128. 厳しく
風呂から戻ったベルグレッテが自室のドアを開けると、
「……むにゃむにゃ」
さも当然のようにミアがベッドで横たわっていた。
あまりにも自然だったため、ベルグレッテのほうが間違えてミアの部屋に入ってしまったのかと錯覚しそうになるが、もちろんそんなはずはない。
「もう……」
苦笑しながら、ベッドの脇に腰掛ける。
「……あ、ベルちゃんだ。おかえりなさーい」
「どうして私のベッドで寝てるのやら、この子は」
頬をつんとつつく。寝ぼけているのか、ミアはむにゃむにゃ言いながらベルグレッテの腰に腕を回してきた。
「最初は……毛布の中に隠れて驚かそうと思ったんですけどー……思った以上のベルちゃんのベッドの寝心地のよさに……あたしの意識は……夢の……かなたへ……」
そもそも、消して出たはずの部屋の照明が明々とついているのだ。暗い部屋に潜むのが怖くてつけたのだろうが、これでは驚かす気があったのかどうかも疑わしい。
すぐ戻るつもりで鍵をかけなかったらこの有様である。
「ルビィは?」
「んー……一緒におふろ入って……そのあと、売店の伝票整理……手伝わないといけないって、言ってたから……」
「なるほど」
一人になるのが嫌で、ここへ来たのだろう。もっとも、学生棟でもいつもこんな感じだ。珍しいことではない。一人で静かな夜を過ごすことなど、あまりないのではなかろうか。
サイドテーブル上の小型冷術器を起動し、風を浴びながら長い髪を拭く。
そこで、ベルグレッテの耳元に通信の波紋が広がった。
「はいリーヴァー、ベルグレッテです」
『私だ』
「あ、お父さま。どうかなさいましたか?」
『うむ……明日は、何時に出る予定だったかと思ってな』
「はい、明朝七時には。……あれ、夕食時にもお話ししたような」
『ん? いや、そうだったか。ハハ』
「……?」
ベルグレッテが不思議に思っていると、すっかり目も冴えたのかミアが横槍を入れてきた。
「んもーベルちゃん鈍いんだから。おじさんは、明日には家を出ちゃうかわいい愛娘とお話ししたいんだってば」
『ミ、ミア君も一緒だったのかね。いや、別にそういう訳ではなくてだな……』
しかし何だかんだで、しばし三人で談笑に興じる。
学院のこと。城のこと。何でもないような話題。三人の語らいは弾んでゆく。
ひとしきり語りつくし、一息ついたところで、ルーバートがやや名残惜しそうに切り出した。
『さて……明日も早いからな、このあたりにしておこうか。ではおやすみ、二人とも』
「はい。おやすみなさい、お父さま」
「おとーさま、おやすみなさい!」
『あ、ああ、うむ。お休み』
通信を終えると同時、ベルグレッテは小さく苦笑した。
「まったく……ミアにお父さまって呼ばれて、鼻の下伸ばしちゃって。ふふ」
「んふふ。まあこんなかわいいミアちゃんに呼ばれれば、おじさんもしかたなかろうー」
上機嫌でごろごろするミアだったが、ふと寂しげな顔になる。
「今回……クレアちゃんさ、おじさんと全然しゃべってないよね」
「……うん」
ベルグレッテも気にかかってはいた。
さすがに一度もまともに会話していないのは、今回が初めてだった。
やはりクレアリアが入院した折、父が一度も見舞いに行かなかったことが尾を引いている。無論、忙しかったのだから致し方ない。
しかし、もし父が時間を作って見舞いに行っていたとしたなら、クレアリアは言うはずだ。
「わざわざ来なくていいのに」と。いつものように、不機嫌そうな顔で。とにかく素直ではないのだ。
父も無為にクレアリアを怒らせたくなくて、気を使ってしまったのだろう。それが却って、クレアリアの怒りを助長させてしまっている。
ミアが泣きそうな顔で呟く。
