借金の身代わりに売られかけた織り手ですが、三十六枚の給金控えで自由になり、最大の買い手に店ごと求婚されました
軽い。
ひどく軽い。
兄の指が給金袋へ入り、銀貨を一枚、二枚、三枚と抜いていくたび、私の三十日が羽でも生えたように飛んでいく。
今月、織り上げた布は十二反。糸切れは二度。織り直しは半日。残った硬貨は三枚。
働くほど数字が痩せるとは、我が家の借金はよほど食欲旺盛らしい。
「これでは利息にも足りない」
兄は袋の口を締め、自分の上着へしまった。
「すみません」
「謝る暇があるなら、もっと織れ。お前は借金も返せない役立たずだ」
反論はしない。
三枚を手のひらに並べる。一枚は寝台代。一枚は朝夕の黒パン。残る一枚を昼食へ回すと石鹸が買えず、石鹸を買えば昼食が消える。見事な二者択一である。清潔な空腹か、薄汚れた満腹か。どちらも令嬢の暮らしではないが、没落した織物商家の娘には選択肢があるだけ上等だった。
「来月分は、直接俺に渡せ」
「工房の控えは?」
「お前が持つ必要はない」
「受け取った証がなくなるので、私が保管します」
兄の眉が上がった。
織機の脇にいる私は役立たずだが、帳面の前では少々しつこい。父に数字を教わったのは兄だけではない。
「勝手にしろ。あの妙な印の布もやめろ。家名を隠して働くなど恥だ」
「家の者に所在を知られるなと、兄さんが」
「口答えするな」
扉が鳴り、兄は人前用の顔をかぶった。
「ミリアムを頼みます。家を救おうと無理をする妹でして」
早い。仮面の装着、半呼吸。職人技として採点するなら満点だ。買いたくはないけれど。
入ってきたエマさんが兄の背を見送り、私の手の三枚を見た。何も言わず、納品台へ糸束を置く。
その後ろから、丸い腹に金鎖を巻いた男が入ってきた。
「こちら、ボタン商の方。独身。お店あり。借金なし。配達のおまけに置いていくわね」
「エマ。人間は反物につける景品じゃない」
夫のブルーノさんが、糸束の値札を直しながら回収した。
「商談ですか?」
私は立ち上がった。商談なら昼食が消える程度の問題は後回しにできる。
ボタン商は私ではなく、工房の棚を見回した。
「持参金はいくらです?」
「布の用途は?」
「は?」
「私の織った布を買い付けに来たのでは?」
彼は反物に一度も触れなかった。
はい、不採用。ボタンは服に要るが、この方は私の人生に要らない。
「エマさん。このお客様はボタン売り場へお戻しください」
「そこまで迷いなく返品する?」
「布に触れず値を決める方とは取引できません」
ボタン商は鼻を鳴らして帰った。私の持参金より、扉の蝶番のほうが長く見られていた。蝶番に負けた。悔しくはない。あちらは毎日きちんと働いている。
エマさんは腰へ手を当てた。
「次は布に触る人を連れてくるわ」
「そこからですか」
「そこからよ!」
私は給金控えを折り、寝台下の木箱へ収めた。匿名の織り印を押した控えが、これで三十五枚。
三年近くの紙は薄い。重ねても、兄に持っていかれた銀貨一枚ほどの厚みしかなかった。
* * *
次の候補は運送人だった。
「嫁入り道具は箱でいくつだ?」
挨拶の直後に聞かれた。エマさんは頭を抱え、ブルーノさんは値札の裏へ何か書き始める。たぶん返品理由だ。
「荷馬車は何頭立てです?」
「二頭だ。箱なら十二は積める」
「固定縄は?」
「これだ」
男が得意げに荷台を示した。
私は結び目を一つ見て、荷を一つ揺すった。上の木箱が指二本分ずれる。
「却下です」
「何がだ」
「その結びでは下り坂で荷が落ちます。嫁入り道具より先に私が落ちます」
「女が縄へ口を出すな」
「縄は口を出しません。代わりに荷を落とします」
