136. 彼らの職務・前編
閑散とした――というより、流護たち以外誰もいない食堂にて。
「えっ、防護の施術にいらしたのですか……? それならば確か、ファーヴナールの件の後に実施していたはずですが」
バラレ女史の来訪目的を聞き、クレアリアは困惑したように眉根を寄せた。
「ええ。けれど、退魔補助薬を使った処置はまだ施していなかったから。先のノルスタシオンの件を受けて、せめて重要施設の防護に関して見直しをしましょう、って話が出たのよねぇ。それで今回、まず足並みを揃えて主要施設を更新することになって。この学院も、この機会にやってしまおうってことになった訳ね」
「そう……だったのですか。足並みを揃えて……といことは、他にも同時に……?」
「ええ。それこそ王都の美術館に、ラエンティエの砦……あとミケネストルネの大風車なんかも、今回同時に更新するのよ。風車のほうには、ミリアンちゃんが向かっているわ」
「ミリアン殿までもが……、随分と大掛かりなのですね。存じませんでした」
「てっきり連絡がいっているものだと思っていたわ……」
頬に手を当て、女史は少し困惑したように言う。
「どこかで連絡が滞っていたのかもしれませんね……。まあ、よくある話といえばそれまでですが」
「けれど、どうしましょうか。あなたたちも、急に言われたとなると困るわよね……」
「あ、いえ。今は『蒼雷鳥の休息』の期間中ですし、学院に残っている者はごくわずかなので……私たちは、修練場で寝泊りしても問題はありません」
建物に防護を施す場合、規模にもよるが大抵は一日がかりの作業となる。加えて、術がなじむまでは立入禁止になるのだという。
学生棟もそれは同じであるため、生徒全員に外へ出てもらわなければならなくなる。丸一日は入れなくなってしまうため、他の場所で寝泊りする必要が出てくるようだ。
一日程度であれば、クレアリアが言うように屋内修練場で寝泊りしても問題はない。
それにしても流護もテロ対応の現場で思ったことだったが、やはり美術館の修繕費は大きな額になってしまったようだ。
丸一日を要してしまう防護作業。
美術館側としては、施術を行えばその日は休業となってしまう。まだ期限を迎えた訳ではなかったし、それで更新を渋っていたようだが、結果として被害が大きくなる事態となってしまった。
もっとも防護が切れかかっていたことを利用してアルディア王や学院長は神詠術爆弾のブラフを見破っていた訳なので、流護としては一概にどちらがいい、とはいえないような気もした。
ちなみにこの学院の規模では、まともにやれば施術に丸二日はかかるとのこと。外壁、学生棟、校舎、ロック博士の研究棟……などと建物が複数に分かれていることもあって、大がかりな作業となるようだ。
「退魔補助薬は保管されていたわよね?」
「ええ。ですが……塗布するための人員は何名手配されているのですか?」
「それが……回せる人員がいないって言われちゃって。多少日にちが掛かってもいいから、ゆっくりやってくれって」
「ええ!? つまり、この学院の規模を一人でやれと!? ッ……連絡の不備といい、全く! 担当はどなたですか!? 断固抗議します!」
ガタリと立ち上がったクレアリアを、バラレ女史が慌てて制する。
「いいのよクレアちゃん。連絡は、話がいっているか確認しておかなかった私も悪いんだし……。施術に関しては、それを承知で了解したんだから。『蒼雷鳥の休息』中だし、多少時間が掛かってもいいでしょう。一人でも、三日あればなんとか終わるわ。ただその間、お邪魔かもしれないけど……」
「とんでもありません! それよりも、女史の負担が……!」
そこで、クレアリアに呼ばれていたベルグレッテが食堂へやってきた。
「お久しぶりです、バラレ殿。ご無沙汰しています」
「あら、お久しぶりベルちゃん! あらあらもう、しばらく見ないうちにまぁた綺麗になって!」
遅れてやってきたミアも扉を押し開けて入ってくる。盛り上がるベルグレッテとバラレ女史を横目に、とてとてと流護の下へやってきた。
「……だれ?」
「お、ミアは知らないのか。何か国の『ペンタ』の凄い人らしいぞ」
「えっ、そうなんだ。こうして見ると、普通のおばあちゃんだね~」
ベルグレッテとの世間話も一段落ついたのか、老女は場をまとめるように頷いた。