「なにか……きっかけがあればいいのにね」
「ん……」
「あんなにいいお父さんがいるのに……仲よくしないなんて、悲しいよ」
もはや実の父に会うことができない少女のセリフには、重みがある。
ミアの目尻に浮かんだ涙を、ベルグレッテは優しく指で拭った。
「きっかけ、かぁ」
クレアリアだって知っている。分かっている。
父が多忙なのは、家族のために働いているからなのだと。兄がいなくなってしまったことで、それにも余計に拍車がかかってしまっているのだと。
「ベルちゃん……いっしょに寝てもいい?」
「もうっ。最初から、そのつもりで来たんでしょ?」
当然のように横たわっている様子からして、戻る気があるようには思えない。苦笑しながら横になると、ミアはネコのように寄り添ってきた。
「んー……一回、クレアちゃんとじっくり話してみるとか……」
「そうね……」
何かいい案はないものか。うーんうーんと唸っていると、
「……ちゅっ」
「ひゃぁっ!? な、なにするの、もうっ! ミアはすぐこれなんだから! 変なことするなら、部屋に戻ってもらうからね!」
「うう、だってなんだか寂しい気持ちになっちゃったんだもん!」
「理由になりませんっ。とにかくやめなさいっ」
「うぅっ……ただの親愛の表現だよ! ベルちゃんは厳しいよ!」
厳しい、か。
ともかく一度、ミアの言うように腰を据えて話し合うべきかもしれない。厳しく接することも視野に入れて。
他人に対してきつく当たることの多いクレアリアだが、思えば姉妹ゲンカのようなものはほとんどしたことがなかった。幼い頃には、リリアーヌ姫にどちらがつくかで言い争いをしたこともあったが……基本、あの妹は姉の言うことには同意するのだ。
しかし父のことに関してとなれば、ベルグレッテの言葉といえど易々とは頷かないだろう。
初の本格的な姉妹ゲンカ、それも大立ち回りになることを覚悟して、接してみるときが来たのかもしれない。
「でも……なんだかんだで、ほんとに追い出したりはしないベルちゃんが好きです……ふん、ふん」
「あー、もう……」
しかし……ミアに対しても、ついついこうして甘くなってしまうのだ。クレアリアに毅然と接することなどできるのだろうか。
鼻息荒くひっついてくるミアの顔を押さえつけながら、そう思い悩むベルグレッテだった。
――リューゴ・アリウミという、素性の知れない人物。
実のところ、その武勇のほどを目の当たりにする機会はあまりなかった。
未曾有の事件となった、怨魔によるミディール学院襲撃。あのときは、その場に居合わせていない。互いに出会ってすらいない時期。
暗殺者の件で、刺客の一人を撃退したところは見ていたが……あんなものは、大した相手でもない。黒幕だったデトレフとの対峙では、不甲斐ないことに致命的な一撃を受け、意識が朦朧としてしまっていた。少年が登場してからの記憶が定かではない。
ミアの件のときはそのケガを治療するために入院していたので、完全に蚊帳の外だった。
そしてつい先日の、ノルスタシオンとの対峙。酒場では戦闘に発展することはなかったし、代表を選出しての決闘は、結局のところ自分の目で見ていない。ブランダルとの戦闘では最後に颯爽と駆けつけてきたが、当人が茶化す通り、石を投げただけで終わっている。
思い返してみればその程度。
が、決してその実力を疑っていた訳ではなかったし、分かっていたつもりではあった。日々修練に励む様子を見ても、その腕前は窺い知れた。
しかし、それでもなお。これほどのものなのかと、クレアリアは戦慄を禁じ得ない。
「……、う、く!」
瞬きの間に距離を詰めてくる足捌き。超速で迫り来る砲弾のような拳。傍から見るのと自分で経験するのとでは、天地ほどの差があった。
