第十六話 皇帝陛下
「全く、軟弱だな」
地面に倒れたトウマを見下ろすワンジュ。彼のルーティーンをいきなり行うのは運動不足のトウマにとってキツ過ぎたのである。
そもそも腕立て百回などトウマが日頃からやるわけがない。
ワンジュは寝そべっているトウマを担ぎ上げた。皇子が従者をわざわざ担ぐなどは、前代未聞である。
「妹に感謝してくれよ」
その言葉とともにトウマを運び出した。特に荷物は持たず、上半身裸のままで宮殿内を歩く。普段の鍛錬が生きているのかトウマを重いと感じている素振りは一切見せていなかった。
「―――ちっ、まじか」
眉間に眉を近づけたワンジュはその場に足を止めた。時が進んでいるとはいえ、時間帯はまだ夜明け前。すでに起きている人間もいる。しかし、基本的に起きているのは世話係がほとんどである。
「おはようございます。兄上」
ワンジュとは反対の通路をやってきた人物、それはワンジュの兄であり、シュラーゲル王国の第一皇子。ソンヨ・シュラーゲル。
墨汁をこぼしたかのように黒い髪、氷のようなシアンの瞳には感情が宿っていない。その目には常に光などない。くっきりとした二重に整った顔がより一層にその冷酷さを助長している。
「フッ、何してんだ? 皇子ともあろう者が。人を担ぐなど皇子の威厳を汚すに等しいな」
「困ったときはお互い様と言います。意識のない人間を見捨てることなどできません」
「それは違うな。皇子の面子を潰すなら、私は他人を顧みない。それが皇帝に必要な素質だ」
ソンヨはこの国の第一皇子ということもあり、次の皇帝が確定している。父である現皇帝の気が変化しなければそのまま彼が皇帝となる。
「やはり、皇帝となられる方には及びません」
「遠回しの皮肉のつもりか、好きに言えばいい」
スッと隣を行く。
宮廷内でもソンヨの評判はあまり良くない。愛嬌があり、慈悲深い他の皇子や皇女に比べ、闇が深いのだ。兄弟間の関係値も浅く、常に皇帝というものに縛られている。
「常服、そして小冠とは珍しい……あの人が出廷するとは思えないが」
彼は口ずさみながらトウマを部屋へと運んだ。
部屋と言ってもワンジュの部屋ではない。れっきとした執事専用の部屋である。
偶然にも執事室に空きがあることを思い出したワンジュはその一室のベッドにトウマを置き、中庭へと戻って行った。
◇ ◇ ◇
一方で王の間では昨日の出来事について議論していた。
「なるほど……正理機関か、よもやそんな者たちが街を彷徨いていたとは―――警備の兵士は何をしていた!」
高台の上にある玉座から指をさしているのはシュラーゲル王国の皇帝、ガンレル・シュラーゲル。皇位についてもう二十年以上が経過している。髪にはところどころに白髪が見え、髭ももう黒から白へと変わっている。
年々老けていく顔だが、瞳はより一層の輝きを放ち、魂は弱るどころか豪炎と化している
「も、申し訳ありません!」
下段にいる警備隊長が頭を下げた。
早朝から説教である。それも当然であり、日中に説教をするよりもまだ活動時間でない時間に行う方が都合が良いのである。
「しかし舐められたものだ! 我が国に堂々と立ち入り、挙句の果てには民にまで危害を加えるとは!」
「わ、我々も厳重に警備していたのですが、監視網に引っかからず―――」
「えぇい! 黙らぬか! 今回の失態はいかにして責任を取るつもりだ!」
「そ、それは―――」
「お待ちを」
そんな張り詰めた空気の中、爽やかな声色が室内に響いた。荒れ狂っていた嵐の中に一つの光が差し込んだような声の持ち主は黄褐色の眼、黄色がかった仙服を着用し、扇子を持っている。
その場にいる人間の中では皇帝に次いで身分の高い人物。ヘルメス・アーサーである。
「街を歩きながらその異変に気がつけなかった僕の責任です。その者は悪くありません。罰するなら僕を、何卒お願いします」
「ヘルメス………お主、現場に居合わせたのか」
彼が立ち上がってもなお、ガンレルは表情を崩すことなくヘルメスを見据えていた。
「はい。もっと言えば他にも三名、その場にいました」
「詳しく申せ」
