104. 獅子の領域
「姫様、姫様」
「…………」
「ひーめーさーまー」
「あ、は、はい」
奴隷関連の書籍に目を落としていたリリアーヌは、オルエッタからの呼びかけで我に返った。
「先程から頁が進んでいませんね。やはり身に入りませんか?」
「えっ……と、ごめんなさい」
言い訳をしても仕方がない。素直に謝った。
「テロという非常事態ですもの。無理はありません」
美術館を囮とした城への攻撃も考えられるため、城内には物々しい雰囲気が漂っていた。
リリアーヌの部屋の外も、兵たちによってがっちりと固められている。
オルエッタの言う通り、非日常の空気に当てられているというのも間違いなかった。そこでふと、彼女は得意げな顔で人差し指を立ててみせる。
「こんな時は、逆に考えてみるとよいのです」
「逆……ですか?」
「もし、自分がテロを起こす人間だったなら。アルディア王という人物と、戦わなければならないとしたら」
「そ……れは、勝てる気が、しませんね」
「ふふふ、そうでしょうそうでしょう」
オルエッタはくすくすと笑いながら紅茶を注ぐ。
「姫様も聞いたことがおありでしょう。昔はヤンチャだった少年時代の隊長……ラティアス少年が、若かりし頃の陛下にベコベコのボコボコにされてチビりながらひれ伏したという素晴らしい逸話を」
「え、ええ……と、そんな話だったかしら……?」
かつてアルディア王とラティアスが決闘を繰り広げ、敗北したラティアスが軍門に下ったという逸話。
本人たちが過去について語りたがらないため、一部の者のみが噂する眉唾ものの与太話ではある。……何か脚色されていた気もするが。
しかしリリアーヌが知る最強の騎士といえば、まずは『銀黎部隊』の長であるラティアス。目の前にいる副隊長のオルエッタ。そして自分の正規ロイヤルガードであるアマンダの三名だ。
中でも『閃雷』の二つ名で知られるラティアスの活躍の数々は、この国の人間ならば子供たちでも知っているほど。ごっこ遊びをする際、男の子たちがラティアス役を巡ってケンカになることも珍しくない。
若く荒れていた頃とはいえ、そんな彼を屈服させたアルディア王にもしものことが――という図は、確かに想像するのが難しかった。
「いくら『銀黎部隊』の大半が不在とはいえ……かのラティアス少年をチビらせた陛下に加えて、ナスタディオ学院長までいるんですよ。あと一応、ケッシュも現場に向かったはずですし。私だったら、テロなんて諦めて実家に帰っちゃいます」
オルエッタの言葉に、リリアーヌはふふと笑った。
しかし一理ある。
レインディールは、他の地域と比べても凶悪犯罪が少ないとされている。アルディア王を敵に回そうなどと考える人間が少ないのだ。
ただでさえ強大な武王を敵に回す場合、『銀黎部隊』と勇猛な兵士たちをも同時に相手取ることとなる。
そうして考えると、少しは安心できるような気がしなくもない。
――と、そこでオルエッタがわずかに眉を吊り上げた。
「しかし姫様。貴女は、そんなアルディア王に対立する道を選ぼうとしている訳です。奴隷制度の改革、という点において。さあさあ、もりもり勉強しないといけませんよっ」
「は、はい」
この件において、自分が力になれることなど何もない。
父には、大勢の騎士たちがついている。
今はオルエッタの言う通り、自分がいつか奴隷制度について父と対峙するそのときのために、力をつけなくては。
リリアーヌは再び、文字でびっしりと埋め尽くされた本に目を落とすのだった。
勉強に集中し始めたリリアーヌ姫の傍らへ紅茶を置き、オルエッタは窓際に寄った。肩にかかる白い髪をかき上げ、外の様子を窺う。
例のうろこ雲に覆われた空とはまた違った、しかし同じく不吉さを思わせるような、どんよりとした曇り模様。
『陛下に加えて、ナスタディオ学院長までいるんですよ。私だったら、テロなんて諦めて実家に帰っちゃいます』
