131. 飛躍
「博士。チャリ作れませんか?」
「キミはいきなり何を言い出すのかね?」
夕暮れの赤に染まる研究棟の一室。
開口一番、ロック博士に持ちかけた流護会心の提案は、困惑をもって返されてしまった。
「いや、思ったんすよ。俺が全力で走って馬と同じぐらいなら、チャリがあれば馬より速く走れるのではないかと。つまり遊撃兵としての俺は、チャリに乗ればいいのではないかと」
「それ地面のこと考えてないでしょ流護クン。アスファルトみたいに舗装された路面なんてほとんどないから、この世界で快適にサイクリングするのは難しいと思うよ?」
「あ」
それもそうだ。外の街道は言わずもがな、王都の石畳ですら思った以上に粗い。ガーティルード家の敷地などは驚くほど整備されていたが、あれは例外といっていい質のよさだ。
自転車に乗ったところで、真っ当な移動手段とするのは厳しいかもしれない。この世界へ来てから常日頃感じている移動の不便さというものは、やはり簡単に解消するものではなさそうだ。
「はー、ダメか……」
颯爽と馬を駆る騎士たちの中、一人だけ超スピードの自転車を唸らせる自分――というファンタジー世界ぶち壊しの想像図は、実現することなく崩れ去ってしまった。
「そもそもボクは、昔のロボットアニメに出てくるみたいな便利道具をポンポン発明するタイプの博士じゃないからね? 飽くまで特定分野の研究者だよ。前に作ったダンベル程度ならともかく、自転車となるとねぇ~」
「それもそうすね、……?」
そこでふと、ある疑問が流護の脳裏をよぎった。
ロック博士……岩波輝は、日本にいた頃も研究者だったと聞いている。ではそのときは、何を研究していたのだろうか。思えばこれまで、そういった話をしたことはなかった。
早速訊いてみようと口を開きかけた流護だったが、ふとデスクの上にある資料が視界に入る。
いつも散らかっている博士のデスクだが、今日は輪をかけて乱雑だった。無造作に置かれた紙束の数々、それらの表紙に走り書きされた題字。
グリムクロウズの文化について。歴史について。病気について。惑星の公転周期について。臓器に宿る神詠術。
「――――」
数々の資料の中、一際目を引くものがあった。
帰る手立てについて。
それを凝視したまま固まった流護に、博士はバツの悪そうな笑みを見せる。
「はは……もうどちらかっていえば、帰りたい云々っていうよりは、真相を解明したいっていうのが目的になっちゃってるんだけどね」
「博士……」
ロック博士――岩波輝がこの世界へやってきて十四年。
流護は、研究者たる博士がこれほどの長期にわたって帰れずにいると聞いたことで、早い段階で諦めてしまっていた。
しかし、岩波輝は違う。十四年もの間――今もまだ、その手段を探し続けている。
なまじその手立てに手が届くかもしれない、研究者という人種であるがゆえ……なのかもしれない。
「ボク自身はさ……もう十四年も経っちゃったし、仮に今さら帰れる方法が見つかったとしても、帰らないと思う。空白期間のギャップを埋めるのも大変だし、それに今になってボクと娘が再会したところで、向こうにしてみれば見知らぬおじさんでしかないからねえ」
博士は溜息を漏らし、
「……なんて言えれば、かっこいいんだけどねぇ」
そう、自嘲気味に言い結んだ。
「…………」
流護は思う。
自分なら、どうだろうかと。日本へ――元の居場所へ戻れるなら、どうするだろうかと。
この世界に来た当初は、当然ながら帰る方法を探すつもりでいた。ベルグレッテに勧められるままこの学院へ滞在したのも、そのためだ。
グリムクロウズにやってきて、帰れはしないと見切りをつけ、早二ヶ月。色々あったが、流護はこの世界になじみつつある。遊撃兵という職にも就いた。
帰還は、皆との……ベルグレッテやミアたちとの別れを意味する。
そして、父親や『あいつ』との再会を意味する。
――俺は……、どっちを取る?
