「不死の俺は百年ごとに記憶喪失になるが、婚約者だけは毎回会いに来てくれる」
残り一か月
その朝、アンディが目を開けた瞬間、胸の奥で小さく確信した。
――もう、すぐだ。
全部を思い出したわけではない。だが、何百年も繰り返すうちに分かるようになったのだ。
うなじの奥をかすめる、か細い風のようなざわめき。
“忘却”が近づいている合図。
「九十九年目……。今日から、最後の一か月か」
窓から差し込む光を見つめながら、アンディは小さくつぶやいた。
まだ朝靄の残る村は静まり返っていた。
不死の英雄はゆっくりと広場を歩き、一歩一歩を胸に刻みつけようとする。
――だが、それに意味はない。今までも、結局すべて消え去った。
十五度前の周期では生涯を記した書を残そうとした。
八度前には石碑に刻んだ。
魔法使いに“永劫の呪”を頼んだこともある。
だが、百年目の夜にすべては塵となる。
「お前の魂は永遠に続く。ゆえに記憶は耐えきれぬのだ」
魔法使いたちはそう告げた。
アンディはその運命を受け入れていた。
――その日までは。
鐘楼のひさしの下に、一人の少女が立っていた。
見覚えはない。
……はずだった。
だが、心の奥で何かが震えた。
遠い旋律のように、やさしい余韻が響く。
少女は古びたロケットを抱えていた。
「やっと……見つけたよ」
疲れた微笑みと共に、少女は言った。
「前に会ってから、ちょうど百年」
アンディは眉をひそめる。
「俺たちは……知り合いなのか?」
少女は、悲しみと慈しみが溶けた瞳で彼を見つめた。
「私はサナ。
あなたの――何度も巡り会った婚約者だよ」
レリカリオ
井戸のそばの木陰に腰を下ろし、サナはロケットの蓋を開けた。
そこには黒く煤けた金属にふたつの名前が刻まれていた。
ANDY
SANA
指先で触れた瞬間、鋭い痛みがアンディの脳裏を走る。
ほんの一瞬、闇の中に光が差すように、かすかな記憶が閃いた。
「これを作った時、あなたは“千年は耐えるように”って言ってたの」
サナはそっと金属をなでる。
「たとえ忘れても、きっと何かを思い出すはずだからって」
アンディは言葉を失った。
信じるべきかどうかもわからない。
だが――彼女の声は、どこか懐かしい温度を帯びていた。
「どうして……戻ってきた?」
「どうせ俺は、また全部忘れるのに」
「それでも毎回、あなたに会うの」
サナは迷いなく答える。
「そして毎回、あなたは必ず……もう一度私を好きになる」
胸が強く跳ねた。
真実なのか、錯覚なのか分からない。
だが、信じたいと思った。
一か月
その日からの日々は、穏やかな夢のようだった。
サナは川のほとりを歩きながら、彼が覚えていない物語を語った。
「最初の人生では、あなたが森の精霊から私を救ってくれたの」
「二度目はあなたが迷子で、私が助けた」
「三度目は子どもの頃。大きな樫の木の後ろに隠れるのが好きだったよね。もう倒れちゃったけど」
「……悪くない思い出だな」
「うん。全部、大切な記憶」
時折、閃光のように記憶の断片がよぎる。
つないだ手の温もり。
柔らかな笑い声。
紫に染まった丘での夕暮れ。
――だが、どれも像を結ばない。
それでもサナは諦めなかった。
彼が“好きだった味”の甘いパンを焼き、
“いつも歩いていた道”を案内し、
“毎春座っていた丘”で一緒に空を眺める。
夜を重ねるたび、胸の奥で静かな何かが目を覚ましていった。
残り十日
二十日目の朝、アンディは震えながら目を覚ました。
「夢を見た……。君の夢だ」
「この村じゃない。光の街で……青いドレスを着た君が泣いていた。
俺は……何かを約束した」
サナは嬉しさと苦しさが混ざったような表情を浮かべる。
「“世界が変わっても、私を忘れない”って、そう言ったんだよ」
「約束……守れたのか?」
彼女はそっと視線を落とした。
「ある周期では……あと一歩だったよ」
胸にぽっかり穴があるような痛みが走る。
「全部……思い出したい。君を……思い出したい」
「分かってる」
サナは頬に触れ、やわらかく微笑んだ。
「だから、私は来たの」
日に日に影が濃くなるように、“忘却”は近づいていた。
最後の夜
残り、数時間。
暖炉の前で座るアンディの隣で、サナはロケットを握りしめていた。
「正直に聞く。……俺が忘れるところを、何度見てきた?」
深く息を吸い、サナは答える。
「九回。
これが十回目」
