない、静かな図書室。伸びをした流護の身体が、ぱきぱきと大きく音を立てる。
それは、怨魔についての本だった。
このグリムクロウズという世界に跋扈し、人々が恐れ忌避する、強大な力を持つ怪物たち。街や村が原則として大きな壁で囲まれているのは、そんな怨魔という存在から身を守るためだ。
その怪物たちによって人の住まう地が滅ぼされたという事例が、この書籍には数えきれないほど記載されていた。本の厚さこそが、怨魔の脅威度を表しているかのようでもある。
複数の国によって管理される『怨魔補完書』によってその危険度は定義されており、最低ランクのEから最高ランクのSまで、細かな分類がなされている。
カテゴリーEの個体ならば、まともに神詠術を使えない者たちであっても武器や人数次第で対抗も可能だが、DやCとなるともはや手に負えず、戦闘に熟練した者でなければ太刀打ちできない。Bともなれば一般兵士三人一組が必須。Aに対しては多くの詠術士や兵器の運用が必要となり、Sは実在すら怪しい神話級、厄災そのものと認識される。戦闘能力はさほどでなくとも、極めて強力な毒を有する個体などもここへ分類されるようだ。
遥か過去においては、竜巻などの自然現象もSランクの怨魔そのものと考えられていた時期があったらしい。
他の猛獣と一線を画すその特徴は――決して、人と相容れぬ怪物であるということ。
獣が人を襲う場合、空腹や自衛、縄張りを守るためなど、そこに生物としての理由が存在することが多い。
しかし、怨魔にはそれがない。呼吸をするように人へ害をなす。目についたなら襲う。
意思の疎通は不可能。懐くことはない。理解し合えることなどありえない。人間にとって、絶対の敵性存在。
牙や爪、尾に代表される、身体部位『以外』のものを武器とすることが多いのも特徴だ。火山に棲息する怨魔は炎を、海に潜む怨魔は水を使った攻撃すらこなすという。
かつて流護が対峙した邪竜ファーヴナールは、まるで大砲のように口から石を吐き出していた。研究の結果、体内で生成される胃石を撃ち出していたことが発覚している。
(……怨魔、か)
その脅威のほどは、流護もよく理解している。……身に染みて叩き込まれた、といってもいい。
例えばカテゴリーB、ドラウトロー。体長一メートル弱の猿に似た生物ながら、驚異的なパワーとスピードを誇る化物だった。初の対峙では流護も一撃を受け、肋骨にひびを入れられている。そして――
「…………、」
彼女の顔が、脳裏に甦る。
素朴であどけない笑顔と、ぐちゃぐちゃに圧壊された――
「リューゴくん? どしたの? 顔色悪いよ?」
気付けば、隣に座るミアが心配そうに覗き込んでいた。
「ん? あ、ああ……大丈夫だ」
このミアだって、襲われている。何かが一つ掛け違えていたなら、どうなっていたか分からない。学院が襲撃されたあのとき、本当に助かってくれてよかった。
ごく自然に、壊れものに触れるように手を伸ばす……。
「わわ、ひゃあわああぁぁあ!? な、なななななに!?」
「お、わ、悪い!」
ついつい顔に触ろうとしてしまい、ミアはずざざざざっと後ずさってしまった。
「そそ、その、えっと、イヤとかじゃないんだけど、ど、どうしたの?」
「あ、いや、えーと……そこの『モチフワドーナツパン』と間違えたっつーか……」
「ひ、ひどいー! そんなに丸々としてないもん!」
ぷくーっと、少女はそれこそまるで焼きたてのパンのように頬を膨らませる。
「はは……いや、まじでちょっとぼーっとしてて。悪かった」
……そしてそんなドラウトローをも餌と認識していた、邪竜ファーヴナール。伝承にまで記されている巨大な竜。
巷では流護が素手で倒したことになっているが、実際は違う。
流護は、あの怪物に勝てていない。
皆の追撃があって、隙を突くことができた。それでも追い込みきれず、死が確定した。そこを間一髪、ベルグレッテによって救われたのだ。一対一ならば、間違いなく負けていた。
遊撃兵となった以上、今後の任務で怨魔と闘うことだってあるだろう。