「まぁ何だかんだで、長年かかっても解明の糸口さえ掴めない謎の数々に、楽しさを感じてるのも事実さ。この世界は何なのか。ボクと流護クンはなぜこの世界に迷い込んでしまったのか。神詠術とは何なのか。怨魔とは何なのか。分からないことの方が多いぐらいだ。んん、実に興味深いじゃない」
ロック博士は努めて明るく笑う。
答えの出そうにない無意味な葛藤を頭の片隅へと追いやり、流護は博士の話に乗った。
「でもまじで……何なんでしょうね、このグリムクロウズって世界は」
今や当たり前のように暮らしている、地球とは異なるこの世界。文化や風習、常識の違いに戸惑うことも未だ多いが、最近では何だかんだ慣れてしまっている。
「そこだよね。宇宙のどこかに地球と酷似した環境の星があって、ボクたちと姿形の変わらない人間が住んでいて、あまつさえ言葉まで通じて、そこにボクらが迷い込んで……。宇宙だとかそんなものは、ボクたちに計り知れるものじゃない。ボクたちには到底理解しえない何らかの理由によってそういったことが起こる確率も、決してゼロじゃないのかもしれない。――けどね」
ロック博士のメガネが光を受けて、怪しく反射する。
飽くまで理論的に考えたいらしい研究者は、「仮説があるんだ」と挑むように呟いた。その不敵な笑みは、本気なのか冗談なのか読み取りづらい。
「ボクたちが置かれているこの状況。得体の知れない別世界へ飛ばされてしまったと考えるよりは、まだありえるかも……って思える仮説があるんだ」
「え……? なん、すか? それ」
予想もしなかったその言葉に、流護は固唾を飲んで耳を傾ける。
博士は口にした。真剣そのものといった表情で。
「ボクたちが巻き込まれたのは、地球そっくりな異なる世界への転移などではなく――時間の跳躍。つまりこのグリムクロウズは、過去の地球なのかもしれない」
「…………、……は?」
流護の表情を見て、博士は堪えきれないとばかりに吹き出した。
「ははは、まぁそうなるよね」
「あ、ああ。えーと……でもそれなら、何で過去なんですか? 未来かもしれませんよ」
せっかくなので話に乗ってみる。
流護はオカルトや超常現象といった類の話が嫌いではない。ロマンがあると思う。古代に栄えた超文明、オーパーツなんて話も、聞いただけでワクワクしてしまうほうだ。
古代の地球には、今では全く痕跡の残っていない魔法めいた力を使った文明が存在した。それがこのグリムクロウズ。そんな話も面白いかもしれないが、なぜ『過去』なのだろう。遥か遠い、数え切れないほどの年月を重ねた『未来』の世界かもしれないじゃないか。
そんな流護の疑問に対し、博士は目を細めて頷く。
「まず……この世界の特徴ともいえる点。重力が弱いこと。そして、月が大きいこと……だね。ひとまずこの世界で発展してる文化とかはさて置いて、惑星の特徴という部分でのみ考えるんだけど」
博士は淡々と――しかしどこか楽しそうに語り始めた。
誕生した頃の地球は、自転周期が早かったといわれている。自転が早ければその分、重力というものは小さくなる。遠心力が働くからだ。
当時の月は、地球よりわずか二万キロメートルの位置に存在していたという。ジャイアント・インパクト説と呼ばれるものを前提とした話だそうだが。現在の地球と月の距離は約三十八万キロメートル。原初の地球から月を仰いだなら、さぞ大きく見えたことだろう。ちなみに現在、月は少しずつ地球から遠ざかっているのだそうだ。
この世界が『過去』の地球かもしれないという仮定は、そういった点から生まれているらしい。――が、博士は即座に自分で疑問を呈してみせる。
「けど……そういった部分を考慮しても、やっぱりおかしい点だらけなんだよね」
まず惑星の自転周期が早かった場合、一日の時間が短くなってしまう。それこそ原初の地球などは、一日の長さが五時間から六時間だったといわれている。しかしグリムクロウズは、地球とほぼ同じ二十四時間で回っている(博士も厳密に計測したことはないそうだが)。先の仮説とは合致しない。
「それに何より引っ掛かるのが、やっぱりこの世界の重力なんだよねえ~」
