最終章#61 本物があるならきっと
SIDE:時雨
3月は、終わりの季節だ。
12月ではなく3月が終わりだと感じるのは、きっとボクだけじゃない。4月に始まって、3月に終わる。そんな『年度』に区切られた日本人は少し奇怪に見えなくもないけれど、春に何もかもが始まると思えば、素敵に見えもする。
小さい子供にとって、世界とは家であり学校だ。
大きな世界である学校が4月に始まり3月に終わる以上、どうしたって12月よりも3月に『終わり』を感じてしまうに決まっている。
けれど――きっと、3月のそれは『終わり』というわけではない。
3月にボクらが抱くのは『さよなら』色に染まった感傷だ。
3月は、いつだって誰かとの別れに満ちている。
たとえば、美緒ちゃん。
彼女が逝く前、ボクが最後に彼女と会って話したのは3月だった。彼女の恋を否定した苦々しい記憶は、今もボクの奥底に眠っている。
たとえば、学校。
三年間過ごした学び舎とは今月でさよならだ。4月からは大学に行く。附属校なわけだから繋がりがゼロではないし、行事があれば顔を出すだろうけれど、どうしたって距離はできるはずだ。何より、ここが自分の場ではない、と実感することが大きい。
たとえば、
「感謝祭も……だいぶ形になってきたわね」
今ボクの隣にいる女の子とか。
月の光でできたカーテンみたいに靡く金髪は、人の心を惑わすほどに美しい。一度触ってみたことがあるけれど、よく手入れされていて、絹のように手触りがよかった覚えがある。なお、触ったときには本当に怒られた。
入江恵海ちゃん。
ボクの同級生で、名優で、壬生聖夜の大ファン。
彼女も同じ大学に行くし、これから先も彼女のために書くと約束した。演じさせてみせる、と。それはラノベ作家としてデビューすることが決まった今でも変わらない
けれど、高校生の彼女とはお別れになる。
「そうだねぇ。それもこれも、恵海ちゃんが頑張ってくれたからだよ」
「ふんっ、よく言うわよ。ほとんど時雨がやっていたじゃないの」
「そうだっけ?」
「惚けられるのはムカつくわね……私がやったことなんて限られてるでしょう? 時雨が持っていない人脈を使った程度だもの」
恵海ちゃんは、その表情に悔しさを滲ませながら呟く。
そういえば、一年生の頃は会長に立候補してたっけ。それならこうやって生徒会を遣れているんは意外と本望なのかもしれない。
そう思っていると、自然と頬が緩んだ。
「恵海ちゃんは負けず嫌いだなぁ……」
「別に負けず嫌いなわけじゃないわよ。勝敗なんて、そこまで重要視すべき指標じゃないもの」
「とか言っている割に、ずっとボクに勝とうとしていた気がするけどなぁ」
「うっ……ち、違うのよ。それはまた別の問題というか」
恵海ちゃんは、もにょもにょと口元を動かしながら顔を逸らす。
奇麗で可愛らしい人だ、と思う。
ボクが持っていないものを持っていて、どこまでも真っ直ぐな人。まぁ、面倒な方向に真っ直ぐなときも多いけれど。
「別の問題?」
「そういう人が聞かれたくないと思ってるって分かり切っているのに深堀する姿勢は感心しないわね」
「踏み込めないところに踏み込むのが作家という生きも――いたっ。酷い!」
ぽこん、と頭を叩かれた。
それほど強くはなかったけれど、ボクは不服さを示すように頬を膨らませた。恵海ちゃんは一瞬呆気に取られたような顔をし、はぁ、と溜息をついた。
「作家ぶって言えば何でも許されるわけじゃないの。っていうか、あなたの場合はそういうこだわりがあるノンフィクション作家じゃないでしょうに」
「む……そこまで言うならノンフィクションで書いてあげようか? 恵海ちゃんのシスコンっぷりとか」
「悪くないわね」
「悪くないんだ……」
ボケがボケとして機能しない。
苦笑するボクの一方で、恵海ちゃんは誇らしげに笑っている。シスコンであることは彼女にとって誇りらしい。彼や澪ちゃんと本質的には同じだよね、恵海ちゃんって。ボクの周りにシスコンが多すぎる問題は、ひとまず脇に置いておこう。類は友を呼ぶって言うし。
「大河への愛は揺るがないの。それくらい、時雨なら分かるでしょ?」
「それは――」
そうだね、と言えればよかった。
少し前なら永遠の愛をロマンチックに信じられていた。
愛は揺るがない、って。
