127. 月下白刃
窓の外にはすっかりおなじみとなった巨大な月。この世界へやってきた当初は、その威圧感に恐ろしさすら覚えたものだが、こうして慣れてしまうのだから不思議だと少年は思う。多少の雲も出ているものの、そんな夜の女神の姿を隠すには至らない。
夕食はまたも文句なしの豪華なフルコースだった。明日から食べられないと思うと、惜しくて仕方がない。
晩餐は終始、雰囲気よく和やかに進んだ。
ルーバートとクレアリアが一度も会話していないことを除けば。
さて、現在時刻は夜の十時前。
明朝の学院帰還に備えて、今日は早めの解散となった。
ベルグレッテやミアは今頃、長風呂の時間をのんびりと満喫しているだろう。
流護としても、あとは風呂に入ってぐっすり寝て、明日になったら帰るだけ――
なのだが。
(よし……そろそろ行くか)
若干の緊張を胸に、流護は自分が指定した場所へと向かう。
月明かりに照らされた広い中庭に、彼女はいた。
さて、どのような事態を予測していたのだろうか。その佇まいには隙がない。青を基調とした煌びやかなドレスに、腰から提げた銀の長剣。鋭く冷ややかな、切れ長の瞳。
まるで――敵を前にしたかのような、隙のなさ。
クレアリア・ロア・ガーティルードという、小さくも厳格な少女騎士。
「入浴しなかったんですか? 殿方なら、充分な時間があったと思いますが」
解散前と同じ服装の流護を見て思ったのだろう。
「ああ、後で入るよ」
溜息と共に、クレアリアはドレスのポケットから紙切れを取り出した。
「……それで。これは何のつもりですか?」
冷徹な眼差しのまま、彼女は指に挟んだそれをヒラヒラとはためかせる。
それは一枚の小さな羊皮紙。
そこには下手な筆跡の日本語――否、イリスタニア語でこう書かれていた。
『午後十時、屋敷裏の中庭』
流護がクレアリアの部屋のドアに挟み込んだものだ。
「そのままの意味だよ。ちょっと話したいことがあってさ」
「私にはないのですが」
ともすれば冷たく聞こえる言葉。
しかしミアの言によれば、クレアリアは「とにかく真面目でおカタい」そうで、夜になってから異性と会うようなことには、強く難色を示すのだという。
しかしこうして呼び出しに応じたあたり、流護に対する心証はそう悪くないはずだ。
――少なくとも、今の時点では。
「で? 何を話したいと?」
流護はごくりと喉を鳴らし、慎重に切り出す。
「いや……クレアさ……ここに帰ってきてから、ルーバートさんとまともに話してないよな?」
「――は?」
明らかにクレアリアのトーンが低くなった。
踏み込んではならない領分。お前にそんなことを言われる筋合いはない、と告げているその瞳。
しかし少年は、茨の道をガシガシと突っ切っていく。
「なんつーか、いつ何がどうなるか分かんねー世の中だろ。だからさ、その……父ちゃんは大事にしようぜっていうか……」
「貴方にそんなことを言われる筋合いはありません」
まさに想定通りの言葉。それでも流護は言う。
「あのな……変な意地張ってんじゃねえよ、ガキみてえに――」
「――貴方。うるさいのですが」
流護は思わず口をつぐんでしまう。
静かな。ただ静かで、囁くような声だった。
初めて彼女と出会ったときのような、極めて事務的な口調。涼やかを通り越し、冷え冷えとした寒気を感じさせる声。
ここがデッドラインだ。
男とはまともに口もきかないというクレアリア。それを考えるならば、彼女の流護に対する接しようは異例中の異例といってもいい。基本的に邪険ではあるものの会話には応じるし、皆と一緒ならば食事にだって同席する。
今回、帰郷に際して流護の同行を許可したことなど、もはや奇跡と呼んでも差し支えないのではなかろうか。
しかし少年は――その奇跡だけでは足りないとばかりに、デッドラインを踏み越える。
「……後悔するかもしれねぇぞ。……俺みたいに」
わずか、沈黙が舞い降りる。
クレアリアが溜息と共に吐き出した。
「俺みたいに……ですか。で……貴方は何者なんですか? 嘘、なんですよね。記憶喪失だなんて」
嘘、の部分を殊更に強調し、クレアリアは感情のない瞳を向ける。
「ああ、嘘だ。俺は――この世界の人間じゃない」
「この世界の……? よく分かりませんが……遥か遠い地から来た人間なのだろうと、薄々感じてはいました。鋼鉄を知っているのに白玲鉄は知らなかったり、馬の種類を全く知らなかったり。時折、意味の分からない単語もさらりと出ていましたしね」
昨日、ポテに乗ろうとしたときのことを思い出す。
クレアリアは馬についてやけに優しく流護に説明していたが、やはり完全に気付いていたのだろう。記憶喪失などではないと。
――そうして、有海流護は全てを話した。包み隠さず。
地球のこと。日本のこと。神詠術など存在しない世界からやってきたこと。だから当然、自分には使えないということ……。
クレアリアは相槌を打つでもなく、色のない表情で話を聞き終えて――
「ふふっ」
ただ、そう笑った。
「姉様たちは信じたんですか? その話を」
「いや、信じてくれようとしていながら、多分よく分かってないっていうか……」
「でしょうね。私も貴方の正気を疑っているところです。それで……なぜ今になって、そんな話をする気になったんですか?」
「……嫌だったんだよ」
これまで何度か口を滑らせて、疑念を抱かせるような発言はしてきた。
そのたびに慌てて取り繕い、後ろめたい気持ちになった。
