125. 痕
「ちょっ、ベル子、どうしたんだって」
廊下へ出てなおも引っ張られて歩く流護だったが、さすがに足を踏ん張る。
ベルグレッテも釣られる形でようやく止まり、掴んでいた腕を力なく離した。
「何だってんだ。……あ。お前、実はクレアだろ。姉妹入れ替わりトリックだろ」
冗談を言ってみるも、少女は流護に背を向けたまま微動だにしない。
「……な、とりあえず何が何だか分からんから、話聞かせてくれ」
今度は流護がベルグレッテを引き連れて、廊下の先にあるロビーのような場所に移動した。
高い天井からぶら下がったシャンデリアが発する橙色の光も、ロビーの隅に置かれた観葉植物も、どこか弱々しく……物悲しく感じられる。今しがたの親子のやり取りを見たせいだろうか。
二人並んで、備え付けられているソファへと腰掛けた。
「どうしたんだよ、ベル子。らしくねえぞ」
うつむいたままのベルグレッテに、諭すような声をかける。
彼女は下を向いたまま、先ほどの剣幕が嘘のような弱々しさで口を開いた。
「……ごめんなさい、立ち聞きして。でも……」
立ち聞き。流護は思わずびくりとした。
「ど、どこから聞いてたんだ?」
「プレディレッケの……話が、出たあたり……」
こんなときだが、流護は内心で胸を撫で下ろす。ルーバートの「君がベルグレッテに好意を抱いて云々」の部分は、幸いにして聞かれていなかったようだ。
「リューゴを呼びに行ったら、部屋にいなくて……。使用人に聞いたら、二人で父さまの部屋に向かうのを見たって……それで……」
バツが悪そうにしているベルグレッテだが、いちいち立ち聞きなどを咎める気はない。流護自身、ミアの風呂トークを聞いてしまった身だ。
「気にすんな。それより……何であんなに怒ったんだ? ちょっとビビったぞ」
「父さま、リューゴにプレディレッケの討伐を……兄さまの敵討ちをお願いしようとしてたでしょう……?」
「ん? どうだろ。まあ……それっぽいこと言おうとしてたのかな」
ベルグレッテが飛び込んでこなければ、そんな流れになっていたのではないだろうか。
「リューゴ、父さまの依頼……受けるつもりだったんじゃない……?」
「そう、だな。まあ、できることなら――」
「だからだめなの」
ぴしゃりとベルグレッテは言い放つ。
「プレディレッケは……あの怨魔だけは、絶対にだめ」
ベルグレッテは自分の肩を抱くように身を竦めた。
「『竜滅書記』の話は、リューゴも少し知ってるわよね。ガイセリウスの活躍を描いた本。リューゴも、『俺はガイセリウスの生まれ変わりだ』なんて言ってたものね」
「え……まあそこは……その節は嘘ついてすまんかった」
『竜滅書記』。流護としてはガイセリウスがグラム・リジルという大剣を用いてファーヴナールを倒したというエピソードぐらいしか知らないが、その話だけでもこれまでに幾度となく耳にしている。未だ、書記そのものを読んだことはないのだが。
「もう『竜滅書記』はあまりに有名すぎて、細部や結末の異なる話が氾濫してるの。児童向けのおとぎ話から、面白おかしく書き立てた冒険活劇、史実に忠実だといわれる歴史書まで」
聞けば、国や地域によっても様々な加筆や脚色がなされ、事実を正確に記している書は存在しないともいわれているのだそうだ。
「けど……そんな様々な『竜滅書記』がある中でも、共通して描かれてる事柄がいくつかあるわ」
一つ。ガイセリウスは大剣グラム・リジルを用いて、単独でファーヴナールを倒した功績がある。
一つ。彼は生涯において、一度も神詠術を使うことがなかった。
そして、ベルグレッテはそのエピソードを口にする。
「ガイセリウスは、かつて――プレディレッケに敗北してるの」
「……え?」
流護は思わず間抜けな声を出してしまった。
「結果として、最終的には勝利してる。大剣グラム・リジルの一撃で両断したそうよ。けど……当初、一匹狼だったガイセリウスは、旅の途中でプレディレッケと遭遇して、瀕死の重傷を負ったと伝えられているわ。そこで彼は仲間と協力することの大切さを学んだ、っていう話へ繋がっていくんだけど……」
