天才の王太子殿下いわく、悪役令嬢がヒロインを階段から突き落とした際の最適解
毎晩、悪夢を見る。それは恐ろしい未来を告げる予知夢のようであり、それでいて遠い昔に知っていたことのようにも思えた。わたくしではない『私』が、このわたくしの人生を見ていたことがあったかのような奇妙な感覚だ。ただの夢だと思い込もうとしては失敗する。夢とはいい切れない現実の肌触りがあった。わたくしはこれが未来なのだとわかってしまう。
はあと、知らずため息が溢れた。
「どうした、エルディラ。なにか気にかかることがあるのか?」
「殿下……」
わたくしの目の前に座っているのはこの国の王太子殿下であるルーク様だ。わたくしたちは十歳のときからの婚約者で、この七年間親しく交流を続けてきた。今だって王宮の中庭で、テラス席に腰を掛けてお茶を飲んでいるところだ。
「悩みがあるのなら教えてくれ。僕が力になろう」
「……実は……、夢を見るのです」
ためらった末にわたくしは告白した。
毎晩、繰り返される悪夢。それは、来年入学することが決まっている聖女に関わることだった。二つ年下の彼女は、その天真爛漫な明るさでルーク様と親しくなっていき、やがてそれは男女の仲に発展してしまう。嫉妬に駆られたわたくしは彼女にさんざん嫌がらせをした挙句、階段から突き落とすのだ。そしてその場面をルーク様に目撃される。わたくしはその場で捕らえられて、やがて処刑台へ……。そんな悪夢だ。
ぽつりぽつりと打ち明けたわたくしに、ルーク様はふむと頷いてからいった。
「エルディラ、予知夢や前世というものはその現象が立証されていない」
「そう仰ると思っておりましたわ……」
わたくしはため息をついた。
ルーク様は昔からこうである。誰もが見惚れるほどの美貌を持ち、王太子殿下という地位にありながらも『国王陛下が公爵家に頼み込んでエルディラ嬢との婚約を結ばせた』なんて噂されてしまうのは、天才的頭脳と両立する風変わりな性格ゆえだ。
「エルディラ、いくら君の言葉とはいえ、それが未来を告げるものだと信じるに足る根拠がない」
「殿下、わたくしは長いお付き合いですから殿下の人柄をわかっておりますけど、一般的には婚約者に対してそのような物言いは“冷たく突き放している”と捉えられますわよ?」
「なにをいう。存在が証明されないものを鵜呑みにするなど愚か者のすることだ。いっそ不誠実でさえある」
「さようですか。それで、殿下。そのような冷たいお言葉をかけるためにわたくしの重い口を開かせましたの?」
「いいや? 君の悪夢が未来予知であると断ずることには大いに疑いを挟むが、君が不安を抱いているということに疑いの余地はない。ならば僕は婚約者として、君の不安を解消するために動こうじゃないか」
「まあ……」
わたくしは瞬いてルーク様を見た。不敵に微笑むその面差しは、誰よりも頼もしく見える。突飛なことを仰ることも多いけれど、根底には優しさがある。わたくしはこの方のこういうところが好きなのだと思う。口に出していったことはないし、いうつもりもないけれど。
だってルーク様は、天才で変人と名高いこの方は、わたくしにそういった意味での関心はないのだろうから。自分でいうのもなんだけれど、わたくしは公爵家の令嬢という身分が取り柄なだけの平凡でつまらない女なのだ。平民出身の聖女のほうが、はるかにこの方を楽しませられるにちがいない。
「さて、まずは情報を整理しよう、エルディラ。君にとっての不安は、来年入学予定の聖女が僕と男女の関係になったことに腹を立てて、複数の嫌がらせ及び暴行を働き、それを僕を含めた大勢に目撃されてしまい、投獄されて処刑されること。そうだな?」
「え、ええ……。簡潔にまとめると我ながらインパクトがありますわね……」
「正直なところ、この時点で疑わしさが凄いのだが」
「なぜですの?」
「だって───」
殿下が言葉を切る。
