132. インプリケート・オーダー
真顔で神について語ったロック博士を前に、流護は返す言葉が見つからず押し黙る。
「……と、まあね。こんな風に、発想を飛躍させてみるのも面白いと思わない?」
「は、はあ……」
飛躍しすぎだろう、と思う。
いくらファンタジーみたいな世界であっても――神と呼べるほどの何かが存在するかもしれないなど。
「いや……つか博士、前に神なんて信じてないって言ってたじゃないすか」
「信じてないよ。人知を超えた、絶対的存在って意味での神はね。ただここは、魔法みたいな能力や怪物が確かに存在する世界なんだ。現に、『偽神』ガルバンティスなんて呼ばれる怨魔も実在する。『竜滅書記』にも出てくる曰くつきの怪物でね、何だかとても神々しい姿に、凄まじい力を持ってるんだそうだよ。事実、これを邪神として崇める教団なんかも存在してるしねえ。『神みたいな何か』なら、結構いるもんなんだよね」
話の論点がすり替わってないか、と思う流護だったが、博士はお構いなしに続けた。
「流護クンは、この世界に来てから地図を見たことはあるかい?」
「え? は、まあ」
ロック博士の意図が掴めないままに頷く。
地図ぐらいなら、さすがに何度か見かけたことがある。この学院や王城、ベルグレッテの屋敷などでも、でかでかと壁に飾ってあったりするものだ。
そのどれもが同じ内容で、王都を中心として、周辺地域などが記されているのだが――
「なら気付いたと思うけど……少なくともこのレインディールにはね、世界地図ってものが存在してないんだ。王都とその周辺の国々までしか記されていない。縮尺も適当だしね。これは単純に、それより遠くの地域がレインディールにとって未踏の地だからなんだ。ボクらが知ってる……地図で判明してる範囲なんて、おそらくこの惑星全体の一割弱にすら満たない」
「…………」
漠然と思っていたことではあった。
快適で高速な移動手段もなく、また移動に危険を伴う世界。きっと、人が行き来できる範囲などというものは驚くほど小さい。
流護がやってきたこのレインディール王国。東にはレフェ巫術神国。西にはバルクフォルト帝国。その周辺に点在する小さな国々。では、その先には何があるのか。どんな大地が広がっているのか。
仮にこの世界が地球と同程度の大きさだとしたら、その大部分は未知の領域となる。
「日本でいうブラジル……つまりレインディールの裏側に位置する場所では、想像もつかない文化を持った国が発展してるかもしれない。神詠術の概念や思想も全く違う、もしかしたら神詠術そのものがない地域だってありえるかもしれない。つまるところ、」
ボクたちはこの世界のことなんてほとんど何も知らないんだよ、と。
博士はそう締め括った。
これまで事あるごとに『この世界』といった表現を使ってきているが、その『世界』とは飽くまで自分の身の回りの範囲を指し示したものだ。
グリムクロウズという惑星の全容など、何も分かっていない。
そんな未知の世界。どこかに及びもつかない力を持った、神のような存在がいたとしても不思議はないのだと。
「もう話のスケールがアレで、キリがないすね……」
流護としてはどこかワクワクしてしまう、未踏の領域という単語。しかし知られていないゆえに、何か恐ろしいものが潜んでいる可能性もありえる。
未だ解明されていない部分の多い、ファンタジー的な……魔法めいた力が存在する世界だからこそ、なのかもしれない。
「……あ、そうだ博士。神詠術っていえば、昼間――」
ふと思い出し、流護は昼間の――身体強化の神詠術が自分に効かなかった件を博士に話してみた。
「……それは……本当なのかい?」
しかし気軽に持ちかけた話題に、博士は若干の困惑を返す。
「えっ、俺……おかしい……?」
神詠術の研究者である男の反応に、流護は不安を感じざるを得ない。
「ああ、いや。流護クン自体がここでは異質な存在なんだから、どんなことが起きてもおかしくはないよ」
「です……かね? いやでも、クレアも魂心力の影響を受けないものはない、とか言ってたし……そう考えると、やっぱおかしいんじゃ」
「はは、不安かい? まぁでも、いい機会かもしれないね。何かの参考になるかもだし、詳しく聞かせてくれるかな?」
今日の身体の調子。食事の時間。身体強化を施されたときの状況。
まるで医師の診察のように、次々と質問を受けていく。
「うーん……それじゃあ最後に。流護クンって、病弱だったり……しないよねぇ、どう見ても」
「あ……いやでも、子供の頃は意外と弱かったすよ。丈夫な身体を作るため……ってのも、空手を始めた理由ですし」
「なるほど……」
ふーむ、と博士は唸りつつ腕組みをした。
「ボクの考えとして、魂心力は空気と同じようなものだと思ってるんだけど」
「博士の発表した論でしたよね」
神詠術研究者たるロック博士の理論。
ベルグレッテに聞いた話では、この説を公表したことで、博士は命を狙われたりもしたという。