児童向けのおとぎ話ですら、瀕死の重傷を負ったとまでは書かれずとも、引き返して仲間の協力を仰いだという話になっているのだという。友達や仲間の大切さを説く教訓とされているようだ。
しかしどの記述にしても、その内容は同じ意味合いのことを語っている。
つまり――ガイセリウスは、一対一でプレディレッケに勝てなかったのだと。
「プレディレッケってそんなに強いのか。Aランクなんだろ?」
「昔はカテゴリーSだったそうよ。体長が約二マイレとかなり小さめであること、数が少ないこと、空が飛べないこと、近年になって討伐方法が確立されてきたこと……このあたりが理由で、カテゴリーAとして認定されるようになったみたい。けれど正直、AもSも大差はないわ。手に負えないっていう意味では」
『怨魔補完書』によって定められている、怨魔のランク分け。EからA、そして最高位のSといった具合に区分されているが、BとAの間には絶対の隔たりが存在しているのだという。
逆にAとSの違いというのは、単純な大きさや個体数の多さ、討伐方法が確立しているか否かといった程度のものでしかない。
その強さや脅威度で考えるなら、AもSも大差はないようだ。
新たな怨魔が見つかるたびに後付けで分類されていくため、現在では同ランク内でも強さのばらつきが大きくなっているとのこと。プレディレッケのようにランクが変動するのは稀で、このあたりの区分けについても、見直し案が出てはいるそうなのだが。
ベルグレッテはうつむいて続ける。
「プレディレッケを討伐する場合、現在では約三十名の兵士と移動砲台や武装馬車、弩が運用されることになるわ。ちょっとした砦なら攻め落とせるほどの武装よ。白兵戦は厳禁。各自、兵器と神詠術の射撃に終始する。これだけ備えてなお、討伐戦で死者が出なかったことはないの。……カテゴリーAの中では実質、最強かもしれない」
その怨魔は、死神と渾名され恐れられているという。相対した人間を……その命を例外なく刈り取ることからつけられた異名。
一対一ならば、かの英雄ガイセリウスすら凌いだという脅威。
「……それに」
ベルグレッテは苦い表情を見せる。風呂上がりだというのに、その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「あとから調べて分かった。絶望したわ。かつて私たちが遭遇したプレディレッケは、背中の羽が発達してない個体だった」
「え?」
その意味するところが分からず、流護は聞き返す。
「父さまや兄さまを圧倒したあの怨魔は、まだ幼体だったのよ」
流護は思わず押し黙った。ルーバートもベルグレッテたちの兄も、一対一でドラウトローを圧倒できる腕前だったと聞いている。
先述の話を聞く限り、相手が幼体だったからこそ、ベルグレッテたちは逃げることができたと考えるべきなのかもしれない。
「……あれから十年。私という個人がどう頑張ったところで、あの怨魔を倒すことは不可能。それに気付いてしまった。場所も国外だし、奴が今も同じ場所にいる保証はない。ここ十年、レフェでプレディレッケが討伐された記録はないから、きっとどこかにいるとは思うんだけどね」
ベルグレッテは泣き笑いのような表情を見せる。
「未だに、あのときのことを夢に見たりもするわ。けど……いつまでも気にしてられない。プレディレッケに家族を殺された人だって、他にもたくさんいる。……前に、進まなきゃ。兄さまに助けてもらったこの命で、多くの人を……姫やみんなを守るの」
一見、前向きな笑顔。
しかしそれは、諦めの笑顔でもあった。
かつてベルグレッテは、プレディレッケに立ち向かっていく兄の姿を見て、騎士になることを決意したと語っていた。
そんな憧れの兄の仇を、討ちたくないはずがない。
だから、これほどまでに調べ上げたのだろう。プレディレッケという怨魔について。そして……調べ尽くしたがゆえに、知ってしまった。絶対に勝てない相手であると。
その気持ちは、痛いほど理解できた。