わたくしはティーカップを口へ運んだ。
「エルディラ、君、僕が聖女と性行為に及んだとして嫉妬するか? しないだろう?」
わたくしはお茶を噴き出しそうになった。公爵家の威信にかけて必死に耐える。それでもコホコホとむせていると、殿下の背後にいる護衛の騎士アンソニーが気の毒そうな眼でわたくしを見ている。やや離れたところにいるというのに、殿下の声は丸聞こえであるらしい。今すぐ穴を掘って埋まりたい気分だ。
しかし殿下は平然と続けた。
「仮に君が聖女に嫉妬したとして───例えばそうだな、聖女の光魔法が便利で羨ましいなどの理由でだ」
「そんな理由では嫉妬いたしませんわね」
「複数の嫌がらせ、つまり聖女の服をわざと汚したり、教材を盗んで捨てるなどの行為を君が行うとは思えない」
わたくしは息を呑んだ。
殿下はまっすぐにわたくしを見ている。この方はわたくしを信じてくださっているのだ。そう思うと胸がじんと温かくなる。
「ええ……、そうですわね。でも……、嫉妬に駆られたときに何をしてしまうかは、自分でもわかりませんわ……」
「いや、君は腹が立ったら手に持った扇の柄で殴打する人間だ」
「……、殿下?」
「僕が君の十二歳の誕生日パーティーで『そのドレスは豚の心臓の色によく似ている』といったとき、君は怒って扇で叩いてきた」
「まあ……。さすが記憶力がよろしくていらっしゃいますわね。ところで、もう一度叩いて差し上げましょうか、ルーク様?」
テーブルの上に置いたままだった扇を手に取り、ギリギリと握りしめる。まったく、もう、先ほどの感動を返していただきたいわ。
殿下は不穏な気配を感じたかのように視線を逸らして続けた。
「さらに、仮に君が聖女を階段から突き落とし、それを僕を含めた生徒たちに目撃されたとしても、君が投獄される可能性は限りなく低い。君は公爵家の令嬢であり王太子である僕の婚約者だ。被害者が平民出身の聖女一人では、この強大な権威に立ち向かうことは難しい。まして事件現場が貴族家の者たちばかり通う学園内となれば、当然、隠蔽が図られるだろう。不幸な事故として処理されるか、あるいはそのような出来事は“起きなかった”とされるか。どちらにしろ君を投獄するという話は誰からも出ない」
淡々と話す殿下の言葉はとても現実的だ。
でも───、と、思う。でもそれは、まだ聖女と出会っていない殿下だからいえる言葉でもあるのではないですか? と。
繰り返される悪夢の中で、わたくしが最も絶望するのは処刑されることではない。殿下の眼が、愛しさを込めてほかの女性を見つめることだ。それだけがわたくしの胸をかきむしる。痛みで狂っていく。
内心を表情に出さないように気をつけながら、わたくしはいった。
「ですけど、殿下。殿下が聖女と恋に落ちて、彼女を妻に望む可能性もありますわ」
「ふむ。僕の婚約者が君から聖女に変わるかもしれないと? その場合でも公爵家の令嬢たる君を投獄するというのは限りなく困難と言わざるを得ないが……」
「次期王妃に重い怪我を負わせたとなれば、謹慎処分程度では済みませんでしょう?」
「ふむ……。つまり、無傷であればいいのだな?」
「それは……、ええ、そうですわね……?」
階段から突き落とされては、どうやっても無傷ではいられないと思うけれど。
わたくしが疑問符を浮かべながらも頷くと、殿下はにやりと笑った。
「この僕に任せておけ、エルディラ。聖女の入学までまだ時間がある。君が聖女を階段から突き落とした際の最適解を見せてあげよう!」
※
それから、数日後。
わたくしは王宮内の一室に作られた“それ”を見上げて、呆気に取られていた。
「階段ですわ……」
どこからどう見ても階段だ。上階とは繋がっておらず、空中で途切れていることを除けば、学園の校舎にあるものとそっくり同じ階段だ。それが真新しい輝きをもって室内に鎮座している。いったいなぜ。なぜ室内に階段が。
わたくしの脳裏にこれまでの殿下の数々の奇行が甦った。