運送人は怒鳴りながら帰った。声量で結び目は固くならない。世の中には努力の方向を盛大に間違える人がいる。
エマさんが両手を広げた。
「どうして求婚者を荷造りの試験にかけるの!」
「求婚者?」
「今さらそこ?」
候補は二人、売り込みは四件、褒められた耳端は七か所。
「数が合いません」
「あなたが縁談を商談として数えるからよ!」
「最初に店と借金の話をされたので」
「それは条件! ああもう、次は布を見れば話が通じる男を連れてくる!」
「エマ、次が本命だと顔に書いてあるぞ」
「書いてないわよ」
「値札なら一枚で済む」
ブルーノさんはそう言って、運送人が残した縄を結び直した。私はその手元を見ながら、引けばほどける端と、荷重がかかる端を指で示す。
「ここを輪にして、手首一つ分の遊びを残します。締めすぎれば荷が傷み、緩すぎれば落ちます」
「人間にも同じくらい丁寧なら、すぐ決まるんだがな」
「何がです?」
「次の買い手だ」
翌日、その買い手は一人で来た。
扉をくぐる前に背を少しかがめる癖も、品物を見るときだけ口数が減る癖も、昔のままだった。
「ミリアム」
「ミヒャエル」
旧友との再会は、もっとこう、驚いて椅子を倒すとか、抱き合うとか、運命が派手に鳴るものではないだろうか。
現実のミヒャエルは私を一度見て、すぐ納品台の布へ手を伸ばした。
実に彼らしい。私より商品。買い付け責任者として正しい。旧友としては、一点減点しておこう。
「これは君が織ったのか」
「匿名印です。織り手については答えられません」
「そうか」
ミヒャエルは布を光へ透かした。縦糸の密度を目で追い、指先で横糸の張りを確かめる。端から端まで撫でるのではなく、力の偏りやすい三か所だけを押す。次に布を折り、染めた後に縮む方向まで見た。
ようやく人が来た。布を見る人が!
「水を通した見本は?」
「こちらです。幅の縮みは指一本未満。色糸を入れても歪みません」
「前に仕入れた同じ印の布は、洗濯を二十回重ねても縫い目が引かなかった」
「二十回?」
「宿屋の制服に使った。破れにくいせいで交換が減ったと、主人には嫌な顔をされた」
「それは褒めています?」
「俺は褒めている。仕立て直しの注文は増えた」
相場が落ちた月だった。それなのにミヒャエルが置いた注文札の単価は、先月と同じだった。
「間違っています」
「どこが」
「今月の相場より高いです」
「この布の値は下がっていない」
ミヒャエルの親指が耳端で止まった。
糸を二本ずつ拾い、最後だけ三本まとめて結ぶ。幼い頃、端がほどけて泣いた私に、ミヒャエルと二人で考えた始末だった。
「この結びなら、長く使っても耳が裂けない」
「よくご存じですね」
「ずっと買っているからな」
胸の奥で織機の杼が一本、盛大に走り損ねた。
落ち着け、私。これは品質評価。恋ではない。商売人が布へ熱を上げているだけだ。私は布の付属品ですらない。
「ミリアム」
「はい」
「俺の隣に来ないか」
「雇用条件を伺います」
ミヒャエルはしばらく黙り、背後のエマさんが作業籠へ顔を突っ込んだ。肩が震えている。糸くずでも入ったのだろう。
「長期契約だ」
「住み込みですか?」
「そうなる」
「工房は?」
「二人で使える広さを考えている」
「共同経営なら、利益配分の確認が先です」
「……それも用意する」
やはり商談だった。危ないところである。旧友というだけで好意を誤認したら、恥ずかしさで反物に巻かれて出荷されるしかない。
月末、ミヒャエルの注文分を納めると、給金控えの受領印がいつもより右へずれていた。
兄の印が、「問屋受領」の文字へ半分かかっている。
