105. 陸の上の深潭
「ところでリューゴ、礼を言うぞ。お主のおかげで、あの小僧も無事に逃がせたし、俺も詠唱の時間を作ることができた。お主に手伝わせた俺の目に狂いはなかったな。がはは!」
ディーマルドが『消滅』して、しばし。
どこか暗い空気を振り払うかのように、アルディア王は肩を回しながら笑う。流護は思い出したとばかりにハッとした。
「そうだ王様。どういうことなんですか? 王様は、あのオッサンがああなるのを知ってたんですよね? もう、何が何やら……」
「まァ流石に、狂人化なんてモンが出てくるとは思わなんだがな。説明が遅れてしまって済まんが……つまり、だ」
フェル・ダイには、神詠術爆弾など仕掛けられていない。
というよりも、このテロに神詠術爆弾が用いられることはない。
アルディア王は、早い段階でそう予想していたのだという。
理由は簡単。美術館の外観が損傷していたからだ。ジンディムほどの技量を誇る者が爆弾を扱えば、その威力は凄まじいものとなる。あの場のほとんどの者たちを巻き込み、防護の術が切れかけている美術館……自分たちの篭城している建物をも崩壊させてしまうような。
無論、実際にはジンディムがどれほどの威力の爆弾を行使してくるか分からない。
が、決定的だったのは、ジンディム自身の宣告だ。
『言っておくが、私の神詠術爆弾はそれなりのものだと自負している。その殺傷範囲は、およそ百マイレにも及ぶ。その場にいる者ども全員、容易に吹き飛ばすぞ。勿論、アルディア王……貴様を含めて、な』
そんな超威力の爆弾であれば、防護の切れかけている美術館も間違いなく倒壊する。アルディア王を含めてどころではない。ジンディムたちをも含めて、となってしまう。
勝利宣言に聞こえたこの言葉――脅しのつもりで語った神詠術爆弾の規模が、逆にハッタリの証明となっていたのだ。
事実、運び込まれたフェル・ダイへ対して宮廷詠術士に確認させていたという。敵は目的のためなら、仲間に対しても仕掛けを施すだろうと読んで。
このことを知っていたのは、アルディア王と伝令に来た兵士、確認を実施した詠術士の三名のみ。敵を騙すにはまず味方から――ではないが、こちらが爆弾のハッタリを見抜いたことを悟られぬよう、少人数のみが把握していたようだ。
「あれ……ってことは」
フェル・ダイに爆弾が仕掛けられていないことをすぐに見抜いていた。直後、人質も全員が解放された。
この時点で、敵の篭城は成立しなくなっている。ジンディムの『爆弾を仕掛けた宣言』も嘘だと分かっていた。ならばアルディア王の勝ちはほぼ確定し、交渉を続ける意味すらなくなっていたはずだ。
「どうしてその後……爆弾に脅されてるって体で、敵の要求を飲んだんですか?」
「爆弾じゃねぇが、別の何かが仕掛けられている形跡があった。で、宮廷詠術士でもそれが何なのか分からねえ。正体不明のモンにゃ触らぬが吉。せっかく学院長も呼んだ訳だしな、何だかんだであいつに術者を無力化してもらうのが確実だ。となりゃ、学院長を送り込む機会がほしかった」
「学院長を……、あれでも、学院長ってどっか行っちゃいましたよね。B地点がどうとか……」
「ああ、美術館に入っていった馬車の御者が学院長だぞ。B地点ってのは、馬車を待機させてた場所のことだ」
「まじすか!?」
ということは今頃、テログループ本隊は幻覚を見せられている真っ最中か。
敵の数は二十名にも及ぶそうだが、あの学院長に関しては何も心配がいらなそうな気がするから不思議である。
敵は目的を達したなら、美術館から脱出しなければならない。
