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三章#14 買い食い

「せーんぱいっ」


 靴を履き替えて玄関で待つこと数分。

 くふぁと欠伸をしそうだった俺の目を、小さくて細い手が覆い隠した。女性特有の体質なのか、随分と指先が冷たい。

 ってか、これ何気にめちゃくちゃくすぐったいな……⁉

 手を繋ぐより遥かにこそばゆいかもしれん。


「さぁ先輩。私は誰でしょうー?」

「隠す気ないのに問題を出すな。というかこの体勢は恥ずかしいからやめてほしいんですけど?」

「そう思うなら早く答えてください。さぁ、ファイナルアンサーをどうぞ!」

「ファイナルアンサーの用法が微妙に違うんだよなぁ……」


 苦笑しながら体をよじるが、なかなか雫の手が離れない。

 それどころか、こう……ね? 雫が後ろにいるせいで背中に色々と当たって……。

 端的に言うと、男子の嫉妬を大金叩いて買いまくることのできる状況にいた。


「ったく。雫だろ、雫。綾辻雫」

「ぶっぶー。正解は世界一可愛い最強天使の雫ちゃんでした~!」

「ぶん殴ったろか」


 雫はやたらと機嫌よく言って、ぴょんぴょんと離れていく。

 にひひーと向日葵みたいな笑顔が咲いていた。


「えへへ。待ちましたか?」

「はぁ……今きたとこだよ。というか二年と一年の教室と玄関からの距離はほとんど同じなんだし、今きたところに決まってるからな」

「ちぇっ。そこは素直にお決まりの流れを踏襲してくれればいいのに」


 べー、と悪ガキのように舌を出す雫。

 たまたま通りかかった男子が『え?』って状況も理解できずにハートを射抜かれていることを、雫は自覚しているのだろうか。


 額に手を当てて溜息をついてから、俺はとりあえず歩き出す。


「あ、先輩。忘れ物ですよ」

「忘れ物? ……あぁ、そういうことね」


 差し出された手を見て、俺はくすりと笑う。

 この一週間、毎朝手を握っていたから、もうすっかり慣れてしまった。忘れ物って表現がしっくりくるほどに。


 いつも通り、恋人繋ぎをする。

 指を絡めると、折れてしまうんじゃないかと不安になる。細くて脆い、女の子の指。ほんの少しだけ震えていて、それが雫らしいように思える。


 恋人繋ぎだと、雫の胸が少しだけ当たる。

 その感覚だけはやっぱり慣れなくて、してはならない妄想をしそうになる。


 そういうのはダメだ。

 彼氏と彼女の関係は、そういうんじゃないはずだから。

 “関係”を逸脱する行為をしていい“理由”が、俺には見つけられないから。


「先輩?」

「ん……どうした?」

「いえ。なんだか難しそうな顔をしていたので」


 まぁいつものことですけどねー。

 雫はそんな風に笑い飛ばすと、すぐに話題を変えた。


「それで。どこ寄りましょっか」

「そうだなぁ……あんまりがっつり遊ぶ体力はないし、昼とか食べに行くか?」

「んー」


 空いている方の手を顎に添えて雫は考え始める。


 月に数回の土曜授業の日は、決まって正午頃に終わる。フルタイムで授業をするほどカリキュラムに余裕がないわけじゃないらしい。

 そういうわけで、土曜授業の後の生徒の動きは大体三パターンに別れる。


 まずは昼飯を食べて部活に行くパターン。八雲は今日、そうだった。

 次に、普通に直帰するパターン。いつもの俺はそうだ。

 そして最後に、外で昼食を摂って遊びに行くパターン。


 最後のパターンになるほど、がっつり遊びに行く体力はない。

 だからどこか一軒寄るくらいで帰るつもりなのだが……雫はどうなんだろう。


 暫く待って、雫は思いついたことを口にした。


「そーゆうことなら、カレーパン食べに行きません?」

「カレーパン?」


 予想外の提案だった。

 はてと首を傾げると、雫が付け足すように言う。


「自由が丘にあるじゃないですか、カレーパン屋さん」

「あー、あそこな」

「あそこ行きたいです! ついでに本屋さんとかもぶらぶらして帰りましょうよ」

「なるほど」


 ここからなら電車で数分の距離。

 行くのも帰るのもさほど時間や手間がかからない、見事な案だった。雫が流石すぎて俺の立つ瀬がないまである。


「そうだな。じゃあそこ行くか」

「はい! レッツゴー、です」

「うん、手をぶんぶんさせないでね? 肩外れそうになるから」


 折れたりする様子なんてちっともない手をぎゅっと握って。

 俺は駅に向かった。



 ◇



 土曜日ということもあり、自由が丘は人が多かった。

 しかも今は昼時。

 俺たちが行こうとしていたカレーパン屋は元々それなりに人気の店なので、売切れる可能性もあるわけで。


「……一つしか買えませんでしたね」

「まぁ、一つ買えただけでもよかっただろ」


 俺たちが買った一つのカレーパンを以て、売切札が顔を出してしまった。次のものが出来上がるまでは三十分ほどかかるらしい。それまで待つのは流石に忍びないので、店の前から遊歩道に移動する。