今までの二枚も同じだった。
印を押す手が滑っただけ。三度続けて、同じ方向へ。
私は控えを畳まず、エプロンの内側へ入れた。
* * *
「三十六枚あります」
市場帳場のルイーゼさんは、私の差し出した紙束を数え直さなかった。
「月順に」
「はい」
短い。余計な同情も質問もない。数字を扱う人の声はありがたい。こちらも数字へ逃げ込める。
私は一番古い控えを左へ置いた。次の二枚は印が正しい。その後の二枚は、兄の受領印が問屋欄へ寄っている。今月分は文字へ重なっていた。
ルイーゼさんが棚から受領記録を出す。
「父の借金への入金額を教えてください」
日付と金額が読み上げられる。
古い記録の最後の月。元金の残りと、その月に私の給金から差し引かれた額が一致した。
「次の月は?」
「入金なし」
「その次」
「なし」
「では、この控除額は」
「問屋に届いていません」
指先が紙の端を外れた。
三十六枚。三十六月。兄に渡した袋。軽くなった音。三枚だけ残った月。昼食を抜いた日。冬の靴底へ布を詰めた夜。
どれも借金へは行っていない。
「受領記録の三十七枚目を」
「ありません。返済は、その前月で終わっています」
完済した後も、私は三年間払い続けた。
「数が合いません」
声にすると、紙より薄かった。
合わないのは数字だけではない。兄の言葉と、私の三年。役立たずだと言われるたび増やした反物。その売上で借金を返していると信じて、減らした食事。
借金は、とうに死んでいた。
兄だけが死骸へ皿を置き、私の給金を食わせ続けていたのだ。
「写しを作ります」
ルイーゼさんが言った。
「原本は?」
「私が持ちます」
「保管封を」
「お願いします」
封蝋が固まるまで、私は帳場の椅子に座った。
兄へ問いただす前にすることがある。
工房へ戻り、寝台下の木箱を出した。着替え二組。耳端用の糸。父の小さな杼。三十六枚の控え。全部を一つの鞄へ収める。
自分の荷物は、驚くほど少なかった。
兄の許可がなければ運べない物は、一つもなかった。
「どこへ行く」
扉の前にクレメンス兄さんが立っていた。
後ろには、見知らぬ男が二人。外には幌つきの荷馬車。
「借金は完済しています」
「誰に何を吹き込まれた」
「三年前に」
「家で話すぞ」
「ここで話してください」
兄は笑った。エマさんたちに見せる、妹思いの穏やかな笑顔だった。
「疲れて混乱しているんです。遠方に良い縁談が決まりましてね。家族として迎えに来ました」
私の腕をつかんだ瞬間、声が変わる。
「騒ぐな。先方から契約金は受け取っている」
「私が署名していません」
「お前の署名など要らん。借金の代わりだ」
男たちが鞄を奪い、私を荷馬車へ押し込んだ。
兄の仮面は、工房の敷居をまたぐ前に剥がれていた。
* * *
手首の縄は二重。結び目は三つ。
荷台の左に染料樽が二つ、右に木箱が四つ、後方に布包みが五つ。荷崩れ防止の引き綱は一本。御者台まで大人二人分。
数えられる。
なら、まだ私のものだ。
「おとなしくしていろ」
幌の外から兄の声がした。
「遠方へ着けば、相手もお前をしつける。働くしか能のない女でも、子を産めば役に立つ」
縄が皮膚へ食い込む。
私は親指を内側へ折った。工房で切れた糸を撚るときと同じように、手首を互い違いに回す。締められたとき、わざと息を吸い、両手へ力を入れておいた。その分だけ吐けば隙間ができる。
一つ目の結びへ爪を入れる。
馬車が石を踏んだ。指が外れる。
もう一度。
縄なら毎日扱っている。糸より太く、目も粗い。結び目が三つなら、ほどく順番も三つだ。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ目に数えたのは、兄の言いつけを守る理由だった。