※
殿下が十歳のとき、自室に飾られていた美しい絵画や由緒正しい花瓶をまとめて廊下に捨て、室内を空っぽにしたこと。そのがらんとした部屋の至るところに意味の分からない数字を延々と描き殴ったこと。侍女が「王太子殿下に悪魔が憑りついた!」と叫んで大騒ぎになったこと。殿下自身は気にした様子もなく「見つけたぞ! 我が国の鉱脈はここ、エシト山だ!」と自信満々だったこと。陛下が頭を抱えて、重鎮の方々と殿下を神殿に預けるか検討していたので、わたくしが慌てて「殿下には挫折が必要なのですわ。ここで過ちを殿下に突きつけることができたなら、あの振る舞いを改めさせることも容易になるはずです。ここはどうか挫折のためにもエシト山を調査していただけませんか?」と切々と訴えて根回しに励んだこと。結果として鉱脈は見つかり、我が国に莫大な利益をもたらしたこと。
殿下が十三歳のときのこと。殿下が椅子に座ったまま三日三晩動かなくなったこと。声をかけても肩を揺さぶっても何をしてもぴくりとも反応せず、まるで石像のように固まったまま。医者に神官にと大勢が呼ばれたけれど誰も解決できず、ついには「悪魔に呪われたのだ」なんていう口さがない噂が立ったところで、突然跳ね起きたこと。ビョンと勢いよく立ち上がった殿下の第一声は「わかったぞ、エルディラ!」だったこと。なにがわかったのかまるでわからないわたくしの前で、殿下はいきなり陛下の執務室へ突撃して「父上、金をください! 薬を作るのです! 僕が発見した鉱脈からの収益の一割をください! 僕にはその権利があるはずだ!」とまくし立てたこと。陛下は卒倒しそうな顔をしていたこと。
ひとまず落ち着いてくださいませ、と殿下と陛下を引き離し、殿下に食事と睡眠と入浴を取っていただいた上で再びの話し合いの場。陛下がこの上なく渋い顔で「何の薬を作る気だ?」と問うたのに対し、殿下はためらうように一呼吸考えた後に「毛生え薬です!」と陛下の頭を見ながら叫んだこと。さすがのわたくしにもフォローは無理だったこと。
しかし『鉱脈を発見した王太子殿下が今度は毛生え薬を見つけようとしているらしい』という噂が広まった結果、重鎮の方々に後押しされるように製薬のための予算が降りたこと。殿下がにんまりと笑っていたこと。わたくしがつい「殿下、毛生え薬なんていうのは嘘なのでしょう? 本当は何のための薬なのですか?」と尋ねたとき、嬉しそうに瞳を輝かせながら「さすがはエルディラだ! 愚昧な老人どもとはちがい、僕のことをよくわかっている!」と叫んだこと。その後で、ふと瞳を陰らせて「……必要なときがくればわかる薬だ。だが、来なくてもよい」と呟いたこと。
それから半年後、大陸一の強国である帝国で疫病が暴風雨のように荒れ狂ったこと。その脅威は周辺諸国にも及び、我が国も例外ではなかったこと。しかしそこで殿下の「薬」の完成が間に合い、大勢の命を救ったこと。大量生産された治療薬は帝国を始めとする他国にも出荷され、やがて病は終息したこと。薬の対価として我が国は再び莫大な利益を得たこと。
平穏を取り戻した後で、殿下は「僕が天才であることがようやく世界も理解できたようだな!」とふんぞり返っていたけれど、その瞳の奥には悲しげな色が浮かんでいたこと。わたくしが殿下の隣に座り、そっと手を握ると、殿下はホッとしたように肩の力を抜いたこと。それから顔を見せるのを嫌がるようにわたくしの肩に額をぐいぐいとおしつけて「疫病が起こらないようにするということは、天才にも不可能だったんだ」と涙混じりの声でいったこと。わたくしはただ殿下の手を強く握り締めて「ルーク様はできる限りのことをなさいました。立派でしたわ。誰が何といおうと、わたくしはそれを知っています」と返したこと。
※
さまざまな思い出が瞬く間に蘇るわたくしの前で、階段は消えることなくでんと鎮座している。
「来たか、エルディラ!」