「さて、と。じゃあ半分にします?」

「それが妥当だろうな。雫が一人で食ってもいいけど」

「むぅ。それだと私が食いしん坊な子みたいじゃないですか!」


 雫はむくれて文句を言う。

 ついこの前俺の何倍ものメニューを一人で平らげてた食いしん坊な奴を思い出して、くつくつと笑う。

 ベンチに座ると、雫はカレーパンを渡してきた。


「半分こに切ったらカレーが出てきちゃいそうですし、先輩が先に食べてください」

「お、おう。悪いな」

「いえいえ。やっぱり高校生たるもの、上下関係は意識しないといけないですからね」

「その台詞が雫の口から出てくることに驚きだよ。先輩として敬われた経験がほとんどない」

「ひどいなぁ~。敬ってますよぉ」

「わざとらしい……まぁいいけど」


 雫に敬われても気色悪い。きっとこれくらいの距離感がちょうどいいのだ。

 そう結論付けた俺は、カレーパンに意識を移す。ここのカレーパンは中身が出てきやすいので丁寧に食べなくちゃいけない。雫に渡すときにぐちゃぐちゃで食欲が失せるようじゃ気が引けるからな。


 はむっ、と噛むと、モチモチとサクサクが併存しているような触感が口の先から伝わってくる。

 食べ進めるとチーズカレーが口の中に広がって、これが本当に美味い。別に色んなところのカレーパンを食っているわけじゃないが、ここのカレーパンは結構美味い方だと思う。


「ふふっ。先輩、美味しいですかー?」

「ん、あぁ。結構美味い。まだ熱いしな」

「おー、それはよかったです。あ、垂れそうですよ」

「ほんとだ。サンキュー」


 がぶりと零れそうになっていたところを丸ごと食べて、カレーパンの角度を調整する。

 これなら垂れることもあるまい。

 大体半分ほど食べたので、俺は雫にカレーパンを返した。


「ほれ、あと半分」

「あ、どもです。って、前から思ってましたけど先輩って食べるの早いですよね」

「否定はしない。早食いってわけじゃないんだが、癖でな」


 一緒に食べる誰かを待たせちゃいけない、とか。

 給食を一人で食べていたから自然と早くなった、とか。

 色々と理由はあるが、俺と澪は雫に比べると食べるのが早い。もちろんゆっくり食べることもできるが、誰かにペースを合わせることに苦痛を感じるタイプなのだと思う。


 難儀な性格だよな、と苦笑する。

 まぁだからなんだという話だけど。


「あっ……ねぇ先輩」

「なんだ? 食ってるときにふざけると、マジで制服汚れるぞ」

「それはそーなんですけど」


 でもでも、と笑う雫の顔は、それはもうTHE小悪魔って感じだった。

 我が意を得たとばかりに勝ち誇った彼女は、チョコレートみたいな声で囁く。


「これって間接ちゅー、ですよね」

「……っ。今更そんなこと気にするか?」

「とか言いつつ、お耳が赤い先輩なのでした。ちゃんちゃんっ」

「勝手に終わらせてんじゃねぇよ!」


 耳が赤くなったりとかしてないから。いやなんだか耳っつーか頬のあたりが火照ってる気はするけど、気のせいでしょ、うんうん。

 大体、間接キス如きで――と思って、そこで気付く。


 多分俺は、間接キス云々に反応しているわけじゃない。

 間接キスのことを『間接ちゅー』と言った雫に、そしてそのときの唇の形にドギマギしてしまっているのだ。


 うっわぁ~、なんだそれ……。

 我ながらキモい! フェチズムが変態的! これだから二次元で性癖をこじらせた奴はダメなんだよなッ!


 そういう色んな感情を全部込めて、こほん、と咳払い。

 そして俺は指を雫のおでこまで持っていき、


「痛っ」


 デコピンをした。


「今度こそドメバイじゃないですかね、先輩」

「彼氏をからかうからだ。そんなこと言ってると――あ゛」

「どうしたんですか……あっ」


 ぽとん、とカレーパンの中身が零れおちてしまう。

 真っ白なワイシャツへと。


「「…………」」


 沈黙。

 さっきまでのカップルらしい雰囲気はどこへやら、俺と雫は苦い笑みを浮かべていた。


「あー。落ちなかったら俺もやるわ。洗濯は得意だし」

「ですね。私もちょっと反省したのでさっさと食べます」


 カレーパン、カレーうどん、カレーライス。

 カレーと名の付く食べ物は細心の注意を払わなきゃいけないなって思いました。

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