そこで、逃走するための手段として要求された馬車の御者として、学院長を送り込む。
そのために、敵の要求を飲んだのだ。
しかしここでようやく、流護は学院長の言葉の意味を理解する。
『――だって。ただの、茶番だもの。こんなのは』
ありもしない爆弾をちらつかせた最後の交渉。大胆にすぎるジンディムのブラフ。
全て見抜いていたらしき学院長からしてみれば、まさに茶番としか言いようがなかったのだろう。
それにしても敵が、到底受け入れられない本命要求……それこそリーフィアの身柄などを求めていたら、どうするつもりだったのだろうか。
それを尋ねてみれば、
「そん時ゃ、おめぇにウチの娘がやれるか! つって突撃だな。あんま美術館に損傷出したくねえんだが、しょうがねえ。それならそれで民衆らも盛り上がるだろうし。なぁに、お前さんもいるんだ。楽勝楽勝」
「うへぇ……」
危うく特攻要員にされるところだったようだ。もっとも、その時点で敵側に人質がいない以上、そうなるのは必然かもしれない。
むしろ、そんな正面衝突を望んでいたようにすら聞こえるのは気のせいか。
ともかく、フェル・ダイを解析した結果、身体強化系に近しい何らかの神詠術が仕掛けられていると判明した。
爆弾に『見せかけている』時点で、爆弾に比べれば脅威度は低いものだと推察される。身体強化系に近しいのであれば、一瞬で莫大な人的被害が出るようなものではない。
ただそれが、何であるか分からない。それこそ爆弾のように、危害を加えることで発動してしまう術の可能性もある。そこで念のため、ケッシュに監視するよう命じた。
では、ジンディムはどんな意図があってそんなものを施したのか。
「おそらく……混乱を引き起こし、奴自身が逃げるために仕掛けたんだろうな」
爆弾でないことが見破られても、ジンディムにしてみれば問題はなかったのだ。
何らかの術が仕掛けられている。詳細が分からない。迂闊に対象を殺してしまっていいものか分からない。罠かもしれない。警戒しなければ。
そう、こちらに思わせることができればそれで成功だった。
「……で、詳しく調べる時間はなかったが……ディーマルドにも、同じく術が仕掛けられていると予想した」
混乱を起こすことが目的なら、フェル・ダイ一人だけでは効果が薄い。
結果がこれだ。
術の名前は――狂人化。遥か昔に廃れた、古い神詠術だという。
本来は施した者をいわば狂戦士化する、使い勝手の悪い技術。肉体的には身体強化以上の効果を発揮するが、その反動も大きく、そもそも敵味方の区別すらできなくなる。戦術も神詠術もなく、文字通りただ暴れるだけの狂人となってしまう。
しかしディーマルドに仕掛けられていた狂人化は、ジンディムによって独自のアレンジが加えられたのか、狂ってもなお鋭い動きを可能としていた。そのうえ、それこそまるで神詠術爆弾のように潜ませることにも成功していた。
その狂人化という、今の時代に知る者の少ない――とうの昔に廃れた神詠術が、人質という盾をなくしてなお、立て篭もりを成立させる要素として機能した。
爆弾に見せかけたフェイクの仕掛けだったかもしれないが、それでもディーマルドが民衆たちの大勢いるあの場で暴れ狂っていたなら、甚大な被害が出ていたかもしれない。
「まァ、もはや狂人化とは別物の新たな術と言っていいだろうな。大したモンだぜ、こりゃ」
「……はあ……あれ、ってことは……あのフェル・ダイって野郎も今頃、大暴れしてるんじゃ……?」
「まず間違いなかろう」
「いや、ま、まずいっすよ……!」
ディーマルドがこれほどの強さを発揮したのだ。