冗談めかして姫に語った言葉だが、真実だ。
(闘るならせめて、どちらか片方だけで勘弁してほしいものねー)
そんなオルエッタ個人の、騎士としての負けず嫌いな精神はともかくとして――
しかし裏を返せば、敵はそれらも全て織り込んだうえで襲撃を仕掛けてきているということになる。何も考えていない愚か者でなければ、だが。
果たして、そこまでする理由とは何か。そうまでして、何を得ようとしているのか。
決して、油断のできる相手ではないだろう。
(……はぁ。面倒なことになりそうね~)
オルエッタは胸中で独りごちる。
しかしそれは、テロを起こした敵が厄介――という意味ではない。鎮圧を終えた後の事後処理が面倒、という意味だった。
アルディア王は、必ず勝利する。
臣下としての信頼などではなく、純然たる事実として。
例えるなら、ここは庭なのだ。
レインディールとは、一頭の巨大な獅子が統べる広い箱庭。付き従う獣たちも、またそれぞれに強力無比。
そんな獣の領域に入り込み、あまつさえ牙を剥いた者たちの末路など、考えるまでもない。
敵とて無策ではないだろう。様々な謀略を張り巡らせているはず。
しかし。
(それでも……陛下は、その上を行く)
敵は慄き、知ることになる。アルディア・グレンスティール・レインディールという男の恐ろしさを。
気付いていないだけなのだ。
すでに、自分たちが口中へ囚われていることに。あとは咀嚼して砕かれ、飲み込まれて消えるだけ。
(……さて――)
オルエッタはぐーっと伸びて、身体をぱきりと鳴らす。
余計な事後処理が増えそうだ。
思惑通り、例の少年も引き入れて帰ってくるだろう。
懸命に勉強するリリアーヌ姫に倣い、オルエッタも今のうちに済ませられる雑務を終えておくことにした。非日常など、どこにもないというように。
響いたのは、破砕音。
「……、ッ痛えぇ、なぁ……」
止めたのは、巨大なる王。
ディーマルドと少年の間に割り込んだアルディア王は、先の決闘で見せたように、またも左手のひらで黒拳を受け止めていた。
――しかし。
「……ッ」
常に余裕の二文字しか浮かんでいなかったその顔には、かすかな苦悶の表情。
当然だ。ただでさえ凶器と評する以外にない黒鉄の拳。これで二度目。さらに、豹変を遂げたディーマルドによる一撃。鳴り響いた破砕音。
アルディア王の左腕は、間違いなく粉砕したはず。
それでも王は口を開く。
苦しげな息と共に漏れるのは、悲鳴ではなく……確かな言葉。
「……お前さんの、拳よぉ……子供のために、俺を殺すために、磨き上げたモンじゃねぇか。それをよりにもよって、子供に向けちまうなんざ……笑い話にも、なりゃしねえぜ」
流護には、その言葉の意味がよく分からなかった。
が。
ディーマルドは、わずかにびくりとその身を震わせた。理性が消えたはずの拳士は、王の言葉に何かを感じ、動きを止めていた。
「そこの小僧よ。今のうちに走れいっ」
「え、あっ、王様っ……」
背後へと庇った小さな少年に、王は豪快に笑いながら指示を飛ばす。
「この場から全力で走って、父ちゃん母ちゃんの下まで行くこと。これは王様からのお願いだ。できるな? 我が国に生まれし、勇敢なる少年よ」
「はっ、はいっ……!」
「ようし行けぇい!」
野太い号令と同時、少年が走り出す。
王は瞬時に肩からぶちかましを放ち、ディーマルドを弾き飛ばした。
そのまま迎え撃とうと身構えるアルディア王だったが、
「ぐぉ……!」
左腕に激痛が走ったのだろう、わずかにその巨躯を硬直させる。
その隙は、体勢を立て直したディーマルドが拳を構えるに充分な時間であり、
「こっち向けや、オッサン!」
空手家が飛び込むに充分な時間でもあった。
背後から接近した流護に気付いたディーマルドが、振り向きながら右の拳を唸らせる。
黒い閃光となって空を裂く、剛の一撃。
「――――」