「一人はミユ皇女です」
それを口にした直後、一瞬ガンレルの表情がピクリと動き、空気が揺らいだ。流石に自身の娘ともなれば心配なのだろう。
「もう一人は皇女さまの従者、ジュラルです」
「ほう……して、あと一人は一体誰だ」
「残る人物はトウマ・カガヤです」
「―――誰だ」
「皇女さまの新しい付き人です」
「聞いたこともない、詳細を聞きたいところだが、今は良い。もちろん、皇女には怪我はないのであろうな?」
ガンレルは目力を強めヘルメスにぶつけた。距離があるとはいってものの、纏う空気から圧力が増しているのは感じ取れる。
それでもなお、ヘルメスは平静を貫いた。
「勿論です。それはこの命に換えても保証します」
それを聞き、場の雰囲気が和らいだ。ガンレルの雰囲気がやや落ち着きを取り戻したからであろう。
「なるほど、して、正理機関はなんと名乗った」
「今回は二名。一人は『ロキ=メフィストフェレス』のリィナ・フェルカナ。
もう一人は『ヒュドラ=エン』のアメル・セクト。アメルについてはジュラルが拷問の末に殺しましたが、リィナについては逃亡しました」
ヘルメスがそう言った直後、勢いよくガンレルは玉座を立ち上がった。
「なんと! アメルをやったのか!?」
先ほどとは一転し、顔は歓喜に満ちていた。その理由は簡単である。正理機関の中にはいくつもの分派が存在している。その中でも『ヒュドラ=エン』の構成員は圧倒的に多かった。その大量の構成員を生み出しているのがアメル・セクトだった。
長きに渡り、多くの国に被害をもたらしていたため、連合を組んでアメルを倒さんと画策してきたが精神に攻撃するという、防御が難しいかつ、初見では防げない技に連合は手も足も出なかった。過去に二度、強者を当てたがいずれも破れ、死んでしまった。
それがこの世界からいなくなった。どれほど嬉しいものか。それは口角が上がり、表情が緩んでいるガンレルの顔が物語っている。
「しかし、リィナについてはお詫びを―――」
言いかけた直後、ガンレルは階の下へとやってきてヘルメスの手を取り、肩を叩いた。
「逃したことは問わぬ! アメルをよくぞ討ち取ってくれた! これで私も枕を高くして寝れるものだ!」
「………陛下」
「礼は私ではなく、ジュラル殿にお願いします」
「そうであるな、やつもまた私と同じ者だからな」
「以上が私からの報告です」
「吉報、感謝する!」
「失礼します」
ヘルメスは退室した。
王の間を後にしたヘルメスは一人、夜が明けている様子を見ていた。
そこに、一人の人物が現れる。
「………珍しいですね、あなたがここに来るとは」
ヘルメスは横目にそれを見る。
跡継ぎの証である金の不死鳥が刺繍された漆黒の常服、白銀の小冠。整った顔立ちとは反対に全てを凍らせるような瞳。
「ソンヨ皇子、お久しぶりです」
「久しいな、ヘルメス。何か良いことでもあったのか?」
「いえ、これといって良いことはありません」
「嘘をつけ、正理機関を倒したんだろう?」
「全てを倒したならば喜ばしいですが、一部ですので」
「なるほど………やはり、実力が高いと価値観はズレるのだな」
ソンヨは嫌味をヘルメスへぶつけた。しかし、ヘルメスはそれを平然と受け流す。
「そんなことはございません。全滅するという目標を掲げながら、いまだにそれが叶わないことを嘆いているのです。
倒したことは確かに嬉しいですが、喜ぶのは全てが終わった後でないといけません。慢心は成功を挫きます。それは皇子さまもご存じでしょう?
それとも………皇帝になることに焦りを感じていらっしゃいますか?」
ヘルメスは真っ直ぐソンヨを見ながら言った。
彼は核心をつかれたのか顔には怒りの表情が浮かんだ。眉がやや上に吊り上がり、眼ではメラメラと闘志が燃えている。
「貴様……」
「では失礼します」
ヘルメスは背を向け、足早にその場を立ち去った。
「どいつもこいつも………だが覚えておけ私が皇帝になった暁には真っ先に貴様を服従させる」
残されたソンヨはヘルメスの背中を睨んだ。しばらくそうした後に、王の間へと入っていった。