二章#31 先輩との話(破)2
SIDE:大河
「モモ先輩……一つ、聞いてもいいですか?」
二人三脚を終え、百瀬先輩が返ってきた。
ついさっき三年生の先輩やクラスメイトに囲まれていたせいか、髪は少しぼさぼさだ。ハチマキの位置もズレていて、いつもなら『だらしないですね』とでも笑ったことだろう。
今の私にはそんな余裕はなかった。
心臓がどうしようもなく冷えている。
何かを間違えたのではないか。そんな思いが重々しく胸の奥に沈殿していた。
「トラブルでも起きたか?」
「いえ。そっちの話ではないです」
――俺の補佐って形で生徒会の助っ人をしてみないか?
私を補佐に誘ってきたときのことを思い出す。
私はあのとき、百瀬先輩に頼まれたのだ。
――今月中に約束を守るつもりだ。だから……逃げないように監視しててくれないか?
あの約束の裏に滲ませていた『監視していてほしい』という思いを、百瀬先輩ははっきりと口にした。
だから私は補佐になった。
もちろん生徒会に興味があった、というのも大きいのだけど。
「今そっちの話を聞かれても答えられることはないんだけどな。安心してくれ。今日の後夜祭で答えを出す」
「――っ! 答えられることがないかどうかを決めるのは、私の質問を聞いてからにしてください。それともモモ先輩は私が何を言おうとしているのか分かるんですか?」
なぜと思うほど口がスルスルと動く。
百瀬先輩は目を見開き、分かったよ、と頷いた。
「それもそうだな。俺が頼んだわけだし……まずは妹子の話を聞く。なぁ悪い。ちょっと俺と入江は用事ができたから出てくる」
本部にいた生徒会の人に声をかけてから、私と百瀬先輩はその場を後にした。
人に聞かれていい話だとは思えないし、当然だろう。じゃあ第三者の私はなんなのか、という話だが。
ずんずんと進み、一度校舎に入り。
私たちはすぐ近くの教室に足を踏み入れた。当然のように誰もいないけれど、黒板には『体育祭勝つぞ』と大きく書かれている。
それで、と先輩が振り向いた。
「聞きたいことって言うのはなんだ? 一応言っとくけど、雫より先に妹子に答えを伝えるつもりはないぞ」
「もちろんです。雫ちゃんへの答えは雫ちゃんにだけ伝えるべきですから」
私の頭の中ではもう、筋書きができていた。
体育祭を経て雫ちゃんに近づく勇気を持った百瀬先輩が、雫ちゃんに告白をする。
二人は結ばれ、私は雫ちゃんからそのことを教えてもらう。
だから百瀬先輩から答えを聞くつもりなんかない。でもはっきりさせなければならないことがある。
「私が聞きたいのは雫ちゃんのお姉さんのことです」
百瀬先輩は首を傾げた。
訳が分からなそう……というか本当によく分からないのだろう。雫ちゃんのお姉さんと私はほとんど繋がりがないし、三股疑惑を口にした日以外には雫ちゃんのお姉さんについて話したこともなかった。
「モモ先輩は――雫ちゃんのお姉さんと付き合っているんですか?」
百瀬先輩が私と約束をした日。
百瀬先輩は雫ちゃんのことしか口にしなかった。だから霧崎先輩と雫のお姉さんとは、恋愛関係が一切ないのだと思っていた。
百瀬先輩と雫ちゃんの、二人きりの恋物語。
これはきっとそういうものなのだと、私は勘違いをしていた。
「綾辻と俺が? 前も言っただろ。俺が綾辻に好かれるような男だと思うか?」
「そのときに私も言いましたよ。恋はつり合うか否かで決まるものではない、と」
「…………」
「第一、雫ちゃんはモモ先輩に好意を抱いています。お姉さんと遜色ない容姿の雫ちゃんが、です。これが何よりの証拠じゃないですか」
本当はこんなこと聞くべきじゃない。
もしもYESと答えられたら、私は間接的に雫ちゃんへの答えを聞いてしまうことになる。
それでも聞かなきゃ、ダメなんだ。
雫ちゃんを守るために。
百瀬先輩が間違えないために。
どうして、と百瀬先輩は言った。
「どうしてそう思うんだよ。二人三脚をしてたからか? けど別にあの競技はカップルがやらなきゃいけないなんてルールはないぞ。体が触れ合うのは事実だけど、それだけでコロッと惚れてラブコメになるほど世の中甘くない」
