130. 試してみる
「むゆ……」
まぶた越しに感じる眩しさが、ミアの意識を呼び起こす。
気付けば、昼神インベレヌスの恵みが思い切り顔を照りつけていた。寝返りを打って逃れようと試みるも、どの角度でもその熱気は変わらず、あまり意味がなさそうだ。神様がそろそろ起きろと呼びかけているのかもしれない。
「あづぃ……」
この時期、いくら冷術器を回して寝たとはいえ、これではたまらない。油断していたら肌も焼けてしまう。
寝ぼけまなこのまま、むくりと起き上がる。
「……クレアちゃん……?」
隣で寝ていたはずの、クレアリアの姿がない。
見れば、枕元に転がった小さな時計は十二時を示している。もう昼だ。とっくの昔に起床し、どこかへ行ってしまったのだろう。
「うう~」
星遼の月、七日。
ガーティルードの屋敷から学院に戻って、二日。
拉致監禁の際に味わった恐怖から未だに一人で眠れないミアは、昨夜はクレアリアに来てもらって一夜を過ごしていた。しかし、起きてみれば一人。やはり途端に心細さが押し寄せてくる。
「ベルちゃんだったら、置いてかないで優しく起こしてくれるのに~」
寂しさを紛らわせるように呟き、とりあえず手近に置いてあった制服に着替えて、部屋を出ることにした。
外に出た。
学生棟の廊下にも、建物を出た目の前の広場にも、人の姿は見当たらない。ここまで、誰かに会うこともなかった。
いつも喧騒に包まれている空間は、不気味なほど静まり返っている。
雲ひとつなく晴れ渡った青空との対比が、異質さを助長しているようにも思えた。
『蒼雷鳥の休息』。
約二週間にわたる長期休暇のため、大半の生徒が実家へ帰っているのだ。当然ながら、おなじみのクラスメイトたちも皆、里帰りしてしまっている。
毎年、学院には十名程度しか残らない。それも主に、実家が王都やディアレーで、近隣の街へ出かけるための拠点として部屋を利用する者たちばかりだ。
ミアはもはや帰る家もないため、ここで過ごすしかない。
今年も例年と違わず、十名程度しか残っていないようだった。
「……、」
それを分かっていても、静けさのあまり、急に自分ひとりだけが取り残されたような気持ちになってしまう。
流護あたりがいるかもしれない。ミアはとりあえず、いつもの中庭へ行ってみることにした。
学生棟に沿ってぐるりと中庭へ近づくと、何やら人の駆け回るような音が聞こえてきた。流護が修業でもしているのかもしれない。
「誰かいるー?」
少しホッとしつつ、急ぎ足で建物の角を曲がってみると――
横に薙がれた水流を、流護がのけ反って躱す。
「チッ――!」
忌々しげに舌打ちしたクレアリアが慌てて体勢を整え直すが、間に合わない。
「シッ!」
視認できないほど速い流護の拳が、自律防御に着弾して水柱を吹き上げた。
クレアリアは水の散弾を放ちながら間合いを離し、流護はその場で腕を上げて防御を固め、全ての投撃を防ぎ切る。
そうして、二人は中距離で向かい合った。
「ウワー! なんか決闘してるー!」
ミアは慌てて飛び出した。
「お、ミア」
「ミアですか」
「ふ、二人ともどうしちゃったの!? いやベルちゃんを巡っていがみ合ってるのは分かるけど、こんな昼間から堂々と殺し合いなんてだめだよ! 二人が共倒れになったら、あたしの一人勝ちだよ!? ミアちゃん大勝利だよ!?」
ぶんぶんと両手を振りながら二人の間に入り、説得を試みた。
「どさくさに紛れて何を言ってるんですか貴女は」
――暑い夏。燦々とインベレヌスの恵みに照らされる中、クレアリアの瞳はどこまでも冷たいのだった。
「あぁ……そうなんだ。びっくりしたぁ」
トレーニング中に慌てて駆け寄ってきたミアへ事情を説明すると、彼女は安堵の溜息と共にへなへなと脱力した。どうやら流護とクレアリアが本気で決闘をしていると思ったらしい。
「クレアは鋭い動きするからな。いいトレーニング相手になるよ」
「ま、まぁ……当然です」
「こう……気が抜けないってのかな。練習でありながら、ふとした瞬間に事故りそうっていうか、殺意の篭もった一撃が混ざってるっていうか……」
「当然です」
「えっ」
「ふぅーん……」
ミアがまじまじとクレアリアの顔を見つめる。
「何ですか」