そんなものは、もうなかった。
右手が抜けた。
左手の縄を外し、エプロンの裏を確かめる。封をした控えはある。鞄を奪われる前に移しておいて正解だった。三十六枚の三年間が、腹へ触れてかさりと鳴る。
幌の隙間から外を見る。市場の外門へ続く坂。前方に検問所。兄は通行証を見せれば、そのまま抜けるつもりだ。
私は荷台を這い、引き綱の固定部へ手を伸ばした。
運送人の結びなら、ここを引けば終わる。
一つ目の輪を緩める。
染料樽が揺れた。大きい。音も大きい。これは落とせない。人へ当たれば、私が兄と同じ勘定へ入ってしまう。
木箱側の綱だけを外す。
「何の音だ!」
幌が開く前に、私は最後の端を引いた。
木箱が一つ傾き、二つ目を押す。後方の留め板が外れ、空の箱四つが坂道へ転がり落ちた。
御者が叫び、手綱を引く。馬がいななき、荷馬車が横へ振られた。車輪が道端の溝へ噛む。
止まった。
私は幌を持ち上げ、荷台の縁へ足をかけた。
「戻れ!」
兄の手が伸びる。
その指が届く前に飛び降りた。膝が石へぶつかり、息が抜ける。立て。一歩。もう一歩。検問所の警備員がこちらを見る。
「助けてください。本人の同意のない婚姻で、連れ出されます」
「妹が混乱しているだけだ!」
兄が馬車から降りてきた。人目がある。声はまた優しい。
「借金のために自分から嫁ぐと言ったんです。家族の問題ですから」
「借金は完済済みです。記録もあります」
私はエプロンから封を出した。
兄の顔から、妹思いの皺だけが消えた。
「それを寄越せ」
警備員の前でも腕をつかもうとする。私は一歩退いた。今度は届かない。
「ミリアム!」
坂の下からミヒャエルが駆けてきた。エマさんとブルーノさん、それに市場の警備が二人続く。
遅い。私はもう荷台の外である。
けれど、ミヒャエルの顔を見た途端、膝の痛みが急に仕事を始めた。今までさぼっていたくせに、安心した瞬間だけ勤勉になるとは。私の身体は経営者に向かない。
「怪我は」
「膝を一か所。控えは三十六枚、全部あります」
「そうか」
ミヒャエルは私と兄の間へ立った。私を抱えも隠しもしない。ただ、兄の手が届かない位置を取る。
「帳場へ行くぞ。君が説明できるな」
「できます」
兄が後ずさった。
「待て。これは誤解だ。俺は店へ——」
「そちらは市場帳場と反対ですよ」
ブルーノさんが道を塞ぐ。
「家を守るためだった! 契約金を返すには金が要る!」
エマさんが兄の上着からのぞく書類を抜いた。
「契約金の振込先、あなたの店じゃない」
兄が奪い返そうとし、警備員に両腕を押さえられた。
私は自分の足で、帳場へ向かった。
膝は痛い。手首も赤い。
それでも一歩ごとに、兄の家から遠ざかった。
* * *
市場帳場は満員だった。
工房の仲間、問屋の主人、警備員、エマさんたち。兄は帳場の中央に立たされても、まだ顎を上げていた。
「家族内の金の移動です。妹も承知していた」
「承知していません」
私が答えると、兄の声が太くなる。
「黙っていろ。誰のおかげで働けたと思っている!」
ルイーゼさんが受領記録を開いた。
「ミリアム。日付を」
私は完済月の受領記録の写しを置いた。
「父の借金が完済した月です」
「入金確認。残額なし」
次に、完済後の最初の給金控え。
「借金返済として、給金の大半を兄へ渡しました」
「問屋への入金なし」
印の位置が動いた二枚。
「これも同じです」
「入金なし」
最後に今月の一枚。
「三十六枚目です」
「入金なし」
帳場の机に、紙を積む。
