110. 踏み出す勇気
「がああぁあぁ!」
ブランダルは獣のような呻きと共に右手を突き出し、アクアストームを真正面から受け止めた。
「ぎ、ぐ……、ぬうっ」
荒れ狂う絶大な水蛇に、男は地面を削りながら凄まじい勢いで押し込まれていく。
――お願い、これで終わって……!
リーフィアは祈る気持ちでその光景を見つめていた。
渾身の一撃を放ったベルグレッテは、肩で荒く息をついている。彼女も限界が近いのだ。
「リー……フィア」
「ク、クレアさんっ……」
「私は……大丈、夫……です」
リーフィアの腕に抱かれていたクレアリアが、苦しそうに顔を歪めながら身を起こした。そして、意を決したように風の少女へ向かって告げる。
「リーフィア……今のうちに、ここから逃げなさい」
「……えっ?」
「私たち騎士の役目は、民である貴女を守ること。しかし……私たちでは、あの男を倒すことは難しい」
「そ、そんなっ……!」
そんなことない。
ブランダルは、荒れ狂うアクアストームに押されている。しかも今度の一撃は、増幅の術が仕掛けられているのだ。谷の戦闘で放たれた一撃の比ではない。このまま終わ――
「っ!?」
そこで気付いた。
ブランダルを押し込んでいる水の大蛇。時間こそかかっているものの、その絶大な濁流が――少しずつ、しかし確実に、その大きさを減じている。谷での闘いと同じように、吸収されつつある。
「奴の狙いは貴女です。けれど今なら……逃げられます」
「でも……でも!」
「腹立たしいですが……あの男は、強い。私たちでは……、止められません」
そういうクレアリアは、心の底から悔しそうな顔を見せた。
――違う。あんなのは、違う。人の魂心力を奪って、人の神詠術を奪って……あんなのは強いなんていわない。ただの、卑怯者だ。
「ふ、は、はは、ははああぁ、ああぁっ!」
哄笑が響く。
目を向ければ、小さな竜ほどの大きさもあったアクアストームがブランダルの右手に呑まれ、今まさに消失しようとしているところだった。左肩にはクレアリアの剣が刺さったままになっているが、出血もほぼ止まりかけている。
「ふ、は……ははは! 素晴らしい! これが吸収……! 思っていた以上の能力だ……!」
やはりブランダル自身ですら、その力を把握しきれていなかったようだ。
――来る。反撃が、来る。吸収したアクアストームを撃ち返してくる。
リーフィアは、すがりつくようにベルグレッテのほうへ視線を向ける。
「……っ!」
少女騎士は片膝をつき、遠目にも分かるほどに肩を上下させながら息をついていた。
ブランダルの足が止まっている今が好機。しかし、追撃どころではない。やはりもはや、ベルグレッテも限界なのだ。
しかし、諦めてはいない。彼女の右手に、わずかな水流が渦巻く。アクアストームの詠唱。まだ、闘うつもりでいる。
「リーフィア……早く、行きなさいッ! 奴が……姉様に気を取られてる隙に……!」
「でも……!」
「あと三分程度は稼いでみせます。貴女は走って、とにかく人の多いところを目指しなさい。人目につく場所へ行きさえすれば、奴はひとまず諦めるはず……!」
振り絞るようなクレアリアの声。
リーフィアは、ここでようやく気がついた。
先ほどのベルグレッテたちによる、ブランダルの底を探るかのような挑発めいた問いかけ。あの結果、彼女たちが選択した道。
倒せるかどうか分からない一撃を放つより。確実な足止めをして、自分を逃がすことにしたのだと。
じゃあ、逃げなきゃ。
二人を置いて、逃げなきゃ。
高笑いと共に術を吸収しつつあるブランダルの意識は、完全にベルグレッテへと向いている。きっと今なら、逃げられるだろう。
本来なら。姉妹二人だけだったなら――リーフィア・ウィンドフォールというお荷物さえいなかったなら、二人はブランダルに勝利できていたかもしれないのだ。
自分を逃がすために走り、守るために術を振るい、無駄に消耗してしまった。
だから、わたしなんかがここにいたって仕方がない。邪魔なだけなんだ。なら、逃げなきゃ。
それで、どうなるの? ここで二人を置いて、わたしが逃げた結果、どうなるの?
わたしは? 二人は? どうなるの?
