135. バグ
全てを覆い尽くす闇の中、うっすらと揺らめく明かりが見える。
あれは……蝋燭の灯火、だろうか。
その光に照らされて浮かび上がったのは、繊細できれいな白い指。女性のものだろう。そこにある何かを、優しげな手つきで――
どこからか、慈愛に満ちた声が響く。
『――こうして。グランシュアと名乗る者の手によって、レインディール王国は――』
穏やかで、優しげで。子守唄のような心地よさで。
それは、流護の知っている声で。
まるで誰かに読み聞かせるように、言った。
『――滅んでしまったのです』
「――――――っ」
がばりと、薄手の毛布を撥ねのける。
嫌な汗が、じんわりと全身に滲んでいた。
流護は思わず周囲を見回す。家具らしい家具もない、閑散とした一室。今やすっかり見慣れた自分の部屋だ。当然、他には誰もいない。
今宵の月――イシュ・マーニは慎ましく、その姿の大半を黒い雲の影に隠している。
薄く差し込む月明かりで、懐中時計を確認した。時刻は――午前三時。いかに夏のこの時期とはいえ、窓の外は未だ暗く、辺りは夜の静寂に包まれている。
流護は思わず耳を押さえた。
ぼんやりとした夢。だというのに気味が悪いほど生々しく、はっきりとした――あの声。
本当にすぐ近くで囁かれていたかのような声が、耳から注ぎ込まれたかのごとく頭の中に残っている。言葉の合間に感じた息遣いすらも、鮮明に。
(……、なんだ、今の……夢……)
あの声。流護の知っている、あの人物。
どうして、あんな不吉なことを。
(……いや、ねえだろ)
ありえない。夢の内容を誰かに話すだけで大変な騒ぎになってしまいそうなほどには、ありえない。よりによって、と言ってもいい。
そもそも――夢に出てくるほど、親しい間柄でもないはずなのだが。
「…………はー……」
二度寝する気にもならず、そのまま起き上がる。
夢は夢だ。さして気にするようなことではない。
けれど何だかあの人物に申し訳なくて、しかしどうしてそんな夢を見てしまったのかも分からず、頭を振って気分を一新する。
「…………走ってこよ」
少し――いや、かなり早いが、もう起きてしまうことにした。
縦の軌跡が空を裂く。
振り抜いた流護の右脚が鋭く唸り、次いで左脚、伸びきった右脚の踵がバランスを崩すことなく芝生の大地を踏みしめる。
「おっ……いけた!」
思わずガッツポーズが飛び出した。
胴廻し回転蹴り、と呼ばれる技がある。
身体を縦回転、または横回転させて相手に踵を叩き込む――という大技なのだが、当然難度も高く、何より外した場合の隙が致命的。無防備に相手の足元へ倒れ込んでしまう形となる。試合ではともかく、路上のケンカでそんな事態に陥ってしまえば、どうなるかなど考えるまでもない。
見た目にも派手で、決まれば爽快ではあるが、それゆえに使いどころの難しいロマン技ともいえるだろう。
日課となっている早朝トレーニングに励んでいた流護だったが、ふと「身体能力上がってるんだし、重力も軽いんだし、高く跳べるんだし、胴廻しのあと普通に着地できるんじゃね?」と思い立ったのが切っ掛けだった。
最初のほうこそ回転しすぎてうつ伏せに倒れたり、回転するタイミングを誤って地面に転がったりしていたが、まさに今、バランスを崩さず着地することに成功したところである。
これは実戦で使っていけるかも、と流護は拳を握りしめた。
「リューゴくーん! おはよー!」
そんな手応えを感じていたところでやってくる、小動物のような元気娘。
「お……ミアか。おはようさん」
よく懐いたネコのようにテテテと駆け寄ってくる様は、実に愛らしい。絶対嫁には出さん、と流護は決意を新たにする。
「どしたミア。今日は早いな」
「うんー……」
時刻は午前六時半を回ったばかり。
流護は例の夢で目を覚ましてしまったため、起床から早三時間半が過ぎているが、長期休暇のおかげですっかりだらけた生活を送っているミアが起きてくるには、まだあまりに早い時間だ。実際、元気いっぱいに登場したものの、眠そうにまぶたをこすっている。
「今日は、ベルちゃんがとくに早くて……あたしも一緒に起こされちゃった」
「なるほど」
奴隷組織の一件以来、一人でいることを恐れるようになってしまったミアだが、夜眠るときは特に顕著だった。
現在は、常に誰かと同室で眠るようにしている(もちろん女子限定で)。