「それじゃ、早速作業に取り掛かりましょうかねぇ。一応、みんなの邪魔にならないように気をつけるけど……何かあったら、遠慮なく言って頂戴ね」
その言葉を受けて、クレアリアが当然のように立ち上がる。
「とんでもありません。お手伝い致します」
「え? でも、クレアちゃん――」
「私としても、自分が通う学び舎のことですから。……アリウミ殿、協力していただけませんか?」
「ん? 俺?」
「お嫌ですか? 体力のある方がいると助かるのですが」
「いや、別にいいけどさ。暇だし」
流護としても、ここで世話になっている身だ。特に異存はない。
了解すると、ありがとうね、とバラレ女史が申し訳なさそうに頭を下げた。『ペンタ』とは思えない腰の低さに、流護も釣られて目礼する。
そうして、結局全員でゾロゾロと外へ繰り出すのだった。
「暑いわねぇ……」
「暑いですね……」
バラレ女史とベルグレッテが同調したかのように呟いた。
意気揚々と外へ繰り出した一行だったが、時は真夏の昼下がり。遮るもののない中庭は、もはやうだるような灼熱地獄と化していた。午前中は比較的涼しかったのだが、やはり昼間こうなってしまうのは必然か。
流護としては、日本のコンクリートに囲まれた暑さに比べれば幾分はマシかな、とも思う。どちらにせよ、この中で作業するのは苦行に違いないだろうが。
「うっ、……」
「だ、大丈夫ですか!? ご無理はなさらぬよう」
ふらついたバラレ女史を、クレアリアが慌てて支える。先ほどのミアではないが、こうして見る分にはただのおばあちゃんにしか見えない。
額の汗を拭きながらベルグレッテが提案した。
「この暑さの中で作業は厳しいですね……。最寄りの兵舎に連絡して、氷属性のかたを呼びましょう。もともと、人手も足りないですし」
そうして二時間後。ディアレーの街から、氷属性を扱う兵士三人がやってきた。本来の仕事量を考えたなら最低十人は欲しいところだったが、どうにも人手不足らしい。
やる気に満ちたクレアリア先生によって、学院内に残っている数少ない生徒はもちろん、ロック博士までもが駆り出された。珍しく太陽の下へ引きずり出された白衣の研究者は、まだ作業に取りかかっていないにもかかわらず、すでに荒い息を吐いている。
「いや~、暑いねえ……、ちょっ……まず」
バラレ女史より体力がなさそうだった。
休憩所として簡易テントを設営、その陰に兵士たちが大きな氷の塊をでんと現界させ、冷術器も数台設置した。気休め程度ではあるが快適となった空間で、ようやく準備が完了する。
「それじゃあまず、外壁からいきましょうか……。皆さん、ごめんなさいね」
どこまでも腰の低いバラレ女史の指示に従って、各々作業に取りかかる。
本来であれば単純に魔除けの術を施すだけでも効果はあるのだが、ファーヴナールの件で発覚したように、従来のものでは恐慌状態となったドラウトローには効力がなかった。
そこで新しく開発された魔除けの触媒として、
「……ふう。退魔補助薬、ひとまず外壁に使用する分だけ持ってきました」
ガーティルード姉妹がそれぞれ木箱を抱えて倉庫から戻ってきた。
「ありがとう、二人とも。それじゃ、まず壁に塗布していきましょう」
女史の指示に皆が頷く。
退魔補助薬。数種類の特殊な薬草を調合して作られた特殊な薬液で、怨魔が嫌う匂いを発しているらしく、かなり高位の個体が相手でも効果を望めることが立証されている。
ただ開発されたばかりのため手間や費用も多くかかるのが現状で、まだ広く普及はしていない。
これが安価で出回るようになれば、街道や小さな村でも怨魔の脅威が大きく軽減されるとのことで、日夜研究が続けられている。
「ベルちゃん、あたしもいっぱいやるよ~」
「ありがと、お願いね」
ミアも率先して手桶を受け取り、ハケを使って壁に薬液を塗っていく。絵の具遊びをしている子供みたいで微笑ましいが、そう口に出したら彼女はぷんぷんと怒ってしまうだろう。
「どれどれ」
「はい、リューゴ」
流護も手伝うべくバケツとハケを受け取り――
「…………ッ?」
思わず顔をしかめた。
「……強力な怨魔除けだけあって、結構すげぇニオイするなこれ……」
「え?」
ベルグレッテが首を傾げる。言っている意味が分からないといった顔で。
「いや……結構キツくね? 長時間嗅いでたら気分悪くなりそうだぞ」
「そう、かな? 私は、全然気にならないけど……」