もっと。もっと、強くならなければいけない。Sランクの怨魔だろうと、凌ぐほどに。
そう密かな決意を固めていたところへ、
「あっ! いたいた、リューゴ」
ベルグレッテとクレアリアの二人が急ぎ足でやってきた。
「に、任務……!?」
話を聞いた流護は、ベルグレッテの言葉に戸惑いを返す。
「うん。ディアレーからの要請で、近くに潜んでるかもしれない怨魔の駆除を手伝ってほしいそうよ」
「お、俺が……!?」
「え、ええ。どうしたの?」
「何ですか、おかしな方ですね。仕事をしたくないとでも?」
気遣うようなベルグレッテと、ジト目を送ってくるクレアリアが対照的だ。
「いや……は、初任務ってことか……!」
そうなのだ。遊撃兵となって学院へ駐在している流護だが、直後に『蒼雷鳥の休息』へ突入してしまった。
兵士としての仕事など、未だ何ひとつとしてこなしていない。先日の防護の手伝いは、遊撃兵の職務とはいえないだろう。
そこへ舞い込んだこの要請は、初めての任務といえるはず。このままでは給料泥棒になってしまうのではないかと心配していたところだ。
しかも、怨魔と闘うことだってあるだろう――と思っていた矢先の話。
気合を満たすかのごとく、流護は両の拳を打ち合わせる。
「あ、そっか。リューゴにとっては、初任務になるのね」
「それもそうですね。そんな感じはしませんが」
すでに怨魔や暗殺者、果ては『ペンタ』やテログループとも交戦済みだ。一通りの相手と闘ったのではなかろうか。クレアリアの言う通り、初めての任務という感覚はあまりない。
「よっし。じゃあ頑張ってみるか……!」
それでも初任務だと意識すると、流護は若干の緊張を感じてしまった。
「で、でもあれだね。リューゴくんなら大丈夫だとは思うけど……防具もまだだし、気をつけてね」
「おう……」
ミアは不安そうだ。
『竜爪の櫓』にファーヴナールの手甲を注文したのが五日前のこと。前例のない素材を使用した防具だ。いつ仕上がるかも分からない。
今回はこれまで通りの丸腰となるが、気を引き締めてかかる必要があるだろう。
「あ、そういや……ベル子とクレアはどうすんだ?」
「私たちは呼ばれていませんので。というより、ちょうどこれからこの図書室の片付けを命じられてます。これも仕事の一つですけどね」
「……ってことは……俺一人で行くのか……!?」
「ん、そうなるわね……、あ、そっか」
ベルグレッテは気付いたようだ。
流護は、一人で外出したことがないのだ。
街中で一時的に別行動をすることはあっても、本格的に一人で外へ出かけたことはない。
「不安になってきたぞ……道とか全然分からんし、だ、大丈夫かな俺……?」
「ふふ、大丈夫よ。馬車でディアレーの兵舎まで行くだけだから、歩き回る必要もないし。帰りは兵舎で馬車を呼んでもらって、学院まで戻ってくればいいだけだし」
「そ、そうか。そうだよな」
ベルグレッテの優しさに勇気が湧いてくる。
最悪道に迷ったとしても、言葉が通じない訳ではなし、人に尋ねて何とか馬車屋まで行き、あとは学院まで乗せてもらえばいいだけだ。
「子供のお使いじゃないんですから……」
呆れたように溜息をつくクレアリアだったが、
「それは違うぞクレアよ……」
流護は反論せざるを得ない。
「俺が全くの別世界から来たことは説明したであろう。俺は、このグリムクロウズのことを全然知らないんだ。ある意味……」
流護は声を絞り出した。
「俺はある意味、子供以下なんだ――」
「なら、学ぶ努力をしてください」
「はい。すみませんでした」
ディアレーの街までは馬車で二時間。
しかし今回は急な呼び出しということで高速馬車を手配してもらい、わずか三十分で到着した。
キョロキョロしながら馬車を降りると、兵舎と思わしき建物の前にいた一人の兵士が小走りで近づいてくる。
「おっ、あんたがアリウミリューゴだろ!?」
「え? あ、はい……そうですけど」
「おー! やっぱりそうか! 待ってたぜー!」
気さくに話しかけてきたのは、流護とそう歳の変わらなそうな少年兵士だった。