「あ、うぅ……」
分からない。わか――
「クク、ククク! では――自分の技で果てるがいい!」
考える猶予は、それ以上なかった。
修羅場において物事を冷静に判断する能力など、未熟なリーフィア・ウィンドフォールには備わっていなかった。
吸収に成功したブランダルの右手が、白銀に輝く濁流の大蛇を撃ち返す。
しゃがみ込んだベルグレッテへと迫るその一撃。しかし彼女の目は死んではいない。その水流に合わせ、少女騎士は手をかざし――
「う、わあああぁああぁ――――っ!」
飛び出した。
リーフィアは何も考えず走り出した。
後ろにではなく、前へ。
二人の姉妹が、ブランダルが、大きく目を見開く。
ベルグレッテを飲み込もうと迫る水の嵐に、リーフィアは風の力を叩きつけた。
横から直撃した突風は爆発めいた音を発し、アクアストームを消し飛ばす。破裂した水が、雨のように周囲へと降り注いだ。
「リー……フィ、ア」
呆然とした表情で呟くベルグレッテの前に、リーフィアは立つ。彼女を守るように。
――もう、いやだ。
「こ、の……卑怯者っ!」
ブランダルを精一杯に睨みつけ、リーフィアは叫んだ。
生まれて初めてだった。こんな風に、怒りのまま人を罵るのは。声は恐怖に震えてしまって、威圧感などというものは欠片もない。
「フフ、これは驚いたな。しかし……卑怯者、か」
ブランダルはわずかに顔をしかめ、左肩に刺さったままとなっている銀色の剣へ手をかける。そのまま一気に引き抜き、忌々しげに放り捨てた。先端を赤く染めた長剣が、泥にまみれた地面へと転がる。
「私のような、傑出した才覚に恵まれなかった詠術士に言わせてもらえば……だ。君達『ペンタ』のほうが余程、卑怯者だよ」
「えっ……」
「ありとあらゆる脅威を退ける力を有し、そのうえ安泰な生活も約束されているに等しい。この世に生れ落ちた、その時からだ。これが卑怯でなくて何だというのだね」
「そ、れは」
「今の一撃は、ガーティルード嬢にしてみれば渾身の一撃だろう。私もまた、全力で迎え撃った一撃だ。それを、素人にすぎない君が難なく消滅させてしまっている。これほどの力……卑怯でなく何だと言う?」
「……っ」
リーフィアは言葉に詰まった。『ペンタ』が特別扱いをされ、優遇されているというのは事実。
疎ましく思っているその力が、誰もが羨む強大な力であることも事実。
「それは、ただの妬みでしょう」
声にハッと目を向ければ、立ち上がったクレアリアの姿。残る力を振り絞り、自身に回復の術を施したのだろう。
「リーフィア、こっちを見ない。きちんと、『敵』から目を逸らさないで」
その言葉に、風の少女は慌ててブランダルへと視線を戻す。
「貴様が才覚のない詠術士だなどということは、この闘いで嫌というほど感じ取れました。無尽蔵に近い魂心力や複数属性の神詠術、オプトの能力まで有しているというのに、私たち相手にこれほど手こずっているんですもの」
クレアリアはリーフィアの隣に並んだ。
一瞬だけ顔を歪めたブランダルだったが、すぐに皮肉げな笑みを浮かべる。
「フ……では、その才覚のない私に倒されるのはさぞ屈辱だろうな、お嬢さん」
「させ、ません」
リーフィアは恐怖と緊張で震える膝を奮い立たせ、言葉を放つ。
「私が、させませんっ……!」
勇気を振り絞って発したその言葉を、男は鼻で笑う。迫力など欠片もないのだろう。
無理もない。いくら『ペンタ』とはいえ、リーフィアは戦闘など……誰かと争うなどという行為をしたことがない。だからこそ、ベルグレッテたちが必死に守ってくれていた。
しかし。
力が、ある。自分には、ベルグレッテたちを守れるかもしれない力がある。脅威に立ち向かえるかもしれない力がある。
思い出す。昨日の、博士の研究棟でのこと。
ベルグレッテの言葉。
『でもリーフィア。それだけのすごい力があるなら、使いかたさえ間違えなければ、誰かを助けることだってできるのよ?』
そうして、少女はなけなしの勇気を振り絞って覚悟を決めた。
ただ、助けを待ってるだけじゃだめだ。
助かるために――自分から、動くんだ。
もう嫌だった。
自分の力のせいで、誰かが巻き込まれてしまうのは。近しい誰かが、いなくなってしまうのは。
毛嫌いしていた、自分の力。多くの人を巻き込んでしまう、この力。
それは、大きな力だからこそだ。
つまり上手く活かすことができるなら、この局面だって覆せるはず。
何もできない? 逆転するための何かなんて、この場には転がっていない?