たった三十六枚。
私が食べなかった昼食より少なく、織った反物より薄く、それでも兄の嘘より重かった。
「記録が間違っている!」
兄は私ではなくルイーゼさんを指さした。
「その受領記録を撤回しろ。帳場係の分際で、家の事情へ口を出すな!」
「数字と日付だけを記録しています」
「偽造だ!」
「では、あなたの受領印も偽造ですか」
ルイーゼさんが控えを返した。
兄の口が閉じる。
「妹の給金は家のものだ。俺は店を立て直そうとしただけだ!」
エマさんが婚姻契約書を机へ置いた。
「その店へ、ミリアムの契約金が入る予定だった」
「妹を養った分だ!」
「工房の寝台代も食費も、ミリアムが自分で払っています」
ブルーノさんが値札の裏へ書いていた紙を出した。工房への糸代、寝台代、兄が受け取った額。商人は怖い。怒鳴らず、値をつける。
兄は私を睨んだ。
「家名を隠して布を売ったお前も同じだ。家族を裏切ったんだぞ!」
「兄さんは私の本名で、私を売ろうとしました」
帳場の係が、兄の徴収権限を示す札へ失効印を押した。
どん、と一度。
契約金は先方へ返され、兄の店から差し押さえた給金の袋が私の前へ置かれる。残る給金も市場を通じて返還手続きに入ると告げられた。
兄が袋へ手を伸ばした。
警備員が、その手を机へ届く前に止めた。
「ミリアム、帰るぞ。こんな見世物にして、父に顔向けできると思うのか」
兄が私の腕をつかもうとした。
私は下がらなかった。
警備員が兄の手首を取り、背へ回す。兄の指は、私の袖へ触れもしなかった。
「兄さんの家へは戻りません」
「ミリアム」
「徴収の契約を切ります。家族としての関係も、今日で終わりです」
「お前一人で何ができる!」
反物十二反。
控え三十六枚。
荷馬車から降りるまで四手。
一人でできたことなら、すでにずいぶんある。
けれど私は数えず、机の上の失効札を兄のほうへ押した。
「私の給金も、仕事も、これからの行き先も、兄さんには渡しません」
警備員が兄を連れていく。家族のためだった、店のためだったと、兄は最後まで言い換え続けた。
謝罪はなかった。
必要もなかった。
扉が閉じると、工房の仲間が道を空けた。
「織り手ミリアム」
ルイーゼさんが、新しい契約書へ私の名を書いた。
「本人署名を」
私は誰の許可も見なかった。
自分の名を、自分の手で書いた。
* * *
新しい一反へ本名を織り込むのには、思ったより時間がかかった。
匿名印なら端へ小さく入れればいい。けれど、C、L、A、R、Aと糸で形を作るたび、指が妙に慎重になる。
「まだ隠すか」
ミヒャエルが工房の入口に立っていた。
「隠していません。仕上げ前です」
「布ではなく、君が」
「私はずっとここにいます」
「そういう意味ではない」
仕事の話なら隣へ座れる。私的な話なら、織機一台分の距離が欲しい。
困る。ミヒャエルの長期契約には利益配分の相談が必要だが、最近はエマさんが私たちを二人きりにするため、存在しない荷物まで運びに行く。
今日も外から声がした。
「エマ、空の箱をどこへ運ぶ」
「遠くよ!」
「行き先になってないぞ」
二人の足音が遠ざかった。
ミヒャエルは古い注文札の束を台へ置いた。
「三年前からの分だ」
月ごとに一枚。匿名印の布。私が織った幅、糸、買い値、仕立て先。
「これを、あなたが?」
「全量を俺の商会で買った。仕立て先へ出した後、同じ客から指定で追加注文が来た分もある」
ミヒャエルの親指が、記録の端を押さえる。
「宿屋の制服は二年もった。旅商人の外套は、縫い目より先に留め金が壊れた。子ども用の服は弟妹へ三人続けて回された。染め直した布は色むらが出ず、仕立て屋から再注文が入った」