不朽な『好き』の強さを信じていた。
「――どうだろうね。いつかはどうでもよくなっちゃうかもよ。それこそ、好きな人ができたときとか」
今はそうできないから。
誤魔化すような一言を告げる。自分の口をついて出た言葉がキリキリと胸を締め付けてきた。その自傷性に顔をしかめていると、恵海ちゃんは立ち止まる。
「それはないわよ」
「え……?」
振り返って見ると、恵海ちゃんは珍しく自信なさげな顔をしていた。
乙女とでも言った方がいいかもしれない。強さというベールを脱いで、自信のなさと頼りなさを重ね着しているみたいだ。
ほぅ、と吐いた息は淡く白い。
いつもなら真っ直ぐなはずの視線は、彼女らしくもなく彷徨っていた。
「恵海ちゃん、どうかした?」
外は昏く、けれど、春が近づいているから互いの表情が見えるくらいには明るい。
『誰そ彼』とも『彼は誰』とも尋ねる必要のないこの距離で、恵海ちゃんは唇を震わせながら言った。
「恵海」
「うん?」
「恵海、って呼びなさい」
「呼んでるけど?」
「っ、そうじゃなくて……『ちゃん』付けをやめなさい。鬱陶しいし、マウント合戦をするちゃちな女子みたいで業腹よ」
「それはそれで『ちゃん』付けし合ってる女の子たちに酷いんじゃないかな……」
ボクの周りにも『ちゃん』付けし合ってる子はたくさんいるし。
ただ、恵海ちゃんはそういうことが言いたいわけではないらしかった。
「私と時雨は『ちゃん』付けし合うような関係じゃないでしょ」
「なら呼び捨てし合うような関係なの?」
「…………同級生なんだから、当たり前でしょ」
長めの沈黙の後に恵海ちゃんは言った。
同級生、か。
どうだろう、と考えてみる。
「ボクのことを『時雨』って呼んでくれるのが恵海ちゃんだけだからね。ボクにはよく分かんないや」
だって、ボクは独りだった。
彼と美緒ちゃんは挑んでくれたし、今は澪ちゃんや雫ちゃんや大河ちゃんも、ボクをあまり神聖視せずに立ち向かってきてくれる。
けれど、それだけだ。
同級生には『霧崎さん』と呼ばれることが多いし、いつだって距離があった。みんなの中で笑っていても、ボクだけは特別扱いされていた。
ボクに挑んできてくれた人は誰もいなくて。
こうして肩を並べてくれる同級生なんて、初めてだった。
「『時雨』って呼ぶように言ったのはあなたでしょ……忘れたの?」
「まさか。覚えてるよ。『シグシグ』って呼んでほしかったけど、拒否されちゃったんだよね」
「言っておくけれど一生呼ばないわよ」
「ちぇっ、ケチだなぁ。減るものじゃないじゃん」
「そういう問題じゃないの。分かりなさい」
ねぇ恵海ちゃん、と彼女を見上げながら思う。
ボクが『時雨』って呼んでほしい、って。
そう思ったのは、恵海ちゃんを除いては|たった二人しかいないんだよ《彼と美緒ちゃんだけなんだよ》。
色んな都合で最初から『時雨』って呼ぶに決まってた二人を除けば……恵海ちゃんだけなんだよ。
それぐらいに、ボクは――
――ぱちんっ
ボクが考えていると、恵海ちゃんは唐突に自分の両頬を叩いた。
アニメみたいな紅葉はできてないけど……ほんのり赤い。
「えっ、恵海ちゃん? 何やってるの?」
「今のはなしよ、なし。こういう迂遠なやり方は私じゃない。みっともなくて嫌になるから忘れなさい」
「う、うん」
よく分からないけれど、忘れろと言うのなら覚えていよう。
ボクがそんなことを思って頷くと、恵海ちゃんはスゥゥと深く息を吸い、ボクをじぃと見つめた。
「一度しか言わない――なんてことは言わないけれど。何万回も言ううちの最初の一回だから、よく聞いておきなさい」
びしっとボクを指さした恵海ちゃんは、見たことがないくらいに奇麗で。
虚を突かれているボクに、
「愛してるわ、霧崎時雨。私と添い遂げなさい」
と、真っ直ぐに言った。
とくん、と何かが動く。
世界を色づけるように吹く風は、冷たくて、渇いていて、その何倍も温かく思えた。
「え……?」
「聞こえてなかったの? 愛してる、と言ったの。恋愛的な意味でね」
「え、え? なんでそんなこと……」
「なんでって、好きだからって理由以外に何があるの? 私はあなたを愛してる。恋人になりたい。添い遂げたい。けれど今ここで言わなければ、あなたは私の届かないところに行ってしまうし、私はあなたの届かない空に飛ぶ。だから言ったのよ」
