100. 追跡者
「……ィア、リーフィア」
呼び声に――肩を揺すられる感触に、風の少女は胡乱な意識のまま目を覚ます。
「……んぅ?」
まず視界に入ったのは、覗き込んでくるクレアリアの顔だった。
「……あ、れ? クレア……さん?」
「そろそろ着きますよ」
「……着……く?」
いまいち状況が飲み込めず、辺りを見渡す――までもなく、馬車の中だった。
「あれ……? わたし、どうして……あ」
アルディア王に引き渡すことはできないと言われて、力を暴発させそうになって、テントで休むことになって――
「クレア、さん……ごめんなさい……」
「何を謝ってるんですか」
「いろいろと……わたしが……」
「いいから。貴女が気にすることは何もありません。テロもほぼ終結。アリウミ殿が、決闘にて呆気なく相手を打ち倒しました。全くあの方は、人間かどうか疑わしいですね。とにかくそういう訳で、貴女があの場にいる必要はありませんし、屋敷からも連絡がありましたので、こうして送っている最中です」
「あ……はい」
流護は無事なようだ。よかった、とリーフィアは安堵の溜息をつく。
自分を引き渡さなかった代償で流護に何かあったのでは、申し訳が――
「……あれ……?」
「? どうしました?」
何か。大事なことを、忘れている気がする。
「……屋敷から、連絡……?」
確か交渉が始まった当初、ベルグレッテが屋敷に連絡してくれていたはずだ。なのに、どうして――
リーフィアがそう考えた瞬間、轟音と共に馬車が吹き飛んだ。
「……!?」
「何だぁ今の音はよ!?」
狭い路地を馬車で疾走するベルグレッテたちの耳に、凄まじい爆音が響いてきた。
慌てて周囲を見渡せば、空き地の向こう――舗道を一つ隔てた向こう側の区画で、灰色の煙が上がっている。
「……ッ!」
そこはもう、リーフィアの屋敷のすぐ近くだった。
すでに人気もない区画。間違いない。二人が襲撃を受けたのだ。
それでも、完全自律防御を有するクレアリアがついている。絶対、無事なはず……!
ベルグレッテは立ち上る煙を見据えながら声を張り上げた。
「アントニスさん、私、行きます!」
「お、おう、けどよ!」
「アントニスさんはここから離れてください! 研究員の人たちを連れて!」
この武装馬車にはリーフィアの研究員たちが乗っている。彼女らを巻き込む訳にはいかない。相手があのオプトかもしれないとなれば、尚更だ。
「私も、リーフィアを連れてすぐ逃げますから!」
敵がオプトだとするのなら、正面から激突したところで勝ち目は皆無。アントニスが助太刀してくれても無理だろう。
どんな理屈かは分からないが、複数の属性を扱うというありえない所業をも実現している以上、交戦は無謀ともいえる。谷での戦闘を思い返せば、向こうから退いてくれて助かったとしか言いようがない。
二人を連れて、素早く撤退する。極めて難しいが、それ以外にない。
「おっし、じゃあ俺はその辺を巡回してる兵士に報告しとくぜ!」
「はい、お願いします!」
ベルグレッテは水を纏いながら走行中の馬車から身を躍らせ、
(……無事でいて!)
