129. 今は
鈍い音、そして感触。
クレアリア渾身のつま先蹴りが、流護の脇腹へ深々と突き刺さった。
騎士たちが着用しているブーツは、ただの履物ではない。先芯にウラッド銀鉄が用いられることで、鋼と変わらない硬度を実現している。
足の上に重量物を落としてもケガをしないよう考案された作業靴が元となっており、独自の改良・研究が重ねられ、現在では攻防を兼ね備えた兵たちの標準装備として普及していた。
この靴で蹴りつけたなら、それは鈍器で殴打することと変わらない。
――だというのに。
「……っ……!」
痛撃を浴びせたはずのクレアリアが後ずさる。
「堂に入ってるっつーか……しっかり腰の入った右ミドルじゃねえか。おっかねぇなーおい」
これ以上ない直撃だったというのに。
流護は蹴られた脇腹をさすり、薄く笑う。
決まれば大の男さえ悶絶させる鋼の蹴打を受けた遊撃兵の反応は、ただそれだけだった。
(……、)
人智を超えた筋力に速度。そして――耐久力。
何だというのか。本当に、人間なのか。
「……っ、の、怪物がっ……!」
それでも歯を食いしばり、小さな騎士は目の前の相手に向かっていく。
どれほどの攻防を繰り返しただろう。
あるいは、攻防などと呼べるようなものではなかったのかもしれない。
「……、はっ、はぁっ――!」
水弾を放つも呆気なくいなされ、拳を受けた自律防御は飛沫を上げて。淡々と、しかし確実に外壁を削られていくかのような感覚。
対峙する流護の瞳は、ひどく凪いですら見える。まるで、むずかる子供をあやしているかのように。
相手の一撃を防ぐのに手一杯で。こちらの攻撃は、全く通用しない。
こうして、抗っていること自体が無意味。
「……貴様、さえ、」
貴様さえ、いなければ。
有海流護がいなかったなら。
学院を襲撃した怨魔の群れによって、姉やミア……級友たちは命を落としていただろう。自分は、デトレフの策略にかかって斃れていたに違いない。
ああ……間違いなく。
命の、恩人だ。
ゾッとする。
この男がたまたま現われていなかったなら。自分たちが、とうに神の御許へと召されてしまっていたかもしれないなんて。
「貴様さえっ……!」
分かっている。
ただ、認めたくないだけ。認めたくなくて、駄々をこねているだけ。
分かっているのだ、そんなことは。
父が自分たちのために身を削って激務をこなしていて。少年に裏表なんてなくて、獅子奮迅の活躍の結果、自分だって何度も救われて。
素直に認められない自分が、ただ子供なだけで。
分かっているのだ。
この少年に出会う半年ほど前か。
リリアーヌ姫の正規ロイヤルガードであるアマンダの婚約が決まり、あのときも似たような気持ちになった。
今は重要な公務で聖妃と共に城を空けているが、帰還して落ち着き次第、式を挙げる予定だと聞いている。
相手の男性は穏やかで、優しそうな人で。きっと、二人は幸せになるだろう。
姉だって同じ。
誰よりも美しい人だ。男性だって放っておかないし、いずれは誰かと恋に落ち、そして――
姉が幸せになってくれるなら、それが一番に決まっている。
そう思いつつも。
アマンダを奪っていく婚約者の男が。姉に好意を寄せるこの男が。姉が好意を寄せるこの男が。相手をしてくれない父が。男という存在が。
「貴方のことが、気に入らないんです……っ!」
まだ、大人にはなれそうになかった。
「ハッキリ言ってくれやがって。傷ついちゃうだろうが」
少年は苦笑する。大人びた顔で。
――挑みかかる。
しかし、すでに体力も魂心力も限界だった。
喚び出す水は武器としての形を成さず、疲弊した腕や脚は動かすだけで身体が振り回される。
「……、はっ、はぁッ……!」
息が苦しい。身体が重い。心が、痛い。
繰り出した蹴りをあっさりと防がれ。スッと伸ばされた流護の腕を、ふらつきながらものけ反って躱す。
「そろそろ、自律防御出すのも厳しいみたいだな」
どこまでも冷静な観察眼。
「お見通し、という訳ですか……」
流護とは対照的に、クレアリアは荒い息をつきながら言葉を吐き出した。
「そりゃあな。加減なし、全力で……インターバルもなしにそんだけ動いてりゃ、すぐバテちまうよ」
労ってすらいるような口調で。
――なんて未熟なのか。
クレアリアは叫びたくなった。
流護にしてみれば、クレアリアは遥か格下の相手だ。無計画であっても、容易にねじ伏せることができただろう。にもかかわらず、遊撃兵の少年は落ち着いて相手を観察している。先ほど、ミアから話を聞いたとも言っていた。万全の準備を整えたうえで、この闘いに臨んでいる。
対する自分は、その場の激情に駆られるまま、粛清などともっともらしい理由を盾に、勝てもしない相手へ挑みかかっただけ。
よりによってこんな男に触れられたくない、父のことに言及されたから。そのくせ彼の言ったことが、全て当てはまっていたから。図星を突かれて、激昂しただけ。