今は休暇中のためガーティルード姉妹しかいないのだが、昨夜はベルグレッテと一緒だったらしく、休日であっても規則正しい生活をしている彼女に合わせて、早々と起きるはめになってしまったらしい。
これがクレアリアならそのまま起こさず放置するそうだが、そうなったらなったで目を覚ましたときに部屋で一人ぼっちになっていることが多く、ミアさんとしては複雑なようだった。
眠そうに目をしぱしぱさせている少女だったが、
「……おおっ?」
急に瞳を輝かせ、間近にそびえる外灯の下へと走っていく。
「やっぱり! リューゴくんリューゴくん、カブトムシがいたよー!」
「おお!」
流護もよく知る名前に、思わずテンションが上がった。
季節は夏。緑豊かな丘の上に建つミディール学院は、動物や虫といった生き物たちも身近なのだ。
何もかもが違う異世界でありながら、早朝の外灯下にカブトムシが落ちているという、田舎育ちの流護にもなじみ深い現象……。ついつい、じーんとしながらミアのほうへ行くと――
「ほらほら!」
「オォワアアァァ!?」
ミアが嬉しそうに掲げた生き物を見て、流護は思わず絶叫した。
まず、胴体の長さだけで十センチほど。テカテカの光沢を放つ黒いボディと、異常に長い鉤爪のような脚が八本。角は左右対象に二本ずつ、真ん中には槍のごとき長角がそびえ立っている。このまま武器になりそうだ。この角を含めるなら、全体で十五センチは優に超えるだろう。しかしゴテッとした印象はなく、全体的にスマートで攻撃的なフォルム。
以前、腹筋がカブトムシみたいで嫌だとミアに引かれてしまった流護だが、その逞しいばかりの腹部を見て、「あ、これは似てる」と少しヘコんでしまった。
「どしたの?」
「俺の知ってるカブトムシと違う」
うん、やっぱり異世界だった。
先日、『竜爪の櫓』へ行ったときのことを思い出す。同じ『鋼鉄』であっても、別の代物である可能性。
「そなんだ。リューゴくんの世界のカブトムシは、どんな感じなの?」
「えーと……まずこんなにデカくなくてな……、つか、この世界でコレをカブトムシと呼ぶに至った経緯を知りたいわ。凶器だろこれ。グングニルとか呼ばれてても驚かないんですけど」
こんなものがぶつかってきたら致命傷を負いそうだ。
話す間にも、ミアに鷲掴みにされた巨大カブトムシはわしゃわしゃと脚を蠢かせている。すごい速さで。……ちょっと気持ち悪い。
「にしてもミア、虫とか平気なのか?」
「どういうこと?」
「いや、女子って虫が苦手だったりするよなと思って」
聞けば、ミアはそれこそ田舎の農家育ち。動物の世話にも慣れているし、害虫の駆除も仕事のうちだった。
虫が苦手などと言っていては務まらない、とのこと。
「昔は父さんや弟たちと、虫とりにもよく行ったしね。みんなで朝早く起きて、母さんがお弁当作ってくれて……、……はは、懐かしいなぁ……、あ」
思い出してしまったのか、ミアの目尻にかすかな涙が浮かんだ。
「シャアァッ! 俺とも虫取りするかミア! いやするぞミア、今すぐにだ! お!? そこにも何かいるぞ、ちょっと小さいけどでけえ! でけえぇ! 角がないな、カブトのメスか!? ……んだこれ、やたら触覚が長いな……まあいいや! いいね!」
「あ、それはゴキブリの仲間……」
「いいぃああぁぁばばばばあぁ」
無理矢理にでも楽しくにぎやかに、涼しい朝の時間は過ぎていくのだった。
かこん、と。
乾いた快音が中庭に響き渡る。
まっすぐ投擲された小石が、塀の上に並べ立てられた石の一つを見事に弾き落としていた。
「……ふー」
肩を回しながら溜息ひとつ、流護は遠い昔を思い馳せる。
武月流空手道場。
故郷の田舎町、閑静な住宅街の一角にひっそりと佇む、伝統派の空手道場。老いた主が趣味でやっているような、小ぢんまりとした規模のもので、決して本格的な格闘術を教える場所ではない――――と、当初は思っていた。
あれはいつ頃だったろう。少なくともまだ、小学生のときだ。
(……あのジジイ……伝統派とか言ってたくせに、嬉々として顔の殴り方教えてきたんだよな)
それだけではない。
目貫き。鼻裂き。歯牙砕き。指拉ぎ。爪返し。そんな風に呼ばれる、およそ『技』とは呼べない物騒な禁じ手の数々に、そしてこの――投撃。
『精神の鍛錬? 真っ当な人格形成? ほほ、結構結構。それもいいじゃろ。しかしな流護ちゃん、お前さんはそもそもなぜ空手をやろうなどと思ったんじゃ? 身体を鍛えるため? じゃあどうして身体を鍛えようと思ったんかな?』