今まで対峙したどんな人間の動きよりも迅く。今まで迎え撃ったどんな怨魔の一撃よりも重い。
これほどの実力、アルディア王が欲しがるのも当然だ。
クレアリアの眼前に、流護の鉄拳が迫る。そこで反応した自律防御の水柱が、辛うじて拳を弾いていた。
「マジ優秀だよな、その能力。単に攻撃を防ぐだけじゃなくて、吹き上がる水柱の威力がそのまま武器にもなってるし。ヘタすりゃ腕ごと持ってかれそうだ」
クレアリアが誇る完全自律防御を前に。さして脅威にも感じていないような口調で、流護はそう称賛する。
間合いを離そうと少女が掃射する水の散弾も、少年は身体を傾けるだけで躱す。あるいは拳の甲で軽く叩き落とす。その合間を縫って、一瞬で踏み込み鋭く拳を突き出す。そのたびに自律防御が水を吹き上げた。流護は打ち出した拳を素早く引き戻しているため、先の言とは裏腹に、腕を持っていかれることもない。
じりじりと、クレアリアの魂心力だけが削られていく。
「く……」
クレアリアは防御に手一杯で、まともな反撃ができずにいた。何より――
「自律防御展開中はそっちに大量の魂心力を使うから、大掛かりな技が使えないんだよな? ミアから聞いたぞ」
だから流護は、反撃を恐れることなく突っ込むことができる。
「昼間のゲームの時にも言ったっけな。防御一辺倒だから読みやすいって」
「っ、の……! 分かったような口を!」
右手に握った銀の長剣、その切っ先を流護へと向けるが――
刺突を放とうと構えた瞬間、少年の左拳がクレアリアの剣を横薙ぎに弾き飛ばした。銀剣は甲高い音を立てて石畳に転がっていく。
「強力な攻撃術を使えない分、リアル武器に頼る必要がある。クレアの細腕、それも片手で振れるような軽い剣じゃ、斬撃の威力には期待できない」
息ひとつ乱していない遊撃兵は、当たり前のように指摘した。
「となると、刺突が来るだろうってのは簡単に読める」
「ッ、知ったような口をきくな! 貴様などに、私の何が――ッ!」
わずかな隙をつき、水弾を叩きつける。
速度重視で生み出された飛沫の散弾は、防御を固めた流護の腕に当たり、全て空しく霧散した。まるで、大岩を叩いた小雨のよう。
いくら苦し紛れに放った術とはいえ――少年は、受けながら眉ひとつ動かさない。
ダメージなど皆無。その証拠のように、流護は穏やかですらある口調で呟く。
「知ってるよ。少なくともクレアが……馬鹿がつくほど大真面目で、嘘が大嫌いで、」
それは実力差からくる余裕なのか。
目の前で戯言を垂れ流し始めた相手に、クレアリアは刹那の詠唱から水槍を撃ち放つ。
少年はわずか身体を傾けるだけで、この至近からの一撃をあっさりと躱す。
「……っと。んで男が嫌いで、姉ちゃんが大好きで、」
まだ続けるか。
次はどうする。詠唱を長く取って、その減らず口を――
「そんで……意地になって父親に逆らってたら引っ込みがつかなくなっちまった、ただのガキだってことぐれーはな」
「――――――」
視界が真っ赤に染まるような、灼けるような錯覚。
それは、思考が寸断されるほどの激昂。
考えるよりも早く、クレアリアの右手から水が迸った。
攻撃術ではない。それこそ水属性を持つ者ならば誰でもできる、神詠術の才能が皆無であってもできる、わずかな水を喚び出すという行為。手桶に掬った水を浴びせかけるのと変わらない、詠唱すら必要ない、とても攻撃とは呼べないただの動作。
しかし、飛び散る水に反応した流護は咄嗟に顔を庇う。
(――私の前から……ッ)
歯を食いしばり、左足を踏み込む。
完全にがら空きとなった少年の脇腹へ、
「消え失せろッ!」
右の蹴りを叩き込んだ。