59.帰路、そして昼間に
お読みいただきありがとうございます。
「楽しかったねー」
船に乗って多分まだ一分くらいしか経っていない。そんな短い沈黙を鳥澤が破ったのは単にこの空気が気まずかったからだろうか。それとも単に言葉を発したからだろうか。
いずれにしても僕がそれについて深く考えることはなかった。
なんでかわからないが、今回は誰も船酔いしないような気がする。あまり船の揺れも感じない。なので多分カイは全然元気で、心のなかで「どこがだよ」と言っていると思う。
起きているにも関わらずそれを口に出さないのは、今この空間に行きの空気は漂っていないからだろう。
「そうだね」
後ろにいる鳥澤に対して僕は完全にそっぽを向いていたので顔は見られていない。真顔で返したことも知られていないはずだ。多分僕は語尾に伸ばし棒らしきものを付けたと思うので、鳥澤が不快になることもないし、この場の雰囲気が重くなることもない。
隣りに座っていたりんの方をちらっと見ると「すー」と音を立てて眠りに落ちていた。このそっけない会話を盛り上げてくれる人物はもうこの場にはいなかった。
別に、だからどうって話ではないのだが。
気づくと窓の外には朝日が昇っていた。海に差し込む光の三原色、それは波に反射して僕の目にも飛び込んできた。ここから見れば二次元にしか見えない朝日はまだ半円なので、早朝、その言葉で片付けても大丈夫だろう。ということは、まだ十二時間経ったと言うには早すぎる。
...地球というのは、太陽の周りを一年くらいかけてぐるぐると回っている。そしてその間に地球も三百回以上回転する。なので太陽からなら地球の面すべてを見ることが可能ということか。月と地球だとそうはならない。地球から見える月の面は半分くらいだ。
太陽と地球。太陽の周りを地球はまわるので、地球から太陽のほぼすべてを見ることも可能というわけだ。...そう考えると、地球と太陽はどこか素直な関係に思えてくる。
しかし今僕が感じたように、地球から見える太陽は表裏など関係なく、地球に光をもたらす。だからすべての面を見れて素直な関係だとしても、人間にとっては太陽は時々光をもたらさなくなる頑固な関係なのかもしれない。
もしかしたら、月も太陽も同じようなものなのかもしれない。人間から言わせれば、朝と昼は太陽、夜は月が光をもたらす、それだけの違いなのだろうか。
「あれ、軟、起きてたの。」
僕が落ち着きのため息を吐くとりんがそう言った。「起きてたの」はこっちのセリフだ。
なんとなく、僕は聞きたかったことがある。
「...そういえばりん、秀和さんのこと、気づいてたんじゃないの?」
いつもの感じに比べて、りんは事実を受け止めるのが妙に早かった。もしかして、初めから知っていたんじゃないだろうか。
「―あね。」
船の中で「ぎし」と音がした。そのせいでなんと言ったかうまく聞き取れなかった。
...まあねだろうか、それともさあね、だろうか...。
「別に、だからって嫌には思わないよ。」
そういうとりんは寝てしまった。また船の中が静まり返る。僕ももう一度寝ようか。...だめだ。眠れそうにないな。
床においてあったかばんからスマホを取り出した。カメラアプリを開いてレンズを窓の外に向ける。
...いや、シャッター音で皆が起きるかもしれない。やめておこう。
今この絶景を見れるのは、今だけだ。今だけは、そういう気分だ。
寝れないならしばらくぼーっとしていよう。明日になれば学校も始まるから、今は一番気が抜ける時間なんだ。
地球から見えなくても、太陽はずっと起きているんだ。
地球から見えなくても、月はずっと起きているんだ。
―月から見えなくても、僕が見たかったのはきっと、朧気な月だったんだ。
がたんごとん。電車の走る音が聞こえる。
あれ?ここは...。僕の部屋だ。自分の名前だって知っている。天安軟だ。
「あ、起きた?」
鋭がいる。小四の弟だ。
「十二時五十五分。ぴったりだね。」
何がだ...?何がぴったりなんだ...?
唖然としていた僕をほっておいて鋭はどこかへ行ってしまった。
とりあえず身を起こす。空は澄み渡っていて、目の前に積乱雲が広がっている。あれ?僕は何をして...。さっき昼ご飯を食べて、でその後なんか...。だめだ、うまく思い出せない。
床を手で撫でる間隔がはっきりある。ぐったりもしていない。寝ぼけているわけではないだろう。
...うちの昼ご飯を食べる時間は他の家より一時間くらい早い。だから今は他の家が昼ご飯を食べ終わった頃だろうか。カイたちも例外ではない。多分。
一度聞きに行ってみるのも価値がなくはない。僕はそのまま勢いで立ち上がり、玄関へ向かった。鋭の靴はもうない。どこへ行ったのだろう。なんとなく急いでいた感じがした。
とりあえずカイではなくりんのところへ行こうか。鳥澤やカイの家よりも近い。いや、近くはないか。
家の前の、車の横にある濃い赤色をした自転車を取り出す。普通のママチャリだ。サドルにまたがって左足に体重をかける。すると少しふらつきながらも自転車は動き出した。
...風が吹いても暑いことに変わりはなかった。なので僕は自転車に乗っている間、ずっと涼しさを求めていた。いや、りんの家についてもそれは同じか。
やがてりんの家についた。よくよく考えれば、直接家を訪ねなくてもメールさえ送れば済んだ話だ。ただそれでも僕が直接話したいと思うのは、メールだけだとどこかその情報を信じきれないという思いが僕の中に渦巻いているからだろう。
ピーンポーンパーンポーン。その音は前と同じように学校のチャイムのようだった。
「はーい」
インターホンの奥に聞こえた声はりんのものでも秀和さんのものでもなかった。ということはりんの母、美世さんということだろう。
あまり会ったことがない人ということもあって、なんとなく「莉里いますか」と本名で尋ねた。そして「梨里ー、お友達ー」とりんのことを呼ぶ声が聞こえた。
やがてドアが開いたのだが、出てきたのは美世さんだった。
「ごめんねー、ちょっと梨里呼んだんだけど寝てるみたいで...。遊びに行く約束とかしてた...?」
寝てる...のか...。
「あ、いいえ、大丈夫です」
適当にありがとうございますみたいなことを言って会釈をして、その場を離れた。
寝ている...のか...。
少しうつむく。このアスファルトはどれだけ頑張っても、僕の力ではひびも入らない気がした。
え?夢オチってやつ...?
あ、まだ最終回はさきです。