「お屋敷での……夜の決闘を経て、クレアちゃんはリューゴくんに心を開いたんだね……。おおっとぐへへ、実は心だけじゃなくて、別のところも開いちゃったんじゃねえのかあ? 違う決闘しちゃったんじゃないの? リューゴくんの拳だけじゃなくて、違うものも受け止めちゃったんじゃないのぐへへへ」
「ミアの頭を開いてあげましょうか?」
「ウワー!」
じゃれ合う二人を横目に、流護は汲み置きしていた水を頭から被る。ほとんどお湯になっていた。
「でもやっぱり意外かな。クレアちゃんは絶対、リューゴくんの話なんて信じないと思ってたよ」
「今だって全てを信じてはいませんよ。というより、信じられるはずがありません。ともかく妙な真似をするようなら、不意を突いてでも斬り伏せるつもりです。ただ……恩義があることも事実ですし」
ぷいっ顔を背けて、クレアリアは織物で汗を拭う。
「信じられないといえば、まず魂心力がない……などというのが、一番信じられません」
そう言って、クレアリアはジトッとした視線を流護に向ける。完全におかしな生き物を見る目だ。
だが隠す必要もなくなった今となれば、流護も堂々と言い返せる。
「俺から言わせてもらえば、魂心力だとか神詠術なんつーフシギパワーのがよっぽど理解できねえんだぞ」
「神詠術もなしに、貴方の国の人々はどのような生活をしているんですか? 神の加護がないなんて……さぞ不便な暮らしをしているのではないかと思いますが」
車や電車、飛行機といった移動手段。電話やネットワークという通信手段。
このグリムクロウズも、思った以上に快適な暮らしができる設備などが整ってはいるが、やはり現代の地球とは比べるべくもない。
そういった説明をしてみるも、二人は首を傾げるだけだった。
(うーん……)
説明が下手すぎるのかもしれない、と流護は心中で唸った。
いっそロック博士――岩波輝に説明させればまた違うかもしれないが、そういう訳にもいかない。さすがに博士が同郷であることは、この二人には話していないのだ。
そこで考え込むようにしていたクレアリアが、流護へ顔を向ける。
「ふと思ったのですが」
「ん?」
「アリウミ殿は、実際に神詠術を使おうとしてみたことはあるんですか?」
「はい?」
言っている意味が分からず、流護はきょとんとする。
「ですから。実際に集中し、魂心力を練り、神詠術を行使してみようとしたことはあるか、と訊いてるんです」
「え、いや……」
あるはずがない。そもそも集中するだの魂心力を練るだのといった行為自体、流護にはよく分からないものなのだ。
……部屋で前方に手を掲げて「ハッ」とかやってみたこともない訳ではないが、当然ながら何も出るはずはなく。
「仮に、百歩……千歩譲って、アリウミ殿の住んでいた――チキュウ? に神の力が及んでいなかったとしましょう。であれば、神の恩恵である神詠術を使えないことにも納得がいきます。神の庇護下にないのですから。ですが、ここはグリムクロウズ。神の慈愛に守られた地。故郷で術が使えなかったアリウミ殿でも、この世界でならば使えるんじゃないですか? 単に、使い方を知らないだけで」
「……………………」
考えてもみなかった発想だった。
神詠術なんて魔法みたいな力、自分には使えない。当然のように、そう考えたことしかなかった。
神がどうこうといった話は置いておくとして、この世界には魂心力という謎の力が存在する。当然ながら、そんなもの地球には存在しない。
魂心力がないから、地球では神詠術を使えない。そして、詠唱の仕方を知らないだけ。
仮にそう考えるのなら……例え地球人であっても、条件さえ整っていれば――?
「どうしました?」
「……いや。考えたことすらなかった」
流護は自分の手をまじまじと見つめる。
「呆れた。なら、実際には使えるのでは?」
「たってなー、詠唱とか集中とかよく分からねえし……」
「うーん……集中は集中だよ。こう、自分の中にある魂心力を一点に集める感じで……」
そう言って前方に手を掲げるミア。その小さな手のひらに、彼女の属性である雷がパチリと火花を散らす。流護も倣って手を突き出してみた。
「ふむ。集中、集中か……」
目をつぶり、呼吸を整える。腹部に――丹田に意識を集中し、体内の気を巡らせる――
(……、この、感覚――――来る!)
