第一話:突然の転移
見渡す限りの小麦が、風にそよいでいる。
この平原の村、アグリスにおいて、
それは誇りであり、世界のすべてでもあった。
十歳の少年アルトも、
その黄金の波間に浮かぶ小舟のように、
平凡な日々を過ごしていた。
村の小さな学校。古びた教室。
今日も眠気を誘う授業が行われる。
「……いいですか。この王国が興ってから三百年。
偉大なる王は魔族との戦争に勝利し、
我らに安寧をもたらしました。
皆さんが育てる小麦は、王都へ運ばれ人々を支えるのです」
王都から派遣された老教師の言葉を、
アルトはぼんやり聞いていた。
教科書という高価なものはない。
教師が話す言葉を使い古した紙に書き起こすだけ。
歴史。王国。戦争。
そんなものは雲の上の出来事だ。
農家になる自分には、関係ない。
「――では、この後は魔法の授業です。
今日は火の魔法を使います」
---
放課後。
アルトは家のかまどに人差し指を向ける。
『陽の光、招きて結ぶ ―― 灯れ、小さな火!』
指先に弱々しい火が浮かぶ。
木屑が燃え、薪の隅に赤みがさす。
「見て見て! 母さん! 今日は一回でついたよ!」
「まあ、すごいじゃない!助かるわ」
農作業を終え、帰宅した父が、
豪快に笑ってアルトの頭を撫でた。
「ははは! アルトの魔法か!
将来は魔法使いになれるかもな!」
「ちょっと、バカなこと言わないでよ」
さっきまで笑っていた母が、
呆れたように口を挟む。
その瞳には、現実的な諦念が宿っている。
「なれるわけないでしょ。魔法使いなんて。
できない夢を見せたらかわいそうよ」
父は「それもそうか」と頭をかき、
アルトは少しだけ肩を落とした。
自分もいずれ父を継ぎ農家になる。
わかってはいる…ただ、時折、空想するのだ。
もし他の生き方も選べたのならと…。
---
その日の夜。
月明かりとは違う、強い白光に起こされる。
光に誘われるように、アルトは裸足で外へ出た。
小麦の海の真ん中に、巨大な「光の輪」が浮かんでいる。
アルトは吸い寄せられるように近づき、手を伸ばした。
突然、光が強くなり、アルトの手を激しく引っ張る。
寝ぼけた頭が急に覚醒し、危険信号を放つ。
「アルト――!!」
背後から響く母の悲鳴。
反対の手を母に伸ばすが、遥か遠く届かない。
「かあさ――……!」
叫びはかき消され、視界が白一色に染まる。
一瞬が永遠に感じられ、永遠が一瞬のうちに過ぎ去った。
次に気づいたとき、アルトは冷たい石床の上に倒れ込んでいた。
朦朧とした意識の中、見上げると少女が座り込んでいる。
「なんで…」
少女の口から力ない声が漏れ出ると同時に、
アルトの意識は沈んでいった。