重力が小さい場合、まず大気が薄くなる。大気というものは天体の重力によって引きつけられることで存在しているため、重力が弱ければ宇宙空間へと拡散し、空気が薄くなってしまうはずなのだ――と博士は言う。……が、流護はこの世界へやってきて、空気が薄いなどと感じたことはなかった。
魂心力が何か作用してるのかもしれないね、と研究者は頭を掻きむしりながら呟く。
そして何より無視できないのは。あの空に浮かぶ、あまりにも大きな月だ――と博士は言う。
「流護クンは、ロシュ限界とか潮汐分裂って知ってるかい?」
「……? いえ」
主星と伴星が近づいた場合、主星の重力からなる潮汐力によって伴星は歪められ、破壊されてしまう。これを潮汐分裂という。その破壊が起こらずに近づける限界の距離、それがロシュ限界だ――と博士は語った。
「ん? よく分かんねーけど……つまり、星と星は近づきすぎたら壊れるってことでいいんすか? 潮汐力……っていうのはどういう力なんすか?」
「おっ、説明しようか?」
「あ、やっぱいいです」
博士の目が嫌な輝き方をしたので、本能的に危険を察知した流護はサッと回避した。長くなりそうなうえ、聞いたところで分かる気もしない。星同士が近づきすぎた場合、壊れてしまうと考えておけばよさそうだ。
そのロシュ限界は、地球と月に対しても存在するという。その距離は――
「あー、どれぐらいだったかなぁ。九千キロだか一万数千キロだかって話だったと思うけど。さすがに十五年近くも昔の知識を引っ張り出してきてるだけだからね。詳しいことは忘れちゃったねえ」
「はあ……」
大きすぎる数字のせいか、正直ピンと来なかった。流護は窓の外に広がる空を眺め、漫然と考える。
つまりあの月は、ああして平然と存在している以上、ロシュ限界の内側には入っていないということになるのか。あれだけ近ければ、限界値を超えてしまっているのではとも思えるのだが。いやそもそも、地球とこの星では環境が異なる訳で、そうなればロシュ限界も違う数値になるだろう。
「あれだけ近いとダメなんじゃないかって思うよね。けれどあの月は、平然とあそこに存在している。だとすれば、どんな可能性が考えられると思う? この際、常識とかそういうものは放り捨てて考えてさ」
「え? いや、そう言われても……」
そもそも苦手な分野の話だ。もう他の話題に切り替えたい――と思っていた流護は、しかし続く博士の言葉にぞくりとした。
「例えば、あの巨大な円が……月じゃ――天体なんかじゃないとしたら?」
「…………、」
答えられず、流護は無言で窓の外を見やる。
今は昼間だが、大きすぎる『月』は、確かにすぐそこへ存在しているといわんばかりにうっすらと白んで見えた。
あの巨大さだ。雲のない晩には、クレーターらしきものだって見て取れる。どう見たって、あれは月に違いない。
だが。
それが、クレーターでない可能性。空に浮かぶ円だから、月だと認識しているだけである可能性。流護たちの――地球の知識だけでは考えもつかない、正体不明の『何か』である可能性。きっと博士は、そういうことを言っている。
昼間の、盲点を突かれたクレアリアの話を思い出す。地球の知識を前提で考えてしまい、それ以上深く考えることを無意識に放棄してしまっている可能性。
「いや、でも……月じゃ……なかったら、何なんですか? あれは……」
空に浮かぶ『それ』が急に得体の知れないもののように思え、流護はかすれた声で聞き返してしまっていた。
「ははは。だから、例えばの話なのさ。ここは魔法みたいな力が存在する世界だ。なら、地球の常識だけに囚われた考え方をすること自体が、間違いなんじゃないか。時には、突飛にすぎる飛躍した発想も必要なんじゃないか。この世界で十四年も過ごして、そんな風に考えるようにもなったんだよ」
そういうのもワクワクしない? と博士は冗談めかして肩を竦めた。
「まぁこの話題については、とりあえず隅っこに置いておこうか。結局のところ、答えなんて出ないしね」
メガネのフレームを押し上げながら、博士が苦笑する。
「この世界っていえば……そもそも、言葉とかどうなるんすか? イリスタニア語とかいって、どう考えても日本語なんすけど」