ベルグレッテはそう言って、形のいい鼻をくんくんと鳴らす。
薬液の補給にやってきたクレアリアがジト目を向けてきた。
「匂いなんてしませんけど。怨魔除けで気分が悪くなりそうだなんて、アリウミ殿は怨魔だったんですか?」
「え……俺だけ?」
見れば、兵士や生徒たち、ミアも平然と作業を続けている。
流護としては正直、このまま臭気を吸い込んでいるだけで吐き気を催してしまいそうだった。どんな匂いかといわれれば上手く答えられないのだが――鼻をつく臭気、としか表現できない。有機溶剤を吸い込んだ感覚に似ている。
口元を押さえながら立ち尽くしていたところで、後ろから声がかかった。
「個人差もあるだろうし、気にすることはないよ」
「……ロック博士」
振り返れば、おなじみ白衣を羽織った研究者の姿。
同じ日本からやってきたこともあって、体質としては流護と同じはずの博士だが、魔除けを前に気分を害した様子はない。暑さでフラフラにはなっているが。
「なんだかんだで薬だからね。体調に左右されたりもするだろうし、無理せず休んでたほうがいいんじゃないかな?」
「ん……ロック博士の言うとおりかも。なんだったらしばらく休んでて、リューゴ」
「あ、ああ……」
……別に体調が悪い訳ではないのだが。
だが確かに、例の夢で無駄に早起きしてしまったため、少し睡眠不足ではあるかもしれない。
とりあえず二人に勧められるまま、木陰のほうへと移動する流護だった。
「気分はどうですか、アリウミ殿」
木にもたれて座る流護の下へやってきたのは、意外にもクレアリアだった。覗き込むように彼女が腰を屈めると、頭の左側で結わえたサイドテールがさらりと揺れる。
「いや、まあ……大丈夫だよ」
皆が作業している様子を遠目に眺めていたが、魔除けに嫌悪感を示したのは流護だけらしかった。
考えてみれば当然だろう。拒否反応を示す人間が多いなら、この薬液が採用されるはずもない。
もはや懐かしい現代日本を思い起こしてみれば、薬などのパッケージには必ず『使用して異常を感じた場合は、すぐ医師に相談すること~』のような注意書きが記載されていた。
市販されている薬が『合わない』人もいるように、流護も退魔補助薬に『合わない』ということなのか。
しかし先ほどのクレアリアの言葉ではないが、怨魔除けで気分が悪くなるとなれば、あまりいい気はしないものである。
「しっかし……これ、かなり大規模な作業だよな。バラレさん、これを一人でやるつもりだったのか……?」
「バラレ女史は……人のいい方なんです。非常に有能でもあるゆえ、つい周囲も頼りがちになってしまいますし」
実際のところ、何だかんだで女史なら数日あれば一人でもこなしてしまうはず、とクレアリアは少し誇らしそうに語る。
「……しかし今回、女史へ仕事を依頼した担当がどうにも職務怠慢にすぎます。事前に連絡を寄越さない、女史に一人きりで任せるなど……今度顔を合わせた際、じっくりとお話をする必要がありそうです」
クレアリアさんの『お話』ときたものだ。想像したくもない怖さを感じる。
「担当って誰なんだ?」
「総務部門のバールカという男性です。以前より、仕事の粗雑さが目立つ方でしたが……これは一度、じっくり話し合いの場を設けるとしましょう」
仕事が雑な、それも男。話死合い。
死んだな。
「はは……さすがに任せっきりって訳にはいかねえよな。よし」
服についた芝生の草や土を叩いて、勢いよく立ち上がる。
「もういいのですか? 無理はなさらない方が」
「……」
「何ですか」
まじまじ眺めていると、生真面目な少女は凛とした瞳で正面から見つめ返してくる。
「いや……なんかこう、クレアさんだったら『気分が悪いとか言ってないで手伝ってくださいキリッ!』とか言いそうな感じがしてたから、意外っていうか……」
「な……、そんなこと言うはずがありません! お願いしたのはこちらですし、気分が悪いなら無理強いなんて……、腹立たしいですね! それなら望み通り言って差し上げましょうか!」
「はは、ごめんごめん。よし、何かやるぞ俺も」
……このギャップ。学院でクレアリアを怖がっている男連中も、思わず撃沈してしまうのではないだろうか。そんなことを考えつつ、赤くなった少女をどうどうと押し止める。
自分だけ休んでいるのも気が引けていたところだ。休憩を切り上げ、他の仕事を引き受けることにする流護だった。