フェル・ダイはそれより劣るかもしれないが、それでも通常の兵士の手に負えるとは思えない。
「なぁに。そのためにケッシュをつけたのだ」
「え……」
ケッシュは『銀黎部隊』の一員だ。優秀な兵であることに違いはないはず。……しかし。彼の、虫も殺せない印象の柔和な顔を思い出す。
「ぶっははは! ケッシュじゃ頼りねぇってかぁ?」
「え? い、いや……」
思い切り顔に出てしまっていたのだろう。アルディア王は豪快に肩を揺らして笑う。
「くく。まぁ、見ての通り青臭ぇ未熟モンだよ。二十一にもなって女が苦手でな、とっとと娼館にでも行って度胸つけてこいって言ってんだが、『じ、自分はそういうのは愛する女性とでないと!』とか抜かしやがってよぉ。お前の好きな女は他の男に跨って腰振ってるよ、っていつも言ってんだがな」
ひどい。
「……けどまぁ、」
巨大な王はにたりと笑みを深める。
「青かろうが、『銀黎部隊』じゃ中堅。そこそこ強ぇんだぜ、あれでもな」
「ぐっあぁっ!」
兵士の構えた盾が、ベコリと凹んだ。その打撃力に耐えきれず、彼は後ろへ倒れ込む。
盾を殴りつけた姿勢のまま、フェル・ダイが荒く息を吐き出した。
この青年にはもう、見境などというものはなかった。
血まみれとなったケッシュに追撃をかけることはなく、近くにいた別の兵士へと襲いかかっていた。
もはや、戦術も何もないのだろう。
しかしまるで、暴力の渦。圧倒的なまでの膂力。今この場にいる兵士たちでは、到底フェル・ダイを止められない。
このままでは間違いなく――全滅する。
そうしてこの男が民衆たちの中へ飛び込んでいったなら、一体どれほどの被害が出るだろうか。
(……ああ……これ、は、もう……手遅れに、なる)
ケッシュは右半分となった視界のまま、呆然と思考を巡らせた。
『切り替わる』。
――ああ、手遅れになる。早くこのクソをブチ殺して、治療しねえと。
「おい」
血まみれのケッシュは、無造作なほどツカツカと歩み寄った。荒れ狂う暴力の塊に向かって。
反応したフェル・ダイが、振り向きざまに砲弾のような拳を唸らせる。先ほどと寸分違わぬ、剛の兇撃。が、ケッシュは首を振ってこの一撃を躱した。赤い飛沫が飛び散る。
「ハッ!」
ケッシュは身体を傾けた勢いそのままに、右手をフェル・ダイの顔面へと叩きつけた。
拳でも、掌底でもない。ただ、手のひらで押しつけるように叩く一撃。
しかし。ぼこん、とくぐもった音がした。
「はー……」
ケッシュは仕事を終えたとばかりに息を吐き、身体を起こす。
それは、水の塊。
まるでそこへ置いてきたように、フェル・ダイの顔面に水がまとわりついていた。分量としては、小さな手桶に一杯分といった程度。
しかしその水塊は、意思を持ったようにフェル・ダイの顔へ取りついている。ごぽ、とその鼻から漏れた気泡が立ち上った。
それは本能によるものなのか。狂った青年は顔にまとわりつく水を取り払おうと、両手で水を叩いてもがき始める。しかしそこは、水の塊。指がかかるはずもない。
「のう。おめー……おめーさんよー、」
別人のように低い声。射殺すかのごとき血走った眼。
独り言のみたいに呟きながら、ケッシュは散歩でもするかのようにゆっくりとフェル・ダイの背後へ回った。
「俺らがよ、何でおめーさんを丁重なお客様みてーにテントまで案内して、快適に眠っちゃってもらってたと思ってんのよ? あ? おめーはよ」
背後から水に包まれたフェル・ダイの頭を掴み、
「おめェーが爆弾シコまれてっかもしんねーから、腫れ物に触るみてーにしてたんだろがよ? あ?」
そのままぶん投げるように薙ぎ倒した。