「そんなことは百々承知しています。ですが百瀬先輩と雫ちゃんのお姉さんは息ぴったりでした」
「息ぴったりだから恋人同士だって? そんなことあるわけないだろ。兄妹とか友達とか、そういう関係でも息が合うことはある。たまたま俺と綾辻の歩調があったのかもしれないしな」
その通りだった。
たかが二人三脚で『付き合っている』などと宣うなんて、どう考えても大げさだ。そんなことは分かってる。
でも――
「それは詭弁ですよ、モモ先輩。あんなに愛おしそうに、大切そうに雫ちゃんのお姉さんに触れておいて、一般論なんて持ってこられても納得できません。二人が付き合っていないとしても、モモ先輩の心には雫ちゃんのお姉さんがいる。それは紛れもない事実じゃないですか?」
「なっ――」
二人三脚のロープを結ぶとき、肩に手を回すとき、走っているとき、ゴールしてから止まるとき、結果が出て二人で喜んでいるとき――。
百瀬先輩は、雫ちゃんのお姉さんを大切そうにしていた。
まるで妹や娘であるかのように。
見ているように言われた私だからこそ分かる。
二人は息ぴったりだったんじゃない。雫ちゃんのお姉さんの無茶に、さも当然の如く百瀬先輩が合わせていたのだ。
そして。
雫ちゃんのお姉さんも、百瀬先輩がそうしてくれることを分かったうえで最大限の無茶をしていた。
あんなの、生まれてからずっと一緒にいる兄妹か、これから先ずっと一緒にいる恋人同士じゃないとありえない。
百瀬先輩は、ふぅ、と吐き捨てるように息を零していた。
その呼気が熱いのか、冷たいのか。それを確かめることは私にはできない。
「二人はお付き合いしているんですか? もしそうなら、どうして雫ちゃんへの答えを迷っていたんですか?」
それとも、と息を吸ってから続けた。
「百瀬先輩の片想いですか? もしそうなら今日雫ちゃんに答えを告げるのはやめるべきです。断るにしろ受け入れるにしろ、もっとたくさん考えてあげてください。片想いにきっちりとケリがつくまで」
ずん、と百瀬先輩に一歩近づく。
何様のつもりかと問われたら、無様だって自覚しているよ、とでも答えるしかない。
百瀬先輩と視線がぶつかる。
百瀬先輩は何を思っているんだろう?
確かめるのが怖くて、掌にじんわりと汗が滲む。
パンパンっと校庭でピストルの音が鳴った。
二人三脚の次は玉入れ、その後が大繩でその次が長距離走。私もそろそろ準備しなくちゃいけない。
「答えるよ」
百瀬先輩は近くにあった机の天板に触れた。
その表情は柔らかくて、どこか嬉しそうにも見える。
「俺は綾辻と付き合ってないし、恋心も抱いてない。正直に話しちゃうけど、分からないんだよ。恋とか愛とか、そういうの」
でもさ、と百瀬先輩が笑う。
「雫への答えは、ちゃんと雫と向き合って出した。そこに綾辻は関係ない。二人三脚のあれは……ああすれば勝てるって思ったからやったんだよ。雫に言われたからな。雄姿を見たいって」
「そんなの――ッ」
嘘だ、と言いたかった。
一概に嘘だとは言えないかもしれないけど、言っていない真実がある。言うことのできる事実で真実を包み込んでいるだけだ。
なのに声が出なかった。
この期に及んで、足が竦んだのだ。
怖くなった。
ここから先に進めば、もう引き返せない。
百瀬先輩の逆鱗に触れるか、それとも心の弱い部分に土足で踏み入ってしまうか。
いずれにせよ勇気がいる。
私の立場を鑑みたら、もう駄目だった。第三者でしかない私がこれ以上先に進むなんて許されない。これまでだって見逃してもらっていたようなものなのに。
「……分かりました。すみません。変な疑いをかけてしまって」
「いや。むしろ嬉しかったよ。見ていてくれてありがとう。雫に出す答えは……全部終わったら話す」
そのお礼の言葉が痛かった。
手遅れだったのではなく、そもそも手を伸ばすことが許されていないのだと気付いてしまったから。
許されていなくとも手を伸ばしたいなら、それ相応の覚悟を持っておくべきだったのに……私は手ぶらだったから。
「雫を、傷つけないでください。先輩が……傷付かないでください」
百瀬先輩が帰ってしまった後の、独りぼっちの教室で。
私はそう願うことしかできなかった。