(……勝てるはず、ない……)
そもそも頼みの綱だった完全自律防御にしても、倒されるまでの時間を長引かせていただけだ。
拳を受け、防ぐたびに魂心力が削られてゆく。何より流護がその気になれば、防御に徹した自律防御をも容易に粉砕するだろう。
最初から、勝負など……『決闘』など成立していないのだ。
単純な武力のうえだけではない。気持ちの面ですら、最初から負けていた。
奇妙な沈黙が舞い降りた。互いに手を伸ばせば届く、至近の間合い。すぐにでも拳が飛んでくるかもしれない、有海流護の支配する領域。
しかし双方動かず、無言で向かい合う。
勝てるはずが、ない。
――このままでは。
「――――」
刹那、クレアリアは発動も厳しくなっている自律防御を完全放棄した。
即座に、最後の力を振り絞って身体強化へと施術を切り替える。
と同時、最大限に強化した右手――その指を二又に立て、まっすぐに突き出した。流護の両目へと向かって。
目潰し――サミングの一撃は、身を翻した流護の右頬をかすめた。
「――いいね。簡単に諦めないと思ったよ」
伸びきったクレアリアの右腕、肘の内側に流護の手刀が軽く叩き込まれる。
かくんとバランスを崩した瞬間、クレアリアの視界が回転した。
気付けば、背中には大地の感触。
眼前に広がる夜空には、巨大なイシュ・マーニの姿。
この段になってようやく、投げ倒されたのだと気がついた。
もう。手も、足も……身体も、動かない。
「よーっし、ここまで! ちょっと荒っぽかったけど、これでゆっくり話ができるな」
……話……?
「あー、緊張した、まじ緊張した! 内心はビクビクだったぞ。どんな毒舌やら攻撃やらが飛んでくるかってさー」
闇の天空を支配するイシュ・マーニが照らすは、心の底から安堵したような少年の笑顔。
「よーっと……、てて」
倒れたクレアリアの隣へ腰を下ろそうとし、流護はわずかに顔をしかめた。……唯一、直撃した攻撃。蹴られた脇腹を押さえて。
「……どう、して……避けなかったんですか……」
「いや。びっくりするぐれー堂に入ってて、普通に食らったってのもあるけど……やっぱ、嘘ついてたことに変わりはなかったからな。戒めってか、一回ぐらいドツかれておこうかと。でも正直、後悔してるわ。いい蹴りだったぞ」
「……、」
痛みも何もない。この上なく手加減されて倒された。
殺意剥き出しで立ち向かっていながら、傷ひとつ負わされることなく、完膚なきまでに撃退された。体力と魂心力のみを、あえて空にさせられたように。
おまけに、そんな情けまでかけられて。
どれほどの実力差があれば、こんな惨めな結果になるのだろう。
「……っ、う、うぅ……っ!」
あまりの不甲斐なさに、涙が溢れ出した。
「ちょ、な、泣くなって」
「な、いてなんかいません! ころしなさいよ! さっさと……! ぅう……」
「んなこと言うなバカ。ベル子もミアもフォルティナリアさんも、ルーバートさんも……悲しむぞ」
流護は頭上の巨大な女神を眺め、寂しそうな口調で言う。
「父、様……」
「ああ」
「……私がどうなったところで……、父様が、悲しむとは思えません」
「俺さ。昨日の夜、ルーバートさんと話したって言ったよな?」
流護は答えになっていないようなことを言い出す。が、
「そんとき言われたんだけどさ――」
――それは、にわかには信じられないような話だった。
父が、自分を自慢の娘だと褒めていたこと。
……嘘だ。普段、そんな素振りなんて見せもしないのに。きっとあの人にとっては、扱いづらくて仕方ない娘のはずなのに。
そして――兄の影を引きずる自分たちのため、父がプレディレッケの討伐を流護に頼もうとしたこと。それを聞いて怒ったベルグレッテが、父に抗ったこと。
しかし今日は姉も父も、おかしなところなどなかった。いつも通り、仲睦まじく過ごしていた。
……それだけ、二人は大人なのだ。自分と違って。
「さっきも言ったけど……俺はもう父親には会えない。クレアの言った通り、自己満足でお節介かもしれねーけど……でも、あんないい親父さんがいるなら、大事にしてほしいなって思ったんだ。クレアの前じゃ表に出さねーけど、ミアもそう思ってるんじゃねえかな。あいつも、もう父ちゃんに会えないしさ……」
夜空を見上げて、流護は寂しげにそう呟いた。
「貴方は……本当に、それを言うためだけに……自分の素性を明かしたんですか……?」
「ああ。記憶喪失の奴が『父ちゃん大事にしようぜ!』なんて言っても、説得力ないだろ? あとやっぱ、さっきも言ったけど……もう黙ってるのも嫌だったんだよ。こりゃもう、頃合いだなって」
本当に、そんな理由で。
記憶喪失だと偽り、遊撃兵となった事実。
これは実際、裁かれる対象となり得る。遊撃兵となった後、記憶が戻ったのとは違う。