「匿名印なのに」
「耳端を見ればわかった」
ミヒャエルは、私が仕上げたばかりの一反を裏返した。
「二本ずつ拾って、最後だけ三本。昔、君がほどけた端を握って怒っていただろう」
「泣いてはいません」
「怒っていた」
「それは、たぶん」
「俺が先に失敗したからだ」
忘れていた。ミヒャエルは覚えていた。
「相場が下がった月も、同じ値で買ったのは」
「安く買えば別の商人へ流れる。俺は必要な品へ正価を払っただけだ」
「哀れだったからではなく?」
「哀れみで三年間、全量を買う商人がいるなら、そいつは店を畳んだほうがいい」
ミヒャエルの一撃は短い。上品な顔で商人全員を巻き込みかねないので、一日一発までにしてほしい。
けれど、今日は笑えなかった。
「君の布は丈夫だ。染め直しが利く。裁断しても端が崩れない。買った客が戻ってくる。値を下げずに売れる」
一つずつ、ミヒャエルが積み上げる。
兄の言葉が置かれていた場所へ、別の事実が入っていく。
「お前は借金も返せない役立たずだ」
あの声はまだ耳に残っている。
けれど、もう一つの声が、その上からはっきり重なった。
「俺の店に必要な、代わりのいない織り手だ。俺が伴侶に望む、ただ一人だ」
息を吸ったのに、返事が出なかった。
ミヒャエルはさらに一枚の紙を置いた。工房と、その前に店を持つ建物の契約書。作業台は二人分。染色釜の場所。織機を置く床の補強。売り場の棚。
「匿名布の利益を、開店資金へ回していた。君が望むなら、ここを二人の店にしたい」
「二人の」
「共同経営者になってほしい」
それなら理解できる。利益配分。設備費。仕入れ経路。数字にできる。
ミヒャエルは私の逃げ道を知っていた。
「共同経営者だけでは足りない。俺の伴侶になってほしい」
数えるものが、なくなった。
糸目も、硬貨も、結び目も見えない。
頬を伝ったものが、織り上げた布へ一つ、濃い跡を作った。拭こうとした手を、ミヒャエルが途中で取る。
「返事を急がせるつもりはない」
「三年も準備しておいて?」
「待つのは慣れている」
「私が別の人を選んだら」
「店の共同経営は申し込む。結婚は諦める」
「布は?」
「買う。君の布だから」
取られた手が熱い。
三十六枚までは数えられた。あなたが私の布を選んだ回数も数えられる。でも、これから先まで選ぶと言われたら——
「数が合いません」
「何の数だ」
「もう、わかりません」
笑おうとしたのに、喉が狭くなった。
「私、役に立つから置いてほしいんじゃありません」
「ああ」
「店だけでもありません」
「ああ」
「あなたと店を持ちたい。あなたの隣も、私が望みます」
本名を織り込んだ最初の一反を、ミヒャエルへ渡した。
「買ってください」
「正価で?」
「いいえ。これは共同経営者への出資です」
「では、伴侶として受け取る」
「そこは分けてください。帳簿が困ります」
ミヒャエルの腕が背へ回った。
抱き寄せられても、今度は数えなかった。
布越しではなく伝わる体温を、逃がさず受け取った。
しばらくして、扉の外で木箱が落ちた。
「もう入っていいかしら!」
「エマ、聞く前に扉を開けるな」
二人が祝い用の布を注文した。白を何反、色布を何反、飾り布を何反とエマさんが指を折る。
「必要量は?」
ブルーノさんが尋ねると、ミヒャエルは私を抱いたまま答えた。
「店一軒分」
「多すぎます!」
「代わりのいない織り手がいる」
「開店前に倒す気ですか!」
私が止め、エマさんが増やし、ブルーノさんが値を計算する。
その真ん中で、ミヒャエルだけが私の名を織り込んだ布を離さなかった。