王都の女性騎士見習いプリシラが着用しているものと同じ、銀の軽装鎧。腕にはガントレット、脚にはレガース。これらも銀色で統一されている。
短めの金髪に褐色の肌、美形ではないが愛嬌のある、人懐っこい雰囲気の顔つき。やはりこの世界の住人ゆえか、身長は流護より遥かに高い。百八十五センチはあるだろう。
「俺はカルボロ。歳は十六。この街か王都で兵士やってんだ。ヨロシクな!」
「あ、どうも……よろしくっす」
「だはは! 普通に、気楽にしてくれよ、な!」
カルボロは親しげに流護の肩を叩いてきた。
「いや~、あ、リューゴって呼んでいいか? リューゴの噂は聞いてるよ、前から一目見たくてさー、ホントに背ぇ低いんだな。うわでも腕! 腕太ってぇ~! 何食ったらこうなるんだよ、あとホントに丸腰なんだな! すっげぇよな! うわ~色々と話聞きてぇけどケリスデルさんも待ってるし、とにかく中に入ろうぜ!」
垂れ流すように喋り続けるカルボロの後ろへとついて歩く。
廊下を抜けて広間へ入ると、十名ほどの兵士たちが思い思いに待機していた。
全員が、ちらりと流護に視線を向ける。
――そのうち半数は、睨みつけるような目つきだった。
「ヒュー、おっかねぇ目ぇしたのがいるね~、まぁ気にすんなよな、リューゴ」
囁くようにカルボロが耳打ちした。
「嫉妬か、信心深い連中か。どっちにしろ、有名人はつらいねぇ」
有海流護に対する周囲の評価というものは、大きく二つに分けられる。
一つは、古の英雄ガイセリウスのごとく、神詠術を使わずに敵を打ち倒す豪傑――という称賛。もう一つは、神の恩恵たる神詠術を使おうとしない、罰当たりな存在――という忌避。
ガイセリウスや徒手空拳での戦闘に強く憧れる者は、前者の感情を。敬虔で信心深い者は、後者の感情を抱く。
もっともカルボロが言ったように、単純に流護の力を妬んでいる者もいるのだろう。
今この場にいる兵士たちも、面白いようにそれぞれの反応を見せていた。
「それにしても腕太ぇよな、どうなってんだよこれ、すげぇよな~」
……カルボロは憧れるタイプのようだ。
待つこと数分。
部屋の奥のカーテンを引いて、長身の女騎士が姿を現した。
ボサボサに広がった黒髪。細長い手足。大きな瞳とその内側に秘めた細長い瞳孔、大きく裂けたような口元は、どこか蛇を連想させる。
流護もミアの件でこの街を訪れた際、一度顔を合わせている人物。現六十三名の精鋭にて構成される『銀黎部隊』が一人、ケリスデル・ビネイス。相も変わらず、メデューサだと言われれば信じてしまいそうな容貌だった。
「全員揃ったかしらね。まずは、リューゴ・アリウミ遊撃兵。急な要請に応じてもらったこと、感謝するわ。とにかく人手が足りなくてねえー」
「あ、は、はい」
急に名前を呼ばれたうえに感謝されて、他の兵士たちの視線が集まる。少し居心地が悪い。
「では、説明に入らせてもらうわ。ええと――」
場所はディアレーの外れにある、ロレイン農場。
二十日ほど前から、怨魔と思わしき存在に家畜の襲撃・強奪を受けている。二ヶ月前に発生したファーヴナール襲来の件で逃げ延びたドラウトローの仕業である可能性が高いため、周辺地域の調査、及び脅威の排除を行う。
「何か質問は?」
簡潔ながらも余すところなく説明を終えたケリスデルが問う。
手を上げる者はおらず、兵士たちは皆、やや緊張した面持ちで押し黙っていた。
無理もない。ドラウトローと遭遇するかもしれないのだ。
並の人間にとっては驚異的な相手となる。流護であっても、あの拳をまともに受けたなら命取り。事実、初見では肋骨にひびを入れられている。否が応にもミネットの件や学院襲撃を思い出す、苦い相手でもあった。
救いとしては、今が昼間であることか。ドラウトローは『基本的に』夜行性。少人数の兵であっても、寝込みを急襲すれば制圧できる可能性は高い。
「質問もないようね。それじゃ、現場に向かいましょうか」
かくして流護とケリスデル、十二名の兵士たちは、ロレイン農場へ向けて出発するのだった。