吹き飛んだフェル・ダイは、仕切り板を道連れにして石畳へと倒れ込む。しかし起き上がるどころではないというように、顔面に付着した水を何とかしようともがき続ける。口や鼻から溢れた気泡が、浮かんでは弾けた。
ケッシュは削られた側頭部に手を当てた。
痛みに顔を歪めるも、左手が淡い光を放ち始める。回復の神詠術。
「おー痛ぇ……。最悪だぜ、失態も失態だよ、大失態だ。たかだか狂人のあんな大振り喰らっちまって、ダセェったらありゃしねー。どーすんだよ。そのケガ何? って訊かれてよ、俺ぁどう答えりゃいーのよ。おめーみてぇなゴミクズにやられました、って言わなきゃいけねーかよ、あ? まーた隊長に叱られちまうじゃあねーかよ、おい」
一部の者からは『超再生』とも評される、その回復速度。愚痴る間にも血が止まり、皮膚の赤みが消えていく。
「大体よ、いいかおい。俺ぁ、陛下にココ任されたんだよ。そりゃつまり、陛下が俺なら任せるに足ると。ケッシュ・ラドフォードになら、この場を任せられると。そう判断してくださったってことな訳だよ。ん? 聞いてるか? ハゲ」
治療を施しながら、倒れたフェル・ダイの腹に連続で蹴りを叩き入れる。蹴り込むたびに、フェル・ダイの口から漏れた気泡がごぼごぼと水塊の表面を泡立てた。
静かな口調とは裏腹、打ちつけられる蹴りは火のように苛烈だった。
「ここで俺がヤラレちまったら、陛下の見立てが間違ってたってことになっちまうだろ? 分かるか? ん? 理解、でき、ます、かぁー? 白、猿、くーん?」
ケッシュは狂ったように蹴りを叩き込んだ。呼応するかのごとく、フェル・ダイの顔面に貼りついた水が泡を弾けさせ、飛沫を飛ばす。
「あー、よく考えりゃそうなんだよ。神詠術爆弾だったら俺じゃどうしょもねぇし、おめーがこうなるのを陛下は予測してたって訳だな。さすがだぜ、あのお方はよ。まっ、先に教えといてくれてもよかったんじゃねーか、とか思わねーでもねえけどよ。んでもゴタついてたし、学院長は気付いてたみてーだし、俺が未熟なだけか。でもよ、ダルコールのアホなんかは絶対ぇ気付かねーと思うんだけど、どうよ?」
――と、何度目の蹴りを加えた瞬間か。
がし、とフェル・ダイがケッシュの足を掴んだ。
「……あ?」
見下ろせば、青年の顔面に取りついていた水が減っている。ごぼごぼと唸りを上げる音。顔全体を覆っていた水は、いつしか鼻下の位置にまで激減していた。
兵士の一人が震えた声で呟く。
「こ、こいつ……まさか、水を飲んで、減らして――!?」
露わになったフェル・ダイの双眸が、ぎらりと騎士を睨み上げる。
暴悪な腕力をもって足を引っ張り、そのまま引きずり倒した。
「ケ、ケッシュさん!」
仰向けに倒れた騎士の上に、フェル・ダイは荒い息をつきながらのしかかった。これまで取り入れられなかった空気を存分に吸い込むように、激しく肩を上下させる。血にまみれたその拳を握りしめ――た瞬間、
それより速く、またもケッシュが手のひらをフェル・ダイの顔面に叩き込んだ。
ごぽ、と水が弾ける。
「行儀の悪い猿だなおい。オカワリが欲しいならそう言え。って乗っかってんじゃねーよ、気持ちワリーな」
ケッシュは再度もがき始めたフェル・ダイの肩を掴み、邪魔だといわんばかりに横へ薙ぎ倒して、ゆっくりと立ち上がる。
「ま、あれだ。おめーなんざ、手桶二杯分の水がありゃ殺せるってこった」
顔の治療を再開し、フェル・ダイの動きが少しずつ鈍くなっていく様を眺めながら、『深潭』の二つ名を持つ騎士はつまらなそうに吐き捨てた。
「陸の上で溺死ってのも珍しい経験だろ? あの世で自慢していいぞ、白猿」