耳を突き刺す大声量は殿下のものだ。わたくしが振り返ると、殿下は護衛騎士のアンソニーを連れて、意気揚々と室内へ入ってきた。
「エルディラ、これが何かわかるか?」
「階段に見えますわ」
「そうだ、階段だ」
「まあ」
まあとしかいえない。この会話は何なのだろう。わたくしは何の話をしているのでしょうか? 疑問符を飛ばしていると、殿下は得意げな顔でいった。
「階段から突き落とされた聖女が無傷であるために、必要なものがなにかわかるか?」
「ええと……? そうですわね、騎士のごとく受け身を取れることでしょうか?」
「聖女に今から騎士のごとく鍛錬をせよというのは難しいだろう。しかし着眼点はいいぞ。エルディラ、この階段を登ってくれ。一番上までな」
意味がわからない。けれど殿下が期待の眼でわたくしを見ている。わたくしは恐る恐る階段を登った。すると、今度は護衛騎士のアンソニーが何かを抱えながらわたくしと同じ所まで登ってきた。
いえ、何かというか、これは……。
「マネキンですの……?」
衣服を着せておくためのマネキンにそっくりな人形がわたくしの隣に立っている。
無言でアンソニーを見つめると、齢二十二歳の彼は同様に無言でこちらを見返してきた。その瞳には同情がこもっている。わたくしたちは長年殿下の突拍子もない言動に振り回されてきた同志でもある。彼がエールを送っていることがわたくしにはひしひしと感じられた。
アンソニーが階段下にいる殿下の傍まで戻る。
殿下は胸を張っていった。
「エルディラ、これこそが君が聖女を階段から突き落とした際の最適解だ。つまり、僕が聖女を受け止めればいい! 聖女が無傷ならば揉み消しは実に容易だ!」
それゆえ、と、殿下はさらに声を張り上げていった。
「これよりシミュレーションを開始する! そのマネキンを聖女と仮定して、君がつき落とし、僕が受け止めるという訓練だ! さあエルディラ、思い切り突き落としてくれ!」
わたくしは無言で殿下を見つめた。これは悪夢の続きなのではないかしら? と悩みながら。
しかし夢が冷める気配は一向になかったので、今度は隣に立っているマネキンを見つめた。
なんということでしょう。悪夢より現実のほうが遥かにぶっ飛んでおりますわ。
いえ、殿下の婚約者となってからのこの七年間、驚きと無縁だったことはないのですけども。
わたくしはたっぷりとした沈黙の末に声を出した。
「…………………殿下」
「なんだ?」
「殿下のお考えはわかりましたけれど、実現は難しいのではありませんこと? 殿下は頭脳派でいらっしゃるではありませんの」
「ふっ。たしかに僕は、僕が剣を抜いて戦うときが来たら、それはこの国の滅亡を意味すると常々明言しているがな」
「殿下が剣の訓練をしたくないあまりに、指南役だった騎士オーウィルの奥方の腰痛に効く塗り薬を作り上げて買収したことは、わたくしもよく覚えておりますわ」
「そもそもこの僕に剣術を習得させようというのが大いなる過ちであり時間の無駄だ。天才には天才のやり方がある。父上は凡人ゆえになかなかそれを理解されなかったので、僕としても一計を案じたというわけだ。それにしても、ふふっ、オーウィルの指導している振りはなかなか上手いものだったな」
「わたくしは見ていて気の毒になりましたわよ。訓練所の外まで聞こえるように『まだまだです、殿下!』ですとか『いいですぞ、殿下!』なんて声を張り上がる姿は、まるで一人芝居をさせられているかのようでしたもの」
「だが、君とて秘密を守ったではないか、エルディラ」
「ええ。わたくしは殿下の婚約者ですもの」
「ああ、君は僕の共犯者だ」
殿下がにんまりと笑った。とても嬉しそうな顔だ。
ああまったく、困った方。
「オーウィルは今でもその天才の頭脳をもっと善いことに活かしてほしいと嘆いておりますわよ」
