124. 父親
シックな色合いで統一された調度品の数々。棚やサイドボード、テーブルはピカピカに磨き上げられ、塵や埃も見当たらない。
奥の壁には、鹿……なのだろうか。巨大にすぎる、杭のような角を左右対称に生やした動物の頭の剥製が飾られていた。
入り口でぼけっと突っ立っていた流護だが、促されて部屋の中央に置かれたソファへ腰掛ける。黒革のソファは、沈み込んだ途端に眠り込んでしまいそうな、心地よい弾力を返してきた。
「一杯どうかな」
そう言ってルーバートがサイドボードから取り出してきたのは、酒。しかも明らかに高そうなボトルだ。
「い、いえ。遠慮しておきます」
そういえば、この世界……レインディールでは、酒に関する法律はどうなっているのだろう。勧めてくるということは、この年齢で飲んでもいいのだろうか。
戸惑う流護だったが、ひとまず日本の感覚で断った。
対面のソファに腰掛けたルーバートが笑う。
「フフ。真面目なのか、それとも戦士としてが故かな。知人にも、酒に酔っていては戦えぬ……と決して呑もうとしない男がいてね。……おっと、宜しいかな?」
今しがた売店で購入した葉巻を取り出して尋ねてくる。どうぞと促すと、紳士はカッターに似た刃物を取り出し、慣れた手つきで吸い口を作った。続いてマッチを擦り、火を点ける。
その優雅な所作を見ながら、そういえばロック博士なんかは訊いてこないで吸いまくってるよな、なんてことを思う。
「リューゴ君は……記憶がないそうだね」
やや声を潜めてルーバートが尋ねる。流護も釣られるように小さく肯定した。嘘の答えにかすかな罪悪感を覚えていると、紳士は頷きながら続けた。
「ファーヴナールを倒したばかりか、数々の功績を挙げて遊撃兵となった異国の少年。貴族たちの間でも噂になっているよ。神が遣わした戦士なのかもしれない、とね」
「あ、い、いえ。どうもです」
どもりながら返すと、ルーバートがククッと吹き出した。
「リューゴ君はどうも、私と接するにあたって過剰に緊張しているようだね。数々の死線を乗り越え、アルディア王とも幾度となく接している君が、いち伯爵である私相手にそこまで硬くなるとも思えん。となると――」
紳士はニヤリと楽しげに口の端を吊り上げ、
「君は、ベルグレッテに好意を抱いている。だから父親である私に対して、必要以上に緊張している……といったところかな?」
あっ、ばれてた。
思わず呼吸が停止する。うん。このまま人生を終えよう。
その瞬間の流護の顔がよほど面白かったのか、ルーバートは堪えきれないとばかりに吹き出す。
「はっはっはははは! 正直だな君は。いや、気にすることはない。私が言うのも何だが……ベルグレッテは美しいだろう? 親馬鹿だろうがね、あの子はリリアーヌ姫にだって引けは取っていないと思っているよ」
冗談めかして語るルーバートだが、あながち間違っていない。以前の『アドューレ』の際にも、リリアーヌ姫とベルグレッテは人気を二分していた。コアなクレアリアファンが過激な発言をして連行されたりもしていたが。
「美しく気立ても良い。もし君がベルグレッテに対して何も思わないというのなら、同性愛者ではないかと疑わねばならんところだよ。今こうして君と二人でいることに、私は身の危険を感じなければならんな」
おどけるような口調に、二人笑い合う。
思った以上に気さくな人物のようだ。流護はわずかに緊張がほぐれていくのを感じた。それが狙いだったのだろうか。恐るべし貴族の社交テクニック。
「ベルグレッテも……もちろんクレアリアも、自慢の娘だ」
次女の名前を出したルーバートは、どこか寂しげな――自嘲気味な笑みを浮かべ、グラスに酒を注ぐ。
……クレアリアは、露骨なまでにルーバートを避けている。
年齢的にも反抗期真っ盛りなのだろうが、やはりそれだけではないはずだ。