あるじゃないか。
自分自身の、この能力が。
「……っ」
リーフィアは拳を握り締めた。恐怖と緊張に震える膝を、必死で奮い立たせる。
ともすれば、幼い頃の光景が脳裏に甦る。
発生させた風によって、友人を吹き飛ばしてしまったこと。大ケガをさせてしまったこと。そして制御が上手くできなくなり、次第に自分に近づこうとする人間はいなくなっていった。
今度は、ベルグレッテたちを吹き飛ばしてしまうかもしれない。ベルグレッテたちも、自分から離れていってしまうかもしれない。
そんなことを思って握り締めた右の拳に、優しい感覚が伝わった。
「あ……」
ベルグレッテが隣に立ち、リーフィアの右手を優しく握っていた。少女騎士は鋭く敵を見据えたまま、しかし優しい声音で言う。
「……リーフィア、ありがとう」
三人で並び立ち、ブランダルを睨みつけた。
「クク、美しきは友情か。では……そろそろ宜しいかな」
当の相手は余裕の態度で笑い、首を傾けてコキリと鳴らした。
すでに……ブランダルの肩の出血は完全に止まっている。この会話中、回復に専念していたのだろう。ベルグレッテたちがあれほど何度も傷を負わせたというのに、敵はもう完全に回復してしまっている。
対するこちらは……ベルグレッテとクレアリアは、もはや満身創痍だ。
でも、私が……なんとかする……っ!
覚悟を決め、キッとブランダルを見据え――
「フー……『ペンタ』とはいえ……まさか素人が何とか出来ると本気で思うのか? やはり『ペンタ』の力は害悪だな。素人の子供にすら、根拠のない自信を抱かせてしまう。戦闘を――殺し合いを舐めるなよ、小娘」
「っ……」
ブランダルの鋭い眼光に、思わず怯んでしまう。が。
「貴様が舐めるな、豚」
言葉と同時、クレアリアは無造作に右手を振った。
「!」
水。殺傷力も何もないただの水が、手桶の中身を放ったみたいにブランダルの顔へ降りかかる。咄嗟に顔を庇ったブランダルに対し、クレアリアは大きく踏み込み、さらに足元の泥を蹴り上げた。
「チイィッ、小娘ぇ……!」
出鼻を挫かれて苛立つ男に構わず、彼女は転がるように移動し、落ちていた自分の剣を拾い上げた。
そのままブランダルと交戦に入るクレアリアを尻目に、ベルグレッテがリーフィアへ告げる。
「力不足でごめんなさい、リーフィア。本来であれば、あなたを守りきらなきゃいけないのに……」
「いいえ。一緒に……闘います。やらせてください……!」
上手くいくかなんて分からない。けれど友人として。肩を並べて闘うと、リーフィアは決意した。
ベルグレッテが「ありがとう」と小さく頷く。
「私とクレアが、奴をなんとか足止めする。確実に当てられる隙を作ってみせる。リーフィアは、そこに目一杯の術を叩き込んで」
「は、はっ……はいっ」
「倒そうなんて思わなくていい。思いっきり吹き飛ばしてやって、もうその隙に逃げちゃいましょうか」
ベルグレッテはいたずらっぽい微笑みすら見せて、気軽な口調でそんなことを言った。リーフィアにも分かる。自分を安心させるためだと。
その気遣いに大きく頷き、超越者の端くれたる少女は後ろに下がる。
ブランダルへと走り込んでいくベルグレッテを見ながら、祈るように両手を胸の前で合わせた。
――初めて。
ずっと疎ましく思ってきたこの力を頼るなんて、これが初めてだった。
なんて、都合のいい話だろう。邪魔だと感じていたこの力を、友達が危ないから頼りたいと思う。神さまは許してくれるのだろうか。
ううん、許してくれなくたってかまわない。それでも、一度だけ。一度だけでいい。それでもわたしは、二人のために……自分の意思で、この力を使う……!
風の神さま……ウェインリプスさま。お願いします。二人を助ける力を、今だけでも……!
その想いに応えるように。
一陣の風が吹き――リーフィアの周囲を優しく、しかし力強く取り巻き始めた。