「安心しろ、細君からは未だに感謝されている。それと、僕を甘く見るなよ、エルディラ。聖女を受け止めるくらいのことならば、訓練によって可能となる!」
さあ! と殿下に促されて、わたくしは渋々とマネキンの背後に立った。
夢で見たように、両手でマネキンの背中を押す。
するとマネキンは勢いよく階段を転がり落ちていった。途中で衝撃によってパーツが外れていき、階段下まで到着したときには頭部と手足が胴体からもげている。
わたくしは思わず口を両手で覆って叫んだ。
「これではバラバラ殺人事件ですわ……!!!」
「うん。これは君の押す力が足りなかったんだな。もっと勢いよく殺りなさい、エルディラ」
「殺らずに済む方法を探したいのですけれども……!?」
「君が力いっぱい押すことによって物体は放物線を描いて飛ぶ。これにより僕がキャッチすることが可能になる。よって殺らずにすむというわけだ。さあ、もっと両腕に力を込めて! 腰をいれて! 力いっぱい突き落とせー!!!」
「くっ……、仕方ありませんわね……!」
それからは訓練の日々だった。
最初の内はマネキンが殿下の顔面を殴打することもしばしばあった。殿下が鼻血を出すたびにわたくしは駆け寄り、訓練の中止を訴えたのだけど、殿下は頑として譲らなかった。
殿下は、陛下から剣の訓練を命じられたときには、いかにやらずに済ませるかについて知恵を巡らせる方だけれど、自分がやると決めたことは困難であっても粘り強くやり遂げる方なのだ。
殿下を見習うべく、わたくしも腕の筋力トレーニングを行うようになった。
マネキンは重しを含んだ服を身に纏い、年頃の少女と同じ程度の体重を持つようになっていったので、わたくしも力いっぱい押すための力が必要だったのだ。
公爵家で腕を鍛えたいといい出したときには、お父様が卒倒しそうだったけれど。お母様はコロコロと笑って、専門の教師を見つけてきてくれた。元女騎士の先生は、腕だけ鍛えるのではバランスが悪いといって、全体的なトレーニングをしてくれた。殿下には「エルディラ、君、最近妙に嵩が減ったな?」といわれたので、とりあえず扇で叩いておいた。
※
そして聖女が入学してきた。
わたくしは殿下が彼女に一目で恋に落ちてしまうのではないかしらと気が気でなかったのだけど、殿下は特に変わった様子はなかった。むしろ、わたくしの傍にいる時間を増やしてくださったようだった。わたくしが疑問符混じりに殿下を見ると、殿下は唇の端をにやりと上げて「婚約者の不安を解消するのが僕の務めだからな!」と笑っていた。格好良かった。
聖女から殿下に接触するということもなかったので、学年のちがう二人は交流もないまま学園生活が過ぎていった。
一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ……、半年も経った頃には、なんとあの悪夢そのものをほとんど見なくなっていた。わたくしが申し訳なさと恥ずかしさに襲われながらも殿下にそれを打ち明けると、殿下はわたくしを責めるどころか、得意げな顔をして「君の不安を解消できたか! さすがは僕だ! この天才が君の婚約者でよかっただろう、エルディラ?」と笑っていた。
……けれど、わたくしはすっかり忘れていたのだ。
事件とは、気が緩んだどころで起きるものなのだということを。
その日、わたくしは、野外授業のための移動中に、教室に忘れ物をしてしまったことに気づいた。ともに行動していた友人たちには先に行ってもらい、大急ぎで教室に戻り、それから再び目的地へ向かおうとしていたときだ。
わたくしが降りようとしていた階段を、聖女がのぼってくるのが見えた。
さあっと血の気が引いていくのが自分でもわかった。あの悪夢が脳裏によみがえる。わたくしは震えそうになる膝を抑えて、必死にその場に立っていた。このまま動かなければいい。聖女が通り過ぎるまで、何もせず、石像のようにじっとしていたらいい。次の授業に遅れようとも構わない。この場をやり過ごすことができたらそれでいい。