創作物ではある意味『当たり前』のことだが、流護としては実体験してしまっている以上、そこに引っ掛からざるを得ない。
このグリムクロウズが過去の地球だろうが何だろうが、現代日本で使われている言葉がそのまま通じていい理由にはならないだろう。
しかし博士は、あっけらかんとその疑問に答える。
「事実、日本語なのさ」
「え?」
「遥か昔、ボクらと同じようにこのグリムクロウズへ飛ばされて……『時間跳躍』をしてきた人がいました。その人は現代日本人で、この世界ではオーバーテクノロジーと呼んで差し支えない知識や技術を披露し、それらと神詠術が融合して、世界は発展していきました。その人物の扱う日本語も、次第に各地へと広まっていきました。……ってのはどう?」
「どう? って言われても、なぁ……」
どう、なのだろう。
まさしく先ほど博士自身が語った、突飛な発想だ。
しかし当然、このグリムクロウズへやってきたのが流護と博士だけであるとは限らない。むしろ、これまでにも誰かが同じように飛ばされてきている可能性はあるのではないだろうか。
現代日本において、年間の行方不明者数は約一万人にも及ぶと聞いたことがある。博士や流護も間違いなくその中に含まれることになるが、日本だけで一万人もいれば、きっと他にも――
……突飛どころか、アリなのではないかと思えてしまいそうになる。しかしさすがに、迷い込んだ人々が相当数いたとして、日本語だけがここまで広がるとは考えにくい。
とすれば、そこで飛躍した発想の出番だ。どうして、日本語がここまで広まったのか、と。その理由は……?
……発想というより、妄想だろう。
流護は窓の外に広がる空を眺め、くたびれたように呟いた。
「はぁ。にしても実際、ここまで地球に似た環境が……世界があるもんなんですね」
分からないことだらけだが、自分がそんな世界にこうして立っている以上、そこは認めるしかない。
「ボクたちがいくら考えたところで、全く理解の及ばないこの世界だけど……その中でも、最たるものと言ってもいい――ほとんど解明の進んでいない、奇跡や魔法と呼んで差し支えないモノが存在する」
「神詠術……」
流護はその名を呟いていた。
地球と似ているようでいて、何もかもが異なる世界。そんな世界において主軸とでも呼ぶべき、神の所業とされる奇跡の力。それこそ仮にこの世界が過去の地球だったとして、謎にすぎる不思議な力。岩波輝は自然と、当たり前のごとく、その力に惹かれていったという。
「未だ予想もつかない効果を生み出す術もあるだろうし……きっと、ボクが知らない属性だってあるだろう。魂心力というモノもあるしね。で、だ」
どこか遠い目をしつつ、
「そこはまた大胆に考えたことがあってね。仮に……仮に、だよ」
ロック博士は、その仮説を語る。
「何者かが……神詠術によって、この惑星の環境を地球と同じように保っているのだとしたら――どうだろう?」
「……、そっ……」
今までの話の比ではない。あまりに突拍子もない説だった。
地球と似たような環境が作られている? 何者かの術によって? 意図的に?
その神詠術で天候の変化すら引き起こす『ペンタ』だが、その仮説が正しかったとしたなら、『それ』は『ペンタ』の比ではない。世界に――惑星に干渉している。そんなことができる存在がいたとしたら、それはもはや――
「――神、そのものじゃないすか。そんなもん」
流護の呟きに、博士は「そうだね」と真顔で返答した。
「魔法みたいな力や、怨魔なんて怪物が存在する世界なんだ。神様だって、実在するかもしれないよ? もしくは――」
「――神と呼んで差し支えない力を持つ、『何か』が」
ぼそり、と。研究者であるはずの男はそう呟いた。
その規模。そんな事象を現実のものとする神のごとき『何か』。それが神詠術によって成されているというのなら、その神詠術とはそもそも何なのか。その神詠術を行使するにあたって必須となる、魂心力とは何なのか。
ああ、なるほど。岩波輝という男はそういった謎に魅力を感じ、取り憑かれていったのかもしれない……。
からからと、冷術器の羽の回る音だけが室内に響く。
この暑さにもかかわらず、どこかヒヤリとした空気を感じた気がした。