鼻先まで迫った右拳を、流護は半月の軌跡描く廻し受けによって払い落とした。光が屈折するように、黒き一閃はその軌道を逸らされる。
「ふっ――!」
そして、返す刀。
鋭い呼気と同時、流護は右の貫手を奔らせた。
咽喉。心臓。水月。
凶器と化した指先の三連撃が、正中線に沿った人体急所を一息の間に打ち据える。
「ガ、バァァ……ッ!」
破裂するように、ディーマルドが血の塊を吐き出した。大きくよろめき、数歩たららを踏む。
(もういい……オッサン、止ま――)
「リューゴ! 下がれいッ!」
アルディア王の野太い声が轟いた。
横っ飛びで離れた流護が視線を向けると――
「う、お……」
思わず、声が漏れた。
悠然と佇むアルディア王。その右手に握られる、真紅の斧。大戦斧、とでも呼ぶべきか。全長十メートル近くにも及ぶ、現実にはありえない長大さを誇る炎の斧だった。
その摂氏はどれほどに達するのか。大きく離れた流護の下にさえ、焦がすような熱気が伝わってくる。単純な温度では、ディノの双牙以上かもしれない。
あれほど荒れ狂っていたディーマルドですら、足を止めて炎を見つめていた。虚ろな眼のまま。それはまるで――沈みゆく太陽を見つめる獣のような。
「ディーマルドよ、もうよい」
それはどんな感情なのだろう。少し、悲しげな色をたたえた瞳で。
「終わりにしようや」
絶大なまでの灼熱が、アルディア王の動きに従って振り上げられる。
それは、あまりにも絶大な――死を告げる断罪の斧。炎の揺らめきが、路地裏をただひたすらの紅へと染め上げた。
「――――さらばだ」
叩き落とされた真紅が生み出す暴風の最中、悲しく響く。
振り下ろされた一撃は、まるで神の審判。眼前の全てが、ひたすらの赤光で埋め尽くされた。
流護はあまりの風圧に目を細め、眼前へ手をかざす。
刹那に発生した突風が過ぎ去り、熱波の余韻も残る中。
爆心地へ視線を向けると――
「…………な、」
そこには、何もなかった。
建物に囲まれた狭い路地。わずかに黒ずんだ土の大地。周囲を舞う土埃。
派手に地面が粉砕していることもない。周りの何かが損壊した訳でもない。
ただディーマルドという男だけが、消えていた。
初めから、そこにいなかったかのように。
周囲に無為な破壊を撒き散らさない、恐ろしく凝縮された一撃。その証明。
キンと音を立てて、何かが降ってきた。
流護の足元へ転がってきた、それは――
「触れるなよ。火傷するぞ」
屈み込んで拾おうとした流護を、アルディア王が小さな……静かな声で制止する。
小さな金属片。黒く、融解した跡の見られるそれは、拳士が身につけていたガントレットの一部だった。
実感がない。
たった今、目の前で間違いなく人が死んだというのに、死体すらない。ただ、忽然と消えてしまった。あれほど荒れ狂っていた男が。
夢を見ているような気分のまま、流護はぽつりと尋ねる。
「……王様」
「ん?」
「あのオッサンを……どう思ってたんすか?」
「奴は賊で、俺はこの国の王。ただ……それだけのことだろうぜ」
けどよぉ、とアルディア王はどこか疲れたような笑みを見せる。
「リリアーヌの奴じゃねえが、皆が仲良く笑って暮らせりゃいいのになァ」
ずきり、と流護の左腕が痛んだ。
見れば、ディーマルドの拳を受けた左腕がわずかに切れ、血を流していた。
まるでそれが、あの男が存在していたことの証であるかのように。
薄暗く細い路地に、慌しい足音が反響する。
ベルグレッテ、リーフィア、クレアリアの少女三人は、滑るように建物と建物の間を駆け抜けていた。
――が。
「はっ、はぁっ、ふ……っ」
リーフィアが、荒い息を吐きながら足をふらつかせていた。
当然だ。彼女は元々運動が得意ではないうえ、そもそも『ペンタ』であることを除けばただの少女なのだ。戦闘を得手とするような刺客から逃げ切ることは、ほぼ不可能。
このままでは――やがて、追いつかれる。
(――どうする……っ!?)