「……それ、『好きだから』以外の理由じゃない?」
「そういう揚げ足を取って誤魔化そうとするってことは、動揺してくれてるのね。嬉しいわ」
「――っ」
図星だった。
動揺しないわけがない。だって、ボクは《《彼女が好き》》だから。
「だ、だって、ボクたちは女の子同士だよ?」
「それの何が悪いの? ポリアモリーって言葉を知っていたくせに、レズビアンも知らないのかしら?」
「そ、それは……そうだけど。恵海ちゃんの家は――」
「その件はいいのよ。悪い後輩が、お手本を見せてくれたから」
恵海ちゃんははっきりと言い切る。
彼たちが入江家に結婚の挨拶をしに行ったのは知っていた。けど……まさかそれが、恵海ちゃんの背中を押すとは思ってなかった。
『最後の最後まで青春を駆け抜けて、愛を知って、俺じゃまだまだ敵わないって心底思えるような物語を紡いでよ。そっちに行くか、それとも寄り添う側になるか分からないけど……いつか、時雨さんと同じ世界で戦いたいからさ』
彼は、ここまで予想していたのだろうか。
だから恵海ちゃんに感謝祭を手伝わせたのか。
だとしたら――本当に、ボクに似た悪い子に育ってしまったものだ。
「答えて、時雨。あなたは私が好き? それとも嫌い?」
「…っ、それは……」
「時雨と私なら、しがらみなんてどうとでもなる。どうせ時雨も私も普通の生き方なんでしないんですもの。他人の目なんて、意味がない。だから答えて。好きか嫌いか、ただそれだけで」
好きか、嫌いか、なんて。
そんなの問われるまでもない。
彼から恋の話を聞き、愛のカタチを知った時点で、ボクは彼女への気持ちに気付いた。
でも――
「――分からないんだよ。ボクには、愛が分からない」
「……え?」
「彼のことを好きだって思った。あの気持ちは嘘じゃないはずだった。なのにたった一か月で……《《何か特別なことがあったわけじゃないのに好きって気持ちが消えちゃったんだ》》」
これが初恋ならよかった。
最初で最後の恋だと胸を張れるなら楽だった。
けれどそうじゃないから、
「怖いんだよ、この気持ちがなくなってしまうことが。恵海ちゃんと繋がったとして、いつか好きでもなんでもなくなっちゃうかもしれない。ボクは彼と違って、誰かを愛する才能も資格もない」
ボクは踏み出せない。
踏み出す権利も、きっとない。
「……ねぇ時雨」
言い切ったボクの目を見つめたまま、恵海ちゃんは言った。
「あなたが何を読み違えたのか、分かってる?」
「えっ……?」
「私に美緒ちゃんを演じさせて、時雨は彼の恋人になって。そうして四人が望む結末に導こうとしたのに、合宿のときのようになった。それが何故だか分かっている?」
唐突なその問いに、ボクは唇を噛んだ。
それは以前、彼から聞いたことだった。
「恋や愛を美化しすぎていたからボクは読み違えた。違う?」
「違うわね。いえ、ある意味では正しくて、ある意味で間違っていると言うべきかしら」
恵海ちゃんは迷ったように呟く。
どういうこと? と首を傾けると、恵海ちゃんは答えを口にした。
「彼の《《美緒ちゃんへの想いはとっくに終わってるのよ》》」
「……?」
「彼は美緒ちゃんを好きだった。でも、今は妹としか見ていない。あの三人に上書きされたのよ」
「…………? そんなはずは――」
――ないに決まってる。
だって彼と美緒ちゃんは結ばれていた。ボクが贖罪をするまでもなく結ばれていて、その愛は死であっても分かつことはできない。
二人の愛は、絶対無敵の気持ちなんだ。
他でもない。
彼があの三人に惹かれたことこそ、その証拠なんだ。
「信じられないなら確かめてみればいいわ。あの四人なら答えてくれる」
「…っ」
結局ボクは、自分自身で答えを見つけることができない。
色んな人を引っ掻き回して、傷つけて、その果てにしかたどり着けない。銀色の妖精なんて冗談じゃない。ボクは疫病神だ。
でもこうすることしかできない。
邪知暴虐の王よりも醜悪なボクだから。
偽物か、本物か、泡沫か、永遠か。
信じることができないのなら、確かめよう。
それが彼の願いだから。
年下の男の子がかけてくれた期待だから。
「そうだね。確かめるよ。たとえあの子たちが、これで壊れてしまったとしても」




