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 祝祭を待つ亡霊 ―1945年のヴィンテージ―

作者: 倉田恵美

 その部屋の空気は、湿った土と古い紙の匂いがした。

 フランス、シャンパーニュ地方。ある名家の地下蔵の片隅で、彼は自分が「生まれた」ことを知った。1945年。地獄のような戦争が終わり、世界がようやく深く長い呼吸を始めた年。彼は、太陽の光を凝縮したような黄金色の液体を、厚い緑色のガラスの中に閉じ込められ、「ノア」という名を与えられた。

「お前は、この国が、いや世界が、真の平和を取り戻したその日のために開けられるのだよ」

 造り手の老人は、震える手でノアの首に針金を巻き、銀紙を被せた。それが彼に課せられた、あまりに重い、そして幸福なはずの「使命」だった。

 しかし、運命は彼を嘲笑った。

 ノアの最初の旅は、略奪から始まった。ナチスの将校が泥靴で地下蔵を荒らし、彼を戦利品として持ち去ったのだ。

「勝利の祝杯だ!」

 将校が笑い、ノアの首に手をかけたその瞬間、耳を裂くような爆音とともに天井が崩落した。連合軍の空襲だった。

 暗闇。沈黙。

 ノアは瓦礫の下で、ただじっと待つことになった。自分が何のために存在するのか、その意味を噛み締めながら。

 それから八十年。ノアは、いくつもの手を渡り歩いた。

 ある時は、強欲な投資家の冷たい金庫の中で。彼は一度も開けられることなく、ただ「価値が上がった」という数字だけで語られた。

「私は、ただの数字ではない。中には命が、泡が脈打っているのだ」

 ノアは心の中で叫んだが、その声は厚いガラスを通ることはなかった。

 またある時は、豪華な客船のディナーテーブルで。孤独な大富豪が、愛する女性のためにノアを注文した。しかし、彼女は現れなかった。大富豪はノアを一口も飲まず、ただそのラベルを見つめたまま、明け方に静かに息を引き取った。

「誰も私を飲もうとしない。私は祝祭の象徴のはずなのに、死と孤独のそばにしかいられない」

 埃を被り、ラベルが少し剥げたノアは、いつしか「呪われたヴィンテージ」と呼ばれるようになった。中身は極限まで熟成し、琥珀色の美しさは神々しささえ帯びていたが、誰もその「死」を看取る勇気を持たなかった。

 そして現代。

 ノアは、日本の片隅にある、うらぶれた洋食店『シエル』の棚にいた。店主は、かつてフランス戦線でノアを瓦礫から掘り出した少年の、変わり果てた姿だった。

 ある嵐の夜。店に一人の男が迷い込んできた。

 びしょ濡れのスーツ。魂が抜けたような目。男はカウンターに座ると、絞り出すような声で言った。

「……一番安い酒を。全部、忘れたいんだ」

 男は、信じていた仲間に裏切られ、仕事も夢も、生きる気力さえ失っていた。

 店主の老人は、黙って棚の奥から、一本のボトルを取り出した。埃を払い、丁寧にクロスで拭き上げる。それは、八十年間、誰の手によっても解かれなかったノアの封印だった。

「おじいさん、そんな古い酒……。僕には払えないよ」

「金はいらんよ。この酒が、あんたを待っていたんだ」

 老人の手が、ノアの首にかけられる。

 ノアは、自分の体温が上がるのを感じた。ついにこの時が来た。八十年の沈黙、八十年の孤独。自分を奪おうとした者、自分を利用しようとした者。彼らではなく、今、目の前でボロボロになって泣いている、この名もなき男こそが、自分の主人なのだ。

 シュン……。

 天使の吐息と呼ばれる、優しくも鮮やかな抜栓音が店内に響く。

 グラスに注がれた瞬間、閉じ込められていた八十年分の太陽が、一気に泡となって弾けた。熟したリンゴ、蜂蜜、そして戦場を生き抜いた大地の香り。

 男が震える手でグラスを口に運ぶ。

 一口、その液体が喉を通った瞬間、男の目に光が戻った。

「……暖かい」

 それは単なる酒の味ではなかった。八十年もの間、誰にも飲まれず、ただ「誰かの幸せ」を願い続けてきたノアの執念そのものだった。

「死んでしまいたい」と思っていた男の胸の中に、消えかかっていた生命の火が再び灯る。

 ノアは、グラスの中で静かに消えていく自分を感じていた。

 体は液体として消費され、意識は霧散していく。それは、彼にとっての完全なる死だった。しかし、これほどの幸福感は、地下蔵で生まれたあの日以来、一度も味わったことがないものだった。

(ああ、ようやく、私の役目が終わる)

 最後に見たのは、男の頬を伝う涙と、わずかに上がった口角だった。

 八十年前の老人が約束した「真の平和」は、ここにあった。一人の人間が、絶望の淵から、もう一度明日を生きようと決めたその瞬間。

 それは、世界中のどんな凱旋パレードよりも、美しい祝祭だった。

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