ベルグレッテは焦りを押し殺し、思考を奔らせる。
戦闘は論外。相手がオプトとなれば、全力でかかっても勝負にすらならない。リーフィアを庇いながらとなると、もはや戦闘を選択肢の一つと考えることすら愚かしい。
何とか。何とかして、彼女だけでも逃がすしかない。
その方法を、考えなければ――
――と、走るベルグレッテの顔の横に、通信の波紋が広がった。
「はっ、はぁっ、リーヴァー、ベ、ベルグレッテです!」
息を切らせながらも通信に応える。
これは不幸中の幸いか。誰だか分からないが、この通信で救援を呼ぶことができる――
『ベ、ベルグレッテさん!? わっ、私です、アルマです!』
「アルマ? どうしたの?」
通信の相手は、先日のミア奪還戦の際に大ケガで入院してしまっていたアルマだった。ほんの昨日無事に退院したのだが、病み上がりということで、今は簡単な哨戒任務に当たっていたはずだ。
『そ、それが……こんな、こんなこと、誰に報告したらいいか分からなくて……!』
「おっ、落ち着いてアルマ。なにがあったの?」
ベルグレッテ自身、悠長に話を聞いている場合ではないのだが、完全に動転してしまっているアルマの様子が気にかかった。
『そ、その……今、四番街の裏道を、巡回してたんですけど……』
話を聞きながらも少女騎士は背後に気を配り、警戒し、身を隠すように細い道を駆け抜ける。クレアリアとリーフィアが懸命に続く。
『裏道沿いの、排水路に……人の、遺体が浮いてて……』
「遺体、が……?」
嫌な言い方になるが、珍しいことではない。他に比べて治安がいいといわれるレインディールだが、それでも人を殺したの何だのという犯罪は常日頃発生している。
『引き上げて、みたんです。それで……、この人、何度か見たことがあるから、間違いないんです』
「えっ……なに? 誰だったの?」
細い道が終わり、大きく開けた空き地に出た。
そこは王都を囲む巨大な壁のすぐ内側だった。高くそびえる壁の周囲を、横幅十マイレにも達する大きな川が流れている。
空き地は高台のようになっており、端には転落防止用の柵がぐるりと設けられていた。柵の外側は三マイレほど下に細い石畳の道があり、下水道へと繋がっているようだ。
ここからどこへ向かうか。ベルグレッテたちが足を止めた瞬間だった。
通信越しのアルマが告げる。
『遺体は……ミディール学院の「ペンタ」……オプトさんだったんです……!』
「…………!?」
ベルグレッテだけではなく、通信を聞いていたクレアリアとリーフィアもが息をのんだ。
「っ……、え、ちょっ……待ってアルマ。オプトが、遺体で……?」
少女騎士は動揺のあまり聞き返してしまっていた。
――オプトが死んだ? 死んでいた?
それなら。それなら――
瞬間。ゴウンッ! と、凄まじいまでの唸りを伴った突風が叩きつけられた。
「っく!」
「きゃあっ」
細い道の出口で立ち尽くしていた三人は、突如巻き起こった風に吹き飛ばされる。通信が強制的に切断された。
膝をつき、何とか体勢を整えたベルグレッテが顔を上げると――
空き地の中央。まるで降臨するかのごとく、風を纏いながら着地する一つの影。
ブラウン色のローブに身を包む、『オプトだと思っていた』襲撃者。
(それなら……この敵は、何者だっていうの――!?)
ベルグレッテはギリと奥歯を噛み締め、刺客の姿を見据える――。