必ず帰ると約束した兄が、帰らなかったこと。父親が忙しくなり、構ってくれなくなったこと。
彼女が……男嫌いとなった原因。
「フフ。ああ見えてあの子はね、昔は……」
懐かしげに、大事な宝物を自慢するように。目を細めて、父は娘たちとの思い出を語る。
幼少時代のベルグレッテが甘えん坊だったこと。一方、クレアリアは怖がりだったこと。歳の離れた兄とも仲睦まじく、皆で幸せな日々を過ごしていたこと……。
「二人とも頑固なところは、昔から変わらないのだけどね。――っと、済まない」
ついつい語りすぎてしまったと、紳士は頭を下げる。
『記憶喪失』である流護に対し、長々と家族の話をしてしまったことを詫びたらしい。
「いえ。面白い話でしたし……気にしないでください」
「いや……こんなことだから私は、ミア君を泣かせてしまったりするのだろうな。言い繕ったつもりが、今度はクレアリアの機嫌を損ねてしまったりね」
自嘲するようにかぶりを振る。
年頃の子供たちにどう接していいか分からないというその不器用さは、アルディア王と似ているようにも感じられた。
ただ。娘たちを心から思っているということだけは、流護にもはっきりと伝わった。
「君ならば……もしかしたら……」
グラスに注いだ酒を一気に呷った紳士は、うつむいてぽつりと呟く。
「……?」
「ああ、いや。クレアリアは、君にも辛辣な物言いをするだろう? 済まないね。根は優しい、素直な子なんだ」
「はい。分かってます」
「あの子がああなってしまったのは……幼い頃――」
「あっ、聞いてます。二人の、お兄さんが……」
「む、聞いていたか。……ということはベルグレッテめ、その話をするほど君に心を開いていると……」
ルーバートが父親の顔になる。流護が娘に好意を抱くのは理解できても、娘が流護に好意を抱いているかもしれないとなると、それはまた別の話なのだろう。
「え、いや、そっ、そんなことはないかと……」
流護が動揺すると、ルーバートはフフと目を細めて笑った。
「クレアリアが私を嫌うのも無理はない。私はあの怨魔に敵わず、息子を……あの子たちの兄を、犠牲にしてしまったのだから」
「……確か……プレディレッケ、でしたね」
カテゴリーA。カマキリに酷似した、凶暴な怨魔だと聞いている。最近読んだ怨魔関連の本にも、その名は記されていた。最も危険な部類の怪物として。
「詳しく……聞いているのかな」
「いえ。二人が小さい頃、そのお兄さんが亡くなってしまった、ってことぐらいで」
そうかと頷いた紳士は、酒をグラスに注ぎながら続ける。
「輝乱風花……という花を知っているかな? 夜になると儚げで美しい光を放つ、ライネア科の植物でね」
「え? いえ……」
レインディールではまず見かけないが、隣のレフェ巫術神国においては、夜の山道を照らすほどに生い茂る地域もあるという。
またその薄明かりに誘われるようにして、ウォールパティガという夜行性の野ウサギが集まる。この肉が絶品で、レフェ独自の製法によるタレで食せば、間違いなくやみつきになるとのこと。
姉妹が幼かった頃、家族でレフェへ赴く機会があった。
滞在した小さな町で、近場に輝乱風花の群生地があるという話を聞き、目の保養とウォールパティガの狩猟を兼ねて向かってみることにした。
危険生物の類もおらず、緑豊かで美しい森。
時間を合わせて夕刻に到着し、夜には輝乱風花が演出する幻想的な風景を皆で楽しんだ。なぜかウサギの姿は見当たらなかったが、その景色だけでも訪れた価値はあったという。
何だかんだ、家族のいい思い出になりそうだ。このまま森でキャンプを張って一泊し、翌朝には町へ戻る――
はずだった。
幼い姉妹もまどろみ、眠りに落ちようとしていたそのとき。
導かれるように、幻燈のように、それが姿を現す。
ウォールパティガではない。