バブリ。
「や、やだぁリューゴくん! おならしたー!」
「いや、はっはっ……これは失敬」
「――分かりました。貴方はどこまでも神詠術を侮辱すると。そういうことですね」
クレアリアが真顔で腰の剣に手をかける。
「うあああぁ違うって! 集中したらなんか腹の方に行っちまって! ごめんなさい! いや、やっぱ使えないって! 全然感覚が理解できねえもん!」
それぞれの世界における魂心力の有無。扱い方を心得ているか否か。
一瞬盲点かと思ったクレアリアの説だったが、そもそもそれならば神詠術研究の第一人者であるロック博士が気付かないはずもない。大体にして、小さな火を起こしたりわずかな水を生み出したりするという、詠唱不要な簡易術ですら当然ながら使えないのだ。そういったことすらできないのに、本格的な神詠術など使えようはずもない。
流護はただひたすら、敬虔な信者である少女に謝り倒した。
「やっぱり、リューゴくんには無理なのかなー。あ、そういえばさ、話は変わっちゃうけど」
ミアがふと思いついたように声を上げる。
「リューゴくんに身体強化使ったら、どうなるんだろ? ただでさえすごい動きするのに、もっとすごくなったらどうなっちゃうのかな?」
「ふむ……」
またしても盲点というべきか。面白そうな提案だ。
それなら流護でも簡単に、神詠術の恩恵を味わえるかもしれない。術で強化された状態とはどういう感覚なのか、興味もある。
「やってみるか。よし、じゃあ頼むぜ」
「……」
「…………」
妙な沈黙が支配した。
「何だよ、この間は」
「あたし使えないし、クレアちゃんじゃないと」
「えぇー……」
クレアリアが心底嫌そうな声を出した。
「おい、ちょっと傷つくんですけど……」
クレアリアは渋々といった様子で流護にハンカチを差し出す。
「施術するには身体に触れなければなりません。譲歩して、手が限界です。汗を拭いてください」
暗殺者の件でケガしたときは優しく治療してくれたのに……あとこないだ腹が痛いって言ったときも……と思いつつ、丁寧に手を拭う。実際に汗をかいているので、仕方ないのかもしれない。屁をこいて好感度も下がったのだろう。
「よし、じゃあよろしく」
「では右手を出してください」
言われるままに右手を出すと、クレアリアが握手するように手を取った。
「では、腕を強化します。…………はい」
手が離れた。
「……?」
手のひらをまじまじと見るも、にぎにぎと開閉してみるも、特に変わった感覚はない。力が湧いてくるような感じもない。
その場で軽く拳を突き出してみるが、
「……んん?」
違いが分からない。
片隅の木から下げているサンドバッグ(自作)を叩いてみるが、威力が増しているような様子もない。
「あれ、効果なし?」
「そんなことは有り得ないんですが……」
ミアとクレアリアも不思議そうだった。
「違いが分からん。次は脚力強化してもらっていいか? 走ってみれば、すぐ分かるだろ」
同じように強化を施してもらい、中庭を走ってみるが――
「うっわ、リューゴくんほんと速いなぁ~。……でも、速いけど……」
「強化されているようには見えませんね」
流護としても、身体強化の効果が出ているようには思えなかった。走るスピードは、いつもと変わりない。ガーティルード家の愛馬ことポテと追いかけっこをしても捕まえることはできないだろう。
「はー……どういうことなんだ?」
戻ってきた流護は、息をつきながら疑問を口にする。
「こちらが訊きたいぐらいです。反動もありませんか?」
身体強化には基本、反動が伴うのだという。
術式の構成如何では抑えることも可能らしいが、術に対する深い理解が必要だそうで、クレアリアでは不可能とのことだった。
という訳で、強化を受けた流護にはそろそろ反動が出てくるはずなのだが――
「それっぽいのはないな……」
「身体が重いような感じはありませんか?」
「うん……ないな」
「どういうことなんだろ。反動がないってことは、やっぱり術が効いてないってこと? 実際、効果もないみたいだし……」
「かもしれませんね……」
前例がないことのようで、クレアリアも困惑気味だ。
「あれか? 俺には魂心力がないから、それで効かないとか」
「しかし……魂心力の影響を受けないものは存在しないといいます。身体強化は動物にだって効果がありますし、建物や街道にも防護や魔除けの術を施しますし」
「でもあれだ。俺も回復の術は効くし、攻撃の術も効くぞ」
「そこは……術の性質の違いかもしれません」
攻撃や回復の神詠術は、己の内包する魂心力を練り上げて、対象に向かって放つタイプの術。強化や防護の神詠術は、対象の中にある魂心力に働きかけて、活性化させるタイプの術。ということらしい。
となるとやはり――
「リューゴくんには魂心力がないから、強化が効かない……?」
「通常では考えられませんが……そういうことになるかもしれませんね」
と、そこでクレアリアの耳元に波紋が広がった。
「リーヴァー、クレアリアです」
『リーヴァー、ベルグレッテよ。そろそろご飯にしない?』
芝生に転がしてある懐中時計を見れば、十二時半。
図書室で勉強中のベルグレッテと合流し、昼食をとることになった。