わたくしは祈るような気持ちで聖女が階段を登り切るのを待った。
けれど、その判断は冷静さを欠いていたとしかいいようがなかった。
授業と授業の間の移動時間、階段の踊り場、そこにいるのがわたくしと聖女だけであるはずがないのだ。
わたくしの後ろから男子生徒たちの声が聞こえてきた。笑い合って、ふざけ合っているような声。耳では確かに捉えていたのに、わたくしの意識は聖女にだけ向いていた。だから動けなかった。その場に人形のように立って通行に邪魔な障害物となっていたわたくしと、友人たちとふざけることに夢中になっていた男子生徒たち。
彼らの一人の腕が、周囲を見ないまま勢いよく回されて、わたくしの背中を押した。
「───えっ……?」
「やばっ……!!」
「あぶな───ッ!!!」
呆然としたわたくしの声。
男子生徒の焦った声。
わたくしを見上げて、危ないと手を差し伸べようとする聖女。
わたくしはとっさに聖女の手を跳ねのけようとした。
巻き込んではいけない。落ちるのなら一人でいい。聖女を突き落とさずに、一人で階段から落ちるのなら、あの悪夢よりずっといい。
けれど、跳ねのけようとしたわたくしの手と、助けようとした聖女の手がぶつかる。弾みで聖女が体勢を崩す。絶望した。あれは消えたはずの未来ではなかったの。どうあっても避けられないということなの。誰かが強制しているかのように、わたくしは彼女を───……。
「エルディラ!!!」
声がした。
世界で一番頼りになる声が。
わたくしの身体が床に叩きつけられるより早く、しっかりと抱きとめられる。
ああ、殿下。ルーク様。だめです、わたくしを助けては。あなたの腕は聖女を助けるためにあって、そのために訓練したのではないですか。
安堵と絶望が同時に湧き上がる。悲鳴が聞こえてくるのが恐ろしかった。聖女はきっと、わたくしが突き落としてしまった聖女は、重い怪我を……。
「あっ、ありがとうございます、騎士様───!!」
「いえ、礼には及びません、聖女様。お怪我はありませんか?」
「はい、はい! 大丈夫です。あの、騎士様。お名前を伺っても……?」
「アンソニー・イルムと申します。殿下の護衛騎士の身で、聖女の御身体に触れたことをお許しください」
「アンソニー様……!!! 結婚してください!!!」
「……、失礼、頭を打たれましたでしょうか……?」
「一目惚れです!!!」
「………、医務室にお運びします」
「好きなタイプを教えてください!!!」
「どうかお静かに。頭を打たれたのだと思いますので」
「好きです!!!」
わたくしは呆気に取られて聖女とアンソニーを見ていた。
殿下も同じようにぽかんと口を開けていた。
アンソニーは、まるで殿下に振り回されているときのような疲れた顔をしながら聖女を抱き上げると「医務室に連れて行きます。よろしいでしょうか?」と殿下に許可を求めた。
「あ、ああ……。アンソニー、お前にもついに春が」
「やめてください殿下、私は二十三歳にもなる大人の男です」
「歳の差なんて気にしません!!!」
「聖女様はお黙りください」
アンソニーが額に青筋を浮かべながら去っていく。
わたくしは思わず殿下と顔を見合わせて、それから二人そろって吹きだしていた。
殿下の腕の中に抱きとめられたまま、お互いの鼻先が触れ合うほど近くに顔を寄せて、たまらずに笑い合う。
「はっ、はははっ、見たか、エルディラ! あの朴念仁もついに妻を迎えるようだぞ!」
「ふっ、ふふふっ、いけませんわ、殿下。こういったことはお互いの気持ちが大事ですのよ」
「それはもっともだが、僕には見えるぞ。アンソニーがため息をつきながら『聖女様が成人されてお気持ちが変わらなければ考えましょう』などといった挙句、成人後には責任を取ることになる未来がな! はっはっは、いずれアンソニーが落とされるほうに金貨五枚を賭けよう」