煙の上がる場所を目指して、一直線に走り出した。
白く大きな石柱を何本も束ねて作られた、古代イリスタニア様式の重厚な建物。
かつて寺院だったものを貴族が買い取り、屋敷として改築したものである。その貴族の家系が絶え、国が屋敷を引き取り、リーフィアの住居として提供した……という経緯があった。
巨大な門と、屋敷の周辺を囲む高い壁。
入り口の門を潜り抜けた先、どっしりと鎮座するリーフィアの屋敷。その二階部分に広がる、なだらかな屋根の上。
そこへ当然のように佇む、ブラウン色のローブに身を包んだ人影。
馬車を吹き飛ばした――襲撃者。
「何のつもりだ……貴様ァッ!」
クレアリアの凄まじい怒号が響く。
双方の距離は百マイレ近くも離れているが、それでも聞こえたはずだ。
彼女の背後では、横転した馬車が炎と煙を噴き上げている。
……馬と御者は、ひとたまりもなかった。
しかしそこは、辛うじてというべきか。
クレアリアも、その背後へと庇ったリーフィアも無傷。完全自律防御を操る、『神盾』の二つ名を授かった詠術士ゆえの結果だろう。
「こ、こんな……クレア、さんっ……」
「大丈夫。下がってなさい」
クレアリアは射殺すような瞳を敵へと向けたまま、周囲に水流を現界させる。
瞬時にして右手へ水の槍を作り出すと、屋根の上へ立つ襲撃者に向かって射出した。
凄まじい速度で飛んだ水の槍に対し、襲撃者はゆるりと右手をかざす。
「ッ……!?」
直後、クレアリアは驚愕にその顔を染めた。
敵は飛来した神詠術を右手で受け止め――まるでその手に呑まれるように、水槍が消失していく。
直後、クレアリアが放ったものと全く同じ水の槍が、敵の手から放たれた。
しかも、狙いは――リーフィア。
「クッ……!」
ひっ、と息をのんだリーフィアの前へ水の壁を展開させ、その一撃を凌ぐ。水に水が叩きつけられ、周囲へ飛沫が散った。
刹那にクレアリアの思考を混乱が支配する。
(――今の。今の、技は)
直接、この目で見たことはない。だが当然、知っている。
しかしあれが……屋根の上にいる襲撃者が『彼女』だったとして、なぜリーフィアを狙ったのか。それ以前に、前代未聞のその行為が――『ペンタ』が『ペンタ』に襲いかかるという行為が、何を意味するのか理解しているのか。しかもよりによって、テロが起きているようなこのときに――
今の攻防によって、一挙に脳内へと流れ込んできた情報の奔流。
それを処理しきれず動揺するクレアリアの耳に、
「クレア! リーフィア!」
姉の声が響き渡った。
ベルグレッテが妹たちに呼びかけたのと、屋根上の襲撃者が氷弾を放ったのは同時だった。
駆け寄ったベルグレッテはリーフィアを抱き寄せ、横っ飛びで転がった。そのまま屋敷を囲む壁に、死角に身を隠す。
クレアリアは動かず、その場で素早く水の壁を展開した。
そこへ刺客の放った氷の塊が一直線に飛来し、バキンと音を立てて着弾する。
「……なっ!?」
クレアリアは驚愕する。
展開させた水の壁が、氷弾の衝突した部分を起点にして、まるで侵食されるかのようにビキビキと凍りついていく。彼女は慌てて自身を囲う水から飛び出した。危うく、凍りついた元・水の壁に閉じ込められてしまうところだった。
「ね、姉様! あの敵は……!?」
「説明はあと! 二人ともごめん、走って!」
ベルグレッテが促し、三人は屋敷から――敵から遠ざかるべく走り出す。
姉妹二人で牽制の水弾を放ち、その隙に三人揃って追撃のしづらい狭い路地へと飛び込み、薄汚れた細い道を駆け抜ける。
「ね、姉様! あの刺客はオプトなんですか……!? け、けど、先ほどの氷弾は……!?」
クレアリアは珍しく取り乱していた。それも当然だろう。彼女は何ひとつ事情を知らないのだ。そもそもベルグレッテたちの乗った武装馬車が襲撃を受けたことも知らない。
不手際と偶然のすれ違いが生んでしまった事態だった。
後ろを確認しつつ、ベルグレッテは簡潔に説明する。
「オプトが……姉様たちを襲撃して、複数の属性をっ……? それで彼女がテロの構成員かもしれないと……!? わ、訳が分かりません……!」
「今はとにかく、あのオプトかもしれない刺客から逃げる! ごめんね二人とも、リーフィアが狙われてたこと、私がもっと早く話してれば……!」
「い、いいえ……私が、あの場からリーフィアを安易に連れ出したりしなければ……!」
「わっ、わたしも、テントで寝ちゃったので……!」
疾走しながらもそんな会話をしていたところで、すぐ近くの壁からかすかな火花が散った。後ろからの狙撃が着弾したのだ。リーフィアがかすかに悲鳴を上げる。
振り向けば、かなり距離はあるものの、確実にベルグレッテたちを捕捉して走る襲撃者の姿。
「このっ!」
「くどい!」
姉妹は同時に水の槍を後方へと放つ。
狭い路地。避けることは難しい。防ぐにしろ吸収するにしろ、これで距離を稼ぐ。敵が術を撃ち返してきても、最後尾を走るクレアリアの完全自律防御が防いでくれる。
牽制を交えて距離を離しつつ、三人は薄暗い路地を駆け抜けた。