決定的だったのは、先日のやり取りだ。
流護に神詠術検査を受けさせようとしたクレアリア。不自然なまでに拒否した流護。
クレアリアが流護のことを考えて提案したことだったのは痛いほど理解できたし、去っていく彼女の後ろ姿を見て、ただ罪悪感だけが残った。もういっそ、本当のことを打ち明けたいと考えた。
「それで俺は……もう親父に会いたくても会えないしさ。もっと親孝行しときゃよかったって思ってるよ。きついもんだぜ、実際に経験すると。だからクレアももっと、父ちゃん大事にしようぜっていう……」
そんな流護の訴えを聞き、クレアリアは吐息を漏らすように笑う。
「ふふ。そう、ですか」
すっ――と、その切れ長の瞳が、さらに細まった。
「――そんな自己満足のために、私をここに呼び出したと」
「……は?」
「貴方はその『真実』を私に話すにあたって、姉様に相談はしなかったんですか?」
それは先日の光景。
検査を拒否し、去ってゆくクレアリアの姿を見届けた後。
「本当のことを話すのはダメか?」と言った流護に対し、「うーん」と困惑した、実の姉。
敬虔な神の僕である、クレアリアという少女。
であれば、やはり必然だったのかもしれない。
『こうなる』のは。
「背信者の貴方は記憶喪失だと偽り、姉様や陛下に恩を売り、信用を得たうえで、この国に遊撃兵として入り込んだ。そんな可能性もありますよね」
「待て待て、話聞いてたのかよ! 俺はもう帰れないって言ってんだろ、だから思い切って遊撃兵になったんであって……」
「その『もう帰れない』という言葉が嘘でない証拠は?」
「おいおい、そんなこと言い出したら会話にならねえだろが……!」
「どちらにせよ記憶喪失だと偽り、遊撃兵に就いたんですよね? 背信者やスパイだと疑われても仕方がありませんよ」
クレアリアは静かに告げ、腰に提げた剣を――鞘から、抜き放った。
甲高い金属音が鳴り響く。
「そんなんじゃねえって。どうしたら信じるんだよ……!」
「信じる……?」
そうして小さくも厳格な騎士は、剣の切っ先を流護へ向けて構える。
「貴方の何を信じろと? この――大嘘つき」
空気が変化した。
明らかに『敵』を見据えるその瞳。隙のない構え。おそらくは――すでに神詠術の詠唱も終えている。
平行線をたどる会話と、張り詰めていく空気。
「……あー……、念のため確認だけど……クレアさんは何をしようとしてるんで?」
「粛清です。言わなければ分かりませんか?」
冷たい瞳のまま、少女は抑揚なく続ける。
「レッシアが容赦なく消されたように。疑わしい貴方を消し去ってしまっても、何ら問題はない。陛下は残念がるかもしれませんが、いい薬でしょう」
迷うことなく断じたその言葉に、
「ふ、は、ははははっはっは! は――っはっはっはははは!」
流護は堪えきれず笑った。腹を抱えて笑っていた。
「な、……」
クレアリアが不意を突かれたように瞠目する。
肩を揺らしながら、流護は言い放つ。
「はは……あー、俺が焦ってたように見えたか? いやー、取り繕うのはナシにしようぜ、クレアさんよー」
「何を……」
「言ってることがおかしいぜ。俺が『背信者やスパイなんかじゃない』って言うのは信じないのに、『記憶喪失と偽って遊撃兵になった』って部分は信じるのか? それも嘘かもしれねーぞ? どっかの学院長みたいに、嘘まみれかもよ?」
「…………ッ」
返答に窮したクレアリアへ、流護は畳みかける。
「自分に都合のいい部分だけは、ちゃっかり信じてんじゃねーか。俺が言ったことを自分の都合いいように解釈して、クレアの思う有海流護像を……『私の嫌いなアリウミリューゴ』を作り上げてるだけだ。背信者? 粛清? 違う違う。クレアは理由がほしいだけだ。自分でも分かってんだろ? 大嫌いな俺をブチのめしてもいい、その理由がほしいだけ。触れられたくない父親とのことに触れられたから、頭にきて俺をボッコにしたいだけ。カワイイもんだな」
「な、にを……」
「俺が大嘘つき? いやいや、クレアさんも中々のもんだぞ。立派に――自分の気持ちに、嘘ついてんだから」
その流護の笑みを見たゆえか。
「貴、様……っ」
クレアリアの構えた剣先が、かすかに震えた。
「この際だから言うとな、実は俺……クレアのことが……その……」
一呼吸置き、吐き出すように告げた。
「嫌いだ。お前の姉ちゃんを大好きな俺としては、姑みたいなお前の存在は壁でしかない。それでも、ブレないっていうか……しっかりしてるとこはさすがだと思ってたんだけどな。けど……これでハッキリしたぜ」
流護はゆっくりと――右腕を目の前に、水平に持ち上げる。
「お前も、お前自身が大嫌いな『男』って生き物と一緒だよ。何も変わりゃしねえ」
拳を握り、クレアリアのほうに向かって突き出した。
それは紛うことなき、決闘の合図。
「――嘘つき同士、お互いを嫌いな者同士、ベル子を好きな者同士。おっ、思ったより共通点多いな。俺ら、意外と気が合うんじゃね? つー訳で、仲良くケンカしようぜ」
その不敵な宣言を見て、彼女は全てを悟ったのかもしれない。
流護は、最初からこのつもりだったと。
だから風呂にも入っていない。この熱帯夜の中、クレアリアを相手取り、派手にひと暴れするつもりで。
「……わた、しを――――」
小さくも誇り高い騎士は声を震わせ、構えていた剣を横に薙ぐ。
「私を貴様と一緒にするな、下郎ッ!」
クレアリアの咆哮に応えて出現した十数個の水弾が、流護目がけて殺到した。