「……それでも戻ってきたのか」
「うん。毎回」
「どうして。こんな苦しいのに」
サナの笑みは優しく、涙は静かだった。
「あなたはね……どんな世界も、私に好きだと思わせてくれたの。
だから忘れられても、私は――あなたを忘れられない」
炎がはぜ、影が伸びる。
「……循環を断ち切る方法がひとつだけあるの」
アンディの目が大きく開かれる。
「教えてくれ」
「記憶を入れ替えるの。
この時間に縛られた魔法は、それで途切れる」
「俺は……できるのか」
サナは首を振った。
「あなたが記憶を渡したら、ただの空っぽになるだけ。
何も思い出せない。
もう二度と……私を好きにはなれない」
アンディは唇を噛む。
「じゃあ……君が」
言葉が続かない。
サナはそっと手を重ねた。
「私はもう十分生きたよ、アンディ。
あなたの記憶を千年抱えてきた。
次は……あなたが持つ番」
喉の奥で声が震える。
「君を……失いたくない」
「失わないよ」
「私はまた――あなたに恋をするから」
そして、犠牲
月が天頂に達した瞬間、サナはロケットをアンディの胸に押し当てた。
淡い光があふれ、冷たい風が渦を巻く。
胸の奥の眠っていた何かが脈打ち、世界が反転するような感覚に包まれる。
「サナ……。思い出した。
笑い声も……歩く速さも……初めて抱きしめた日も……
全部……全部……!」
「……よかった……アンディ」
光に溶けるように、サナの声が弱くなる。
「どうか……今度こそ……幸せに……」
光が弾け、風が止む。
そこには、膝をつく少女がいた。
呼吸は浅く、瞳には混乱が宿っている。
「ここ……どこ……?
あなた……誰……?」
アンディの心が軋む。
だが――それでも彼は微笑んだ。
涙でにじむ視界の中で。
「俺はアンディ。
……もしよければ、これから少しずつ君を知りたい」
ふたりの新しい始まり
翌日から、世界は静かに色を変えた。
サナは何も覚えていない。
周期も、ロケットも、千年の恋も。
だがアンディは、毎朝彼女に“彼女が愛した世界”を示した。
好きだった花。
よく歩いた道。
雨の日に歌っていた旋律。
サナは知らぬまま笑い、
その笑顔は――千年分の記憶にある“彼女”のままだった。
ある夕暮れ、丘を歩く途中でサナがふと手をつないでくる。
「変だな……あなたといると、安心するの。
初めてじゃない気がする」
アンディはそっと目を閉じた。
「初めてじゃないよ」
「そしてこれから、もう一度歩いていくんだ」
サナは戸惑いながらも笑った。
「じゃあ……案内してくれる?」
「もちろん。いつだって」
満ちた記憶と、初めての想いを抱いて。
アンディは――千年愛した少女を、もう一度最初から好きになっていく。
読んでくださり、ありがとうございます。
この作品を最後までお読みいただいた皆さまへ
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
この物語は、「愛と記憶」を千年という長い時間の中で描きたいという想いから生まれました。
近いうちに、さらに多くの物語をお届けする予定です。実は、デスゲームを題材にした新しい物語もあります。
『ラウンド2055』です。
人生は一瞬で変わることがある世界で…
孤独な中年女性、スンヒは崖っぷちに立っていた。
返せない借金…治らない病…そして、人生の果てに待つ虚無。
彼女が挑むのは [ROUND 2055]――999人の参加者が集う、命を賭けたゲーム。
その模様は世界中に生配信される。
このイベントは人間の世界を超えたもので、あまりに重要なため、毎年、神々でさえも招かれるという。
伝説によると、2026年、
ある男がシステムに立ち向かった。
最期には、無垢な命を救うため、自らを犠牲にした。
彼の目に映ったのは、施設を飲み込む炎と爆発の嵐。
その火は建物だけでなく、まるで彼自身の身体さえも焼き尽くそうとしているかのようだった。
目的は果たせなかった――
ゲームはその後も何年にもわたって続いていく。
だが彼は全ての主催者にひとつのメッセージを送り届け、
以後のゲーム運営の形を永遠に変えたのだった。
読んでくださり、私と一緒に夢を見てくださり、この冒険の一部になってくださり、本当にありがとうございます。
読者の皆さま一人ひとりが、私にとってこの努力を意味あるものにしてくれる奇跡です。
—Sunhi