流護の言っていることが本当だとして、素性を明かすことには何のメリットもない。リスクしかない。いや……嘘だとしてもやはり、リスクしかないのだ。
それなのに、そこまでして。
「あとついでに、さっきも嘘ついた。クレアのこと嫌いって言ったけど、別に嫌いじゃないぞ。まあ、苦手ではあるけどな」
しし、と流護は笑う。
「あと、俺のことはいいんだけど……ベル子とミアが俺のこと黙ってたのは、許してやってくれ。俺が口止めしてたんだ」
巻き込んでしまったようなものだと。少年は、バツの悪そうな顔でそう言った。
「ま、クレアが父ちゃんに素直になれねぇのも分かるよ。俺だって親父とはよくケンカもしたし……んでも、たまには親父さんにちょっと甘えてやれって。恥ずかしいけどさ、多分……いや、絶対ぇ喜ぶぞ」
いたずらっぽいような、眩しい笑顔で言う。
――本当に、この人は。
それを言うためだけに……身体を張って、こんなことを。
少し居心地が悪くて、自分から目を逸らしてしまった。
「……貴方は……これから、どうするんですか?」
「どうするって?」
「私が……貴方の素性を陛下に報告したら……貴方は、罰を受けるかもしれませんよ? それこそ、粛清されるかもしれない」
「え、そんなことで? そうなったら……そうだなあ」
さも名案を思いついた、というように流護は声を弾ませる。
「逃げらあ。ベル子、無理矢理連れて」
「な……!」
「おっと、ミアもウチの子なんだよな。そんじゃ三人で逃げる。二人を肩に担いで逃げてやる」
「そん……、……っふ」
馬鹿だ。堪えきれない。
色々ごちゃごちゃと思い悩んでいた自分が、あまりにも馬鹿らしく思えてしまう。
「ふふふ、あはははは……そうですか。姉様を連れて行かれるのは、困りますね……」
「んじゃ、クレアも来るか?」
「……おかしいですよ。その私が、密告するかもしれないという話なのに」
「あ、それもそうか。ま、細かいこた気にすんなって」
屈託のない顔で、流護も笑った。
「よっし、いい機会だ。俺の元いた世界とか、そのへんのことについて聞かせてやろう」
「……別に、聞きたくなんてありません」
「まずは……そうだな。俺のいた世界は、さっき言った通り地球っていうんだけど――」
彼はチキュウだのニホンだの、耳慣れない言葉を懐かしげな目で語り始める。何を言っているかもよく分からない、嘘みたいな話。
「大体なー、俺の親父なんてヒデーんだぞ。家の前に放置された犬のフンを平然とそのままにしやがってさ。踏んじゃうじゃん?」
「……何ですか、それは……」
でも、どうしてだろう。
それからしばし、二人で会話に興じた。興じることが、できた。
ああ。きっと……倒れて、疲れきって動けないせいだ。だから今は……今しばらくは、この不愉快な男と喋ることぐらいしかできないんだから。
翌朝、午前七時。
屋敷の広い玄関に全員が揃っていた。
準備は整っている。あとは、馬車に乗って学院へと戻るだけだ。
「お世話になりました」
「お世話になりましたーっ」
流護とミアが、ルーバートらやメイドさん一同に挨拶を済ませる。
「うむ。またいつでも来てくれたまえ」
「いつでもお待ちしていますからね」
「お父さま、お母さま。行って参ります」
ベルグレッテが両親へ丁寧に頭を下げた。それを合図に、
「では……母様、行って参ります」
フォルティナリアに寄り添っていたクレアリアが、名残り惜しそうにしつつも離れる。
そして彼女は、その足で――ルーバートの前に。父親の前に立つ。
「……、クレアリア……?」
今回、一度もまともに向き合うことなく……会話もろくに交わさなかった娘が、目の前へやってきて。父は、驚いたようにその名を呼んでいた。
そんなクレアリアはひどく緊張したように、
「…………と、父様も。その……行って、参ります」
それはきっと、今の彼女の精一杯だ。
父の顔も見ずに小さく呟き、すぐにくるりと背を向けてしまう。けれどきっと、後ろからでも分かるはずだ。耳が真っ赤なのだから。
「あ、……ああ、ああ! 行ってらっしゃい、クレアリア。気をつけてな……!」
父は、嬉しそうに破顔した。
赤くなったクレアリアと、ルーバートのどこかぎこちない笑顔。
「素直じゃねえなぁ」
「うっ、うるさいです」
小さく応酬を交わす。
厳しくて、明日の保証もない世界だけれど。今はきっと、これでいい。
不思議そうな顔をしている、ベルグレッテとミア。彼女たちにも、事情を説明してやろう。きっと驚くはず。
帰りの馬車、話題に尽きることはなさそうだ――。
そして昨夜の決闘もあって寝不足だった流護は、帰りの馬車で酔った挙句リバースした。ベルグレッテとミアは驚いていた。わずかに優しくなったかと思われたクレアリアさんの視線は、またどこかひんやりしたものに戻ったのだった。