「空気と同じってことは……当然、ボクや流護クンも日常的に魂心力を吸い込んでるワケだ」
「……その割には何もないすよね。神詠術が使える訳でもないし」
流護は何となく自分の胃の辺りをさすった。
「ボクたちの臓器には『宿らない』のかもしれないね。だから検査でも反応しない。元々、この世界の住人じゃないからね。けど、身体の中に取り込んではいるんだ。影響が全くないワケじゃない」
博士は胸ポケットからタバコを取り出しながら続ける。
「流護クンはこの世界に来た当初、自分の身体についてどう感じた?」
「身体について……ですか?」
今でも、はっきりと覚えている。
いつの間にかこの世界へ迷い込んで、巨大すぎる月に圧倒され、ミネットに出会って、コブリアに襲われて――
「身体が、軽いなって」
そこで怨魔を撃退した際、感じたのだ。自分で想像した以上の、爆発的な踏み込みを実現して。
「そうそう。ボクもね、最初は思ったんだよ。ちょっと身体が軽いなって。で、その後に知るワケだ。この世界の重力が弱いということを」
「ん? あれ、それって……」
そこで思い込んでしまうんだ、と博士は言う。
地球人としての知識があるゆえに。魂心力の知識がないゆえに。
身体が軽いと感じたのは、重力が弱いからなのだと。それも正確には、間違いではない。
しかし今なら知っている。
魂心力が、生命力や活力を生み出すことを。
ミアの件で対峙したレドラックはそれを目的に、高い魂心力を宿す人間を集めていたのだ。
「そして……これまでの流護クンを見て、魂心力の力が予想以上のものだということも分かった」
「え? これまでの俺?」
「以前キミが入院したときに、ボクが言ったことを覚えてるかい? 結果として、ボクの予想が一つ外れてるんだ」
「博士の予想……ああ、」
入院することで、流護の肉体が衰えるだろうと。退院する頃には、ただの人になってしまっているだろうと。
しかし流護の肉体は、予想されたほど衰えることはなかった。
あのとき博士は、流護の元々の筋力や骨格が違うせいではないかと言っていたのだが――
「この世界に来てもう二ヶ月かな? 今も流護クンは常に鍛練してると思うけど、どんなに重石をつけたところで、地球と比べたら身体全体にかかる圧力が弱いことに変わりはないんだ。だけど……」
だけど、流護は衰えていない。
娯楽に乏しい分、鍛練に割く時間も増えた。身体はその修業に応えるかのごとく、練度を高めている。
空手の型はもはや少し怪しいかもしれないが、腕回りや腹筋はわずかに厚みを増していた。
「自分で気付いてないだけで、魂心力の影響は受けてたのか……」
流護は自分の両手のひらをまじまじと見つめた。
重力のせいだけではない。魂心力という目に見えない恩恵。自分には何の関係もないと思っていたもの。
しかし流護が爆発的な力を発揮できるのは、これらの相乗効果――
(……?)
ふと、何かが引っ掛かった。
些細な違和感。
それだと、何かがおかしいような――
「例えば、ボクだって同じだしね」
流護の思考に割り込むように言って、博士は火を点けたタバコをふかす。
「同じって?」
「十四年も……いや、地球時代を含めれば何年になるのかな。ろくに運動もせずデスクワークの毎日で、タバコもこーんなに吸ってるけど、病気もすることなく健康そのものなんだよ」
博士はそれこそ健康に悪そうな紫煙を吐き出しながら、デスク上にある紙束の一つを手に取った。表紙には『病気について』の文字。
「こういった文明の発達してない世界では、病気というものが非常に恐ろしいんだ。目に見えない病魔というものは、知識のない古代の人々からすれば、まさに呪いか神の裁きに思えただろう」
博士の説明によれば、このグリムクロウズでは、驚くほど病気の流行というものが見られないのだという。
つまりそれも、大気中に存在する魂心力の恩恵なのではないか。それが博士の見解だった。
だとすれば、何と便利なものか。
病気も少なく、ケガも神詠術で治癒できる。であれば、危険な手術などをする必要もな――
「……あれ?」
「どうかしたかい?」
「いや……病気もあんまりなくて、ケガとかも神詠術で治せるのに、解剖とか結構発達してるんですね」
脳、心臓、脊髄に宿ると判明した魂心力。的確にそれらの部位を抜き取っていたキンゾルという老人。
文明の規模に比べると、解剖知識の質が高いように感じる。
「ああ、それはね」
病気が全くない訳ではない。むしろ、地球にはないような難病も存在する。
例えば、『ミージリント筋力減衰症』。十歳程度を境に次第と筋力が低下していってしまう病気で、早い段階で手術を施し、人工筋肉を詰める必要があるのだという。神詠術だけではどうにもならず、対処には人体に対する高い知識が必要となる病気の一つとされている。発症確率は高くないものの、莫大な治療費がかかるそうで、一般的な平民の家庭では金を工面できず、為す術なく死が訪れるのを待つしかないことも多いそうだ。