「ふっ、ふふっ、ふふふ、まあ、ずるいですわ、殿下。それではわたくしのほうが分が悪いではありませんの」
「はははっ、なんだ、君もアンソニーが負けると思ってるんじゃないか!」
くすくすと、じゃれ合うような会話をひとしきりしたところで、ようやく周囲の視線に気づいてハッとする。
見れば、わたくしを落とすことになってしまった男子生徒が、真っ青な顔で膝をついて頭を下げているところだった。
※
それから。
駆けつけた先生方に事情を話し、わたくしも念のために医務室で診察を受けた。
件の男子生徒は先生方からの厳重注意と、罰としての清掃活動を命じられていたが、おおむね丸く収まったといえるだろう。
数日後、わたくしは久しぶりに王宮の中庭で殿下と向かい合ってお茶を飲みながら、気になっていたことを尋ねてみた。
「殿下は初めから、わたくしも階段から落ちるとわかっておられましたの?」
「うん?」
「今になって考えてみたら、聖女を受け止めるだけならば、最初からアンソニーに命じられれば済む話だったのだと思うのです。殿下があんな訓練をされる必要はなかったはずですわ」
アンソニーは護衛騎士として常に殿下の傍らにいる。わたくしが聖女を突き落とすときに殿下がいるならば、アンソニーも間違いなくいるはずで、ならば騎士たる彼に対処せよと命令すればよかったはずだ。
それにもかかわらず訓練をしたのは、こうなる可能性があるとわかっていたからなのかと尋ねると、殿下は気まずそうに眼をそらした。
「……ちがう。僕にもこれは読めなかった」
「そうなのですか? でしたら、どうして……」
「……君が困っていたからだ」
殿下はなぜか頬を赤くしていった。
「君が困って、悩んで、不安を感じているなら! 君のために身体を張るのは僕であるべきだ! 君を助けるのは僕であるべきだ! だっ、だって僕は君の婚約者だぞ!? 君に『頼りになって格好良い』と思われるのは僕であるべきだ!!」
「……、あの、殿下……?」
「どうせ君にはわかるまい! 君は誰にでも公正で、誰にでも優しく接することのできる人だ! 僕に親愛を抱いていても恋ではないのだろう! 僕は君の特別ではないのだろう! でも僕は、僕はずっと……っ」
信じられなかった。
わたくしは呆然と殿下を見返していた。
自分の耳で聞いたことが本当だと思えない。そんなわたくしに都合の良いことがあり得るのだろうか。あっていいのだろうか。殿下も、ルーク様も、わたくしを……?
「この際だからいっておくが、エルディラ! 僕は君を親愛なる婚約者だと思ったことはない! 僕は君をずっと愛していて、大好きで、最愛の婚約者だと思っている!」
「殿下───! わ、わたくしも……っ」
「鈍い君にもわかるようにハッキリいうが、僕は君と性的な行為がしたいと思っている!」
「今のは余計ですわ───!!!」
「君にキスがしたいし、君の肌に触れたい!!! 君と世にいう『イチャイチャ』なるものがしてみたい!!! こっそり取り寄せた恋愛指南書によると時間の経過によってそのような雰囲気になるそうだが七年間一度もそのような時は訪れなかった! だからもうはっきりいうぞ! 僕は君を愛しているし君にキスがしたいと思っている!!!」
王宮の中庭全体に響き渡るほど大声だ。
わたくしは猛烈な恥ずかしさで真っ赤になりながらも、勢いよく立ち上がり、殿下の頬を両手で掴んで、そして───。
「…………エルディラ」
「はい、ルーク様」
「今のはキスか……?」
「……はい」
「もう一度したい……」
「はい……」
「それは許可の意味の『はい』なのだろうか、それともただの相槌なのだろうか?」
「殿下は……っ、アンソニーを遙かに超える朴念仁ですわ……っ!」
「ほかの男の名前を出さないでくれ、エルディラ。僕はすごく嫉妬するぞ」
そういって殿下は、わたくしを強く抱きしめる。
それから、二度目の甘いキスをしたのだった。