カテゴリーBの怨魔、ドラウトロー。禍々しさを纏った、黒き暴力の化身。
驚きはしたものの、ルーバートとその息子――ベルグレッテたちの兄は難なくその怪物を撃破する。
だが、おかしい。安全だと聞いていたこの場所に、なぜこんな怨魔がいるのか。ウサギの姿がなかったのも、これが原因かもしれない。ともあれ危険だ。すぐに森を出るべきだろう。
そうして素早く準備を済ませ、家族を率いて歩き始めたルーバートの前に――その怨魔が、影のごとく現出した。
色は漆黒。細く金属質で、刺々しく鋭利な印象を与えてくる流線形の体躯。
通称、死神。識別名、プレディレッケ。
本来であれば、そこに存在などするはずのない怪物。書でしか知らぬ、伝説にも等しい怪異。状況としては、学院がファーヴナールに襲われたあの件と似ていたのかもしれない。
手練の騎士であるルーバートや姉妹の兄ですら手も足も出ず、その兄が囮となることによって、他の全員は生き延びることができた。
「……あの怪物と直接相対して生き延びている人間は、かのガイセリウスや私たちを含めてなお、『ペンタ』の数より遥かに少ないだろうね」
悪夢にうなされるように表情を歪め、紳士は天井を仰ぎ見る。その顔はかすかに赤みを帯びていた。酔っているようだ。
「あの子たちには、申し訳ない気持ちで一杯だ。幼心に焼き付いたはずさ。怨魔に歯が立たぬ、情けない父親の姿が。勇敢に立ち向かった、兄の姿が。あの子たちは、今も兄のことを引きずっている。特にクレアリアはね。不甲斐ない私は……息子を死なせたうえ、娘たちには碌に接してやることもできないまま、ここまできてしまった……」
長男は補佐官としての業務もこなしていたそうで、彼が亡くなってしまったことにより、仕事もまた多忙を極めることになってしまったという。
しばらくそのまま天井を見つめていたルーバートだったが、意を決したように流護へと向き直る。
「恥ずかしい話だが、私では……あの怨魔を倒すことはできない。あの子たちの兄の仇を、討ってやることはできない。だが……だがもしかしたら、君ならば――」
唐突に。
入り口のほうから、バンッ! と凄まじい音が鳴り響いた。流護とルーバートは驚き、全く同時に顔を向ける。
ドアを壊すかのような勢いで開け放ったのは――そこにいたのは、ベルグレッテだった。
風呂上がりなのだろう、ドレスではなくゆったりとした紺のワンピース姿。
しかし何より注視すべきは――柳眉を吊り上げた、鋭い目つき。
「ベ、ベルグレッテ……何事だ。ノックもせず、扉を乱暴に――」
「どういうつもりですか」
ベルグレッテはルーバートの言葉に被せていた。
流護がこれまでに聞いたことがないほど、冷たい声。
「どういうつもりなのかと、訊いているんです。お父さま」
流護は思わず息をのむ。
この少女は、本当にあのベルグレッテなのかと。
ノックもなしに凄まじい勢いで扉を開け放ち、父親を睨みつけている。まるで敵を射抜くような視線で。
彼女はそのままツカツカと部屋へ入り、流護の隣で足を止めた。
「……このため……だったのですか? 今回、リューゴを呼んだのは……」
烈火のような勢いとは裏腹に、悲しそうな声だった。
「いや、そうではない。これは――」
焦ったようにルーバートが声を上げるが、それを無視し、ベルグレッテはがしっと流護の腕を掴む。
「行きましょう、リューゴ」
「えぇ!?」
流護としてはもう訳が分からない。
あまりにもらしくないベルグレッテの剣幕に、引っ張られるまま立ち上がる。
「――おやすみなさい、お父さま」
ベルグレッテは冷たく一方的にそう告げると、流護の腕を引っ張って歩き出す。
もちろん流護の力ならば振り払うことは簡単なのだが、ただごとでないベルグレッテの迫力に押されるまま、部屋を後にする羽目となってしまった。