また、神々の信仰篤いこの世界。先ほどの博士の話にもあったが、中には怨魔を邪神として崇める者も少なからず存在する。
このような集団は、人体の一部や臓器を供物として捧げることもあり、それなりの知識を持っているとのこと。
経緯や詳細は不明だが、五百年ほど前から、急速に医学が発達したという説もあるらしい。
「まぁ、そういうワケでね。この世界にあるものはみんな、魂心力の影響をちゃんと受けてるんだ。人も動物も植物も大地も建物も、もちろんボクや流護クンもね。だから、心配することはないよ。身体強化が効かない点に関しては、ちょっと調べてみるさ」
「そう……ですか」
そこで流護は、何となく思いついたことを口にしてみた。
「そうだ。博士が身体強化受けたらどうなるんですかね?」
「はは。インドア派なボクが身体強化してもねぇ。同じ地球人だから、流護クンみたいに効かないかもしれないし……効いたとして、ただでさえ歳だからね。筋肉痛と反動の二重苦は勘弁願いたいところだよ」
二人で笑い合う。
「ああ、流護クン。念のためだけど……身体強化が効かなかった件、他言しないようにね。流護クンの素性を知ってる人以外には、絶対に」
「あ、そうすね……分かりました」
何やらおかしいみたいだし、そんなことを人に喋ってもマイナスにしかならないだろう。
……と、そこで流護は思い出す。
「……つうか、博士こそ他言しないでくださいよ? リーフィアのケーキに釣られたとか、そんな理由で」
「え? あ、はっはっは。何のことやら」
博士には、リーフィアのケーキに釣られて流護の情報をエドヴィンに売っている前科があるのだ。今となっては随分と懐かしい話にも思える。
しばし談笑に興じるうち、気付けば夕食の時間となっていた。
呼びに来たベルグレッテたちと合流し、流護は食堂へ向かう。
身体強化が効かないのもおかしいみたいだし、ちょっと栄養バランスに気をつけた方がいいのかな、なんてことを思いながら。
マッチを擦って、博士は次のタバコに火を点けた。
立ち上る煙をぼんやりと眺めながら、神詠術の専門家は思考を巡らせる。
――最後は少しヒヤリとしたが、彼は気付かなかったようだ。
いや、途中で怪訝そうな顔をした場面があった。薄々、おかしいと思っていたのかもしれない。
空気のごとく、全ての存在に触れる魂心力。
それは当然、博士や流護とて例外ではない。
この大地に生きる以上、少なからず魂心力に触れているのだ。この世界の人々のように『宿す』ことはできなくとも。
だから当然、流護の能力が向上していることには魂心力が関係している。
だが、やはりおかしいのだ。
魂心力『だけ』によって、徒手空拳だけで渡り合えるほどに強化された肉体。重力の影響など無視するかのように、劣化の兆しを見せない身体。
そして。
博士とて神詠術を研究し続けて十四年。
当然、試している。己に身体強化が効くかどうかを。
結果は、いうまでもなく有効。
自分の思った以上に身体が動くというのは、何とも奇妙な感覚だった。先ほど流護に語った通り、調子に乗って動き回ったところ、あっさり筋肉痛になってしまった。反動による局所疲労もひどいものだった。
ともかくとして、身体強化が効くのは当然。動物にすら効果があるのだ。何より、対象が秘める魂心力へ働きかける強化や防護の術。
魂心力に触れていないものなど存在しないため、効かないはずがない。
――現時点で研究中の、『あれ』以外には。
そこで、研究棟の階段を上ってくる足音が響いた。
流護たちは出ていったばかり。となれば――
博士は見られたくない資料のいくつかを、デスクの引き出しへと突っ込む。
「こんばんは、お邪魔しますよ。ロック博士」
現れたのは、予想通りの人物だった。
博士と同じ白衣を羽織った、王都の研究者。年齢はまだ四十そこそこだろうが、業務に不満でも感じているのか、その髪には白いものが多く混じっている。
「やあ。どうしたんだい、こんな時間に」
「以前より行っていた実験の最終結果が出ましたので、その報告に」
研究者は、勧められるまでもなくソファへ腰掛けた。
「実験対象だった怨魔についても、過去と同様の結果が出ました。高ランク体の研究はできていませんし、試数も少ないため、絶対とまではいえませんが……ほぼ、確定と考えて良いと思います」
こくりと頷き、ロック博士は先を促す。答えを半ば予測しながら。
「怨魔という存在は、身体強化系の術を全く受け付けないという結論になりました。確かに奴らは、強化など必要としない強固な生物ではあるのですが……、どうなっているのでしょうね。やはり魂心力を全く内包していないとでもいうのでしょうか。さすがは神に仇なす異形の怪物たち。主の加護たる神詠術の慈愛を受け付けないとは……奴ら以外にいないことでしょう。かように異質な存在は」