第1話 おっさん、魔界に立つ
「……寒くない?」
それが、最初に抱いた違和感だった。
目を開けると、赤黒い空が広がっていた。
そこには太陽のようなものはなく、ぼんやりとした血色の光が空一面に滲んでいる。
「……どこだよ、ここ……?」
多田野仁は、アパートの布団で孤独死したはずだった。
だが今、彼は見知らぬ土地の地面にうつ伏せで転がっていた。
「いててて……うわ、重っ……!?」
ゆっくりと身を起こそうとした瞬間、自分の体の異常に気づく。
まず、腕。岩のように分厚く、筋が浮き上がるほどの筋肉が詰まっていた。
皮膚は灰色がかっており、ところどころ硬質な角質のようなものが浮いている。
その手の甲からは、刃のような骨の突起が生えていた。
「えっ……? なんだこれ、俺……じゃねえ……?」
次に感じたのは胸の鼓動だ。
中心部に熱源のようなものがあり、ドクンドクンと規則的に脈打っている。
視線を落とすと、胸に大きく刻まれた赤い魔紋が燃えるように光っていた。
まるで、そこに“心臓”ではなく“エンジン”でも埋め込まれているような感覚。
試しに立ち上がってみると、自分の身長が軽く2メートルを超えていることに気づく。
体は異様に軽く、それでいて異常なまでに力がこもっていた。
拳を握るだけで、地面がミシミシと鳴る。
「なんだよこれ……これ、俺の体か……? どこのRPGのラスボスだよ……」
困惑していると、背後から柔らかく、艶めいた声が聞こえた。
「お目覚めね。ようこそ、魔界へ」
振り返ると、そこに立っていたのは一人の美女。
長い銀髪に血のように赤い瞳、黒のレースのような衣装に身を包み、背中にはコウモリのような翼。
そしてその指先には、蠱惑的な笑みが宿っていた。
「は……サキュバス……?」
「ええ。わたくし、リリス・ナイトロマンスと申しますわ。あなたをここへお招きした者よ」
「招き……え? 召喚? 転生じゃなくて?」
「両方ですわ。あなたの魂、もともと異世界のものでしたでしょう? 再利用させていただきましたの」
仁の頭は、情報過多でショート寸前だった。
「ちょ、待って待って。まず、死んだことは認める。で、ここは魔界? 俺、魔物になった? てか、これ俺の身体? 鏡ない? 鏡見せて?」
「残念ながら、鏡は持ってませんが……あなたはかつて魔界を滅ぼしかけた伝説の狂戦士〈ヴァーサーカー〉の素体ですのよ」
「何その物騒な役職……いや、職業?」
リリスはくすくすと笑いながら、仁の肩に手を置いた。
「大丈夫。最初はみんな戸惑いますわ。ですが、魔界では強さこそが存在理由。あなたのような存在は、むしろ――歓迎されますのよ」
仁は、再び自分の拳を見つめた。
分厚く、恐ろしく重そうなのに、妙にしっくりくる。
怖いくらい、体に馴染んでいた。
「……強さ、ね……。俺、前の人生じゃ何にも残せなかったけど……」
無職で孤独死。
誰にも看取られず、何も誇れず、ただ終わっただけの人生。
だが、この体、この場所では……
もしかしたら何かを“やり直せる”のではないかという感覚が、微かに胸をよぎった。
リリスは仁の手を取り、優雅に微笑んだ。
「それではご主人様。わたくしの村に参りましょう。あなたの新たな人生が、今、始まるのですわ」
こうして、多田野仁の“第二の人生”が幕を開けた。
舞台は血と魔力の魔界。
肩書きは最凶最悪のバーサーカー。
しかし本人はただの陰キャおっさん。
このギャップが、後に魔界を震撼させるとは、この時、誰も知る由もなかった。