かつて桐畑良造に敗北し、自棄になってしまった流護には。
「だからね。もう……分かったでしょう? プレディレッケは、一個人が闘ってどうにかなるような相手じゃないの。ひとりの人間が正面から対峙するなら、あのファーヴナールより絶望的だと思う」
そして、ベルグレッテは結論を口にする。先ほどの怒りがぶり返したかのような、強い口調で。
「プレディレッケと闘えだなんていうのは、死ねと言ってるも同然なのよ」
だから、この少女はあれほどまでに怒ったのだ。
娘たちを助けられた礼がしたいと、流護を招いたルーバート。その彼が実は、あまりに無謀なプレディレッケの討伐を流護に頼もうとしていたのだと。
ルーバートも当然、今しがたベルグレッテが語ったようなプレディレッケの脅威については熟知しているはずだ。
「……なるほどな……」
しかし、と少年は思う。
「ベル子が来るちょっと前にさ。ルーバートさん、ベル子とクレアのことベタ褒めしてたんだよ。自慢の娘だって」
「え……」
「すげえ嬉しそうにさ。でも同時に……悔しそうだった。プレディレッケに敵わなかった自分が、ベル子たちの幼心にも情けなく見えただろうって。あ、そのあたりはもうベル子も聞いてたか? んで俺も、男だから何となく分かるんだけど――」
手練の騎士だったルーバートが、プレディレッケに敵わず逃げることを決断したときの悔しさはどれほどのものだったろう。実の息子を犠牲にしなければならないと理解したときの悔しさは、どれほどのものだったろう。本当は自分の手で成したいはずの仇討ちを、流護に託そうと思ったときの悔しさはどれほどのものだったろう……。
「俺、前に故郷で……ボクシングって格闘技の試合を見に行ったことがあってさ。勝った人のコメントが、今でも印象に残ってるんだよ。『ただ、妻と息子の前でカッコつけたかったんだ』って。もう、ボッコボコの顔で言うんだよな」
まぶたも腫れ、唇も切れて。フラフラになって。それでもあの姿は、とんでもなくかっこよかった。子供心に震え、空手を続けるうえでも大きなモチベーションとなった。
「男だからさ。大事な人の前じゃカッコつけてぇ訳だよ。きっと、ルーバートさんだって同じだ。でも、それを投げ打ってまでさ……あー、上手く言えねぇけど」
例えば、流護は桐畑良造に手も足も出ずに負けた。
ありえない仮定だが、流護が無様に負けるところを、ベルグレッテやミアが見ていたとしたらどうか。
考えただけでも、恥ずかしくて……情けなくて、逃げ出したくなる。
しかしどうしてもあの男を倒さなければならない理由があって、しかもその理由がベルグレッテたちのためで。けれど自分では勝てないから、別の強い誰かにあの男を倒してくれと頼むのだ。
しかもその『誰か』は自分の娘に……流護の立場で例えれば――ミアに想いを寄せている、遥か年下のクソガキなのだ。
「させるかバカ、やばい切れそう」
瞬間、いもしない架空の誰かに対して殺意が沸いてしまった。
思わず呻いた流護に、ベルグレッテがびくっとする。
しかしそんな気持ちを抱えたうえで、兄のことを引きずっている娘たちのために、プレディレッケの討伐を頼もうとしたのだ。誇り高い貴族であるはずの、ルーバートという人物は。
下手な説明ながらも、流護はベルグレッテにそういった思いを伝える。
「……お父さま……」
一通りの話を聞き終えた少女は、しゅんとした様子で呟いた。
「ルーバートさんもかなり酒が入ってたみたいだしさ。今になって思い返してみれば、何回かその話をしようとして躊躇してたみたいだし。実際、悩んで……迷ってたんだと思う。俺にその話をするかどうか。当たり前だよ、俺みたいな小僧にさ」
「ん……」
「ベル子が怒ってくれるのは嬉しいよ。けど……ルーバートさんにも悪気なんてなかったはずだし、謝っておこうぜ」
ベルグレッテは弱々しく頷いた。
「父ちゃんってさ……すげぇよなぁ」
もう会えない父親。
男手ひとつで自分をここまで育ててくれた父親の姿を思い浮かべて、どこか誇らしそうに呟く流護だった。