――彩花ちゃんを守りたかったんじゃろ? と訊かれ、ムキになって否定したのを覚えている。
しゅっと放られた小石が、またも立てられた石にカコンと当たり、正確に弾き落とす。
ある程度の距離なら、まず外すことはない。十年間の訓練の賜物だ。
「って、空手でこんな練習する訳ねえんだよなあ……」
かつて純真な子供だった流護は、疑うことなくその技巧を吸収してしまった。そして何だかんだで今も、こうして続けている。すっかり身体に染みついた日課だった。
なぜ師匠は、自分『だけ』にこんな技術を仕込んだのだろう。
『――強くなりなさい、流護や。その裡に眠る「狂」を手懐け――いずれ、ワシの前に立つほどに』
あれは高校に入ってすぐのある日。
ふと零した言葉。いつも飄々としている老人の、珍しい真顔だった。いや、口元が笑っていたか。
その後、「ところで、今日の彩花ちゃんのおパンツの色を後で教えるように」と続いたことも覚えている。ろくなものではない。死んだほうがいい。
まあ、結局のところ。教え込まれた『業』の数々は、皮肉にもこの世界で最大限に活かされている訳なのだが……。
「……ん?」
ふと何気なく目を向けると、校門付近に立つ人影があった。
休暇中の学院。流護たちの他には、それこそ数えるほどしか人は残っていない。――が、その人物は生徒でも教師でもないようだった。
容赦なく照りつける夏の恵みの中、白い日傘をさして佇んでいるのは――小柄な老婆。
貴族だろうか。白を基調とした、涼しげな丈長のワンピース。全体的に銀色の派手な刺繍が施されており、高価な衣服だと流護にも分かるが、嫌味のない品のよさが感じられる。
学院に何か用事だろうか。これも兵士の務めに入るだろうと判断し、流護は老女の下へと駆け寄っていった。
「あの……えーと、どうかしましたか? 学院に何か用ですか?」
我ながら気のきかない言い方だ、と思う流護に、日傘をさした老婆はにこりと笑顔を返してきた。
長い白髪ながらもその顔に刻まれた皺は少なく、姿勢もいい。七十歳ぐらいだろうか。月並みな表現だが、若い頃はさぞ美人だったことだろう。
老女は年齢を感じさせない、上品な声色で流護に語りかける。
「ご機嫌よう、今日も暑いわねぇ。ええと……雑務担当の方かしら?」
「あ」
遊撃兵となった少年だったが、一見して分かる装備などは持っていない。まず、流護を見て兵士だと分かる人間はいないはずだ。
学院内にいるため、財布に入った兵の紋章も部屋に置いている。常に持ち歩く癖をつけないとダメだな、と考えを改めながら拙く答えた。
「っと、俺は遊撃兵です。今は、この学院に寝泊まりさせてもらってて……」
「あらまぁ! それじゃ、あなたが噂の遊撃兵さん? 本当に若いのねぇ。フフ、なかなか良い男じゃないの」
「あ、いえ、どうも……」
親戚のおばさんに褒められたときのような居心地の悪さを感じていると、老婆は機嫌よさげに続けた。
「今は『蒼雷鳥の休息』中よね。となると、ナスタちゃんやシーダちゃんはお留守かしら。どなたか、教員の方はいらっしゃる?」
「え? えーと……」
引っ掛かったのは妙な単語だ。
ナスタちゃん……? まさか『あの』ナスタディオ学院長のことか。シーダというのは副学院長の名前だ。流護はほとんど面識がなかったが、六十を過ぎた老婦人だったはず。
そんな二人を『ちゃん』呼ばわりとなると、この老婆は一体――
「バラレ女史!?」
そこで割って入ってきたのは、意外な声。
顔を向ければ、こちらへ小走りで近づいてくるクレアリアの姿があった。
「やはりバラレ女史でしたか! ご無沙汰しています……!」
「あらあらクレアちゃん、お久しぶりねぇ! まぁた一段と可愛らしくなってぇ! お人形さんみたい!」
「い、いえ、そんな……」
クレアリアが珍しく平身低頭だ。その貴重な様子をしげしげと眺めていると、
「……何ですか」
流護に対してはいつも通りのジト目が飛んできた。人形は人形でも呪いの人形だ、とクレアリアに知られたら斬りかかられそうなことを考える。
「えーと……?」
誰? と訴えかけるより早く、クレアリアがその(何もない)胸をわずかばかり反らし、得意げな顔で紹介した。
「この方こそはレインディールに属する八名の『ペンタ』が一角、『絶界』のバラレ・サージ女史。国内最高峰の防護術を扱う、偉大なる詠術士です」