最終章#42 居場所、いい場所、帰る場所
SIDE:友斗
「一か月間、ありがとうございました」
生徒会を早めに切り上げ、俺は霧崎家を出発する支度を整えていた。
2月14日――まさに2月中旬である今日、俺の居候生活は終わりを迎える。これは元々話していたことであり、昨日の件とは関係ないのだが……今から考えると、それも神様が仕掛けた巡り合わせだったのかもしれない。
昨日、晴季さんとは話を終えた。
エレーナさんに最後に挨拶をすると、たんぽぽみたいな笑みを返してくれる。
「またいつでも好きなときに来ていいからね。ご飯だけでも食べにおいで」
「ははは、またいずれ。晴季さんにもよろしくお伝えください」
「うん、もちろん。じゃあね」
「はい、じゃあ、また」
たった一か月しかこの家で過ごせてはいない。しかもそのうちのほとんどは、まるで逃避先のように扱ってしまい、睡眠不足と味覚障害でちっとも満喫できなかった。ここにいるのが苦しいと思ってしまったことは、何度もある。
心配もかけたし、迷惑もかけまくった。そもそも居候が始まったきっかけが俺の身勝手な考えなのだから、迷惑をかけないはずがなくて。
それなのに倒れて、本来ならば必要ないはずの手間をかけてしまった。
申し訳なさはいっぱいある。
けれどそれよりも遥かにたくさんの『ありがとう』があって、胸から溢れそうだった。
たくさん面倒を見てもらった。どこにでもある家族の日常に混ぜてもらった。家族とは何かを教えてもらい、仕事をするうえで大切なことも教えてもらった。霧崎家で居候したからこそ、ああして父さんと話せたのかもしれないわけで。
「ありがとうございました」
再度、一か月を過ごした家に告げる。
そうして家を出ようとしていると、ねぇ、と後ろから声をかけられた。
振り向けば、時雨さんがコートを羽織っていた。
「ちょうどコンビニに行こうと思ってたし、ボクも行くよ」
「そっか。了解」
時雨さんとは話したいこともあった。時雨さんの方から声をかけてくれるのであれば、固辞する理由はない。
こくと頷き、俺は時雨さんと共に家を出る。
「行ってきます」
時雨さんがそう口にしたのを聞いて、ここは時雨さんの家なんだな、と実感した。
朝走っているときにも思ったことだ。
家には生活が息づいていて、誰かの居場所になっている。それは寝食を済ませるためだけの場所って意味なのかもしれないけれど、それでもやっぱり、居場所なのだ。
とこ、とこ、とこ。
ぱこん、とっこん、ぱっこん。
二人分の足音は、静かな町で思いのほか響いた。
銀髪の妖精みたいなこの人は、紛れもなく俺の従姉で、ただの人で。
ただ俺には見えない世界が見えているのなら、従弟として、きちんと話をしたいと思っていた。
「ねぇ時雨さん」
「なにかな?」
「俺は母さんの死を悲しめてない、って思ってた。家族の死を悲しむこともできないダメな奴で、家族のことを知りもしない冷たい奴だ、って」
「……うん」
でもね、となるべく優しい響きになるよう気を付けて、続ける。
「多分、そうじゃなかった。俺は母さんの死をしっかり受け止めて……けど、母さんが残してくれた色んな温もりを、感じてたんだと思う」
「うん」
「だから俺はあの二人と一緒に暮らし始めるまで、台所に立とうとしなかった。心の中ではずっと母さんに甘えたくて、でも甘えることは許されないって分かってて、意地を張ってたんだ」
全ては、結果論だ。
今だから言える話だし、今俺が持っている世界観に従って思い返してみたからこそ言える話でしかない。真実がどうなのかは、自分にだって分かりはしない。
「家族のカタチは、多分、よく分からない。けど家族の温もりも大切さも素敵さも分かってるつもりで……だから、俺はあの子たちと家族になるよ」
「そっか」
時雨さんはここまで俺を導いてくれた恩人だ。
やり方の善悪を問うつもりはない。俺はその立場にないし、あの三人だって責めるつもりはないらしかった。
さやさやと風が吹く。
時雨さんは髪を耳にかけると、ほぅ、と息を漏らした。
「キミも作家、目指すんだってね」
「編集者も諦めたわけじゃないし、今のところは『物語に関わりたい』って抽象的な夢になっただけだけどね。晴季さんから聞いたんだ?」
「ちょっとね。……あのノートのこと、すっかり忘れてたよ。覚えてさえいたら、キミをもっと正しく導いてあげられたのになぁ」
たはは、と後悔の滲んだ笑い方をする時雨さん。
俺は言葉を探しながら、あのさ、と告げる。
「あのノートのことを時雨さんが忘れていたのは、きっと俺のためだったと思うんだよ」
「えっと、どういうことかな?」
「俺はあの物語を書くことで美緒を救えた気がして……それで、作家を目指したい、って思った。でも……他でもない俺が美緒を苦しめて、最後には美緒を失った。だからあのノートを忘れなきゃ、俺は色んなもので潰れてたと思うんだ」
無力感とか、罪悪感とか、そういうもので潰れていた。
その結果、美緒が教えてくれた物語の匂いすら、俺は忘れてしまっていたかもしれない。物語に触れることすら怖くなって、閉じこもっていた可能性は十二分にある。
「だから俺は忘れたかった。時雨さんは忘れてくれて……代わりに、俺と美緒の夢を継いでくれた。それだけの話だと俺は思う」
「そっ…か」
時雨さんは俯き、靴より僅か先を見つめていた。
冬が凪いでいる。
ボクは、と時雨さんはひそやかに呟いた。
「結局、キミを導いてあげられなかったね。示した答えは、キミには不充分で。生き方も、夢も、覚悟も、全部キミとあの子たちで見つけた。ボクは最後の最後までキミたちを邪魔しただけだったよ」
「そんなことは――」
「ない、なんて言わないで。ボクは自覚してるんだ。霧崎時雨は読み違えた。ただ分からないのは、何を読み違えたのか、ってこと。あの子たちの覚悟なのか、キミの覚悟なのか、それとも他の何かなのか……ボクはそれが分からない」
きっと、と思う。
俺と時雨さんは、どこかおかしい。
俺がそうであったように、時雨さんの中にも口にするのも憚られる業がある。ならば、背中を押してもらった俺が言うべきことは決まっている。
「簡単な話だよ。時雨さんは、恋も愛も知らなかった。あくまで物語に描かれているものでしかないから、ずっと美化してたんだ」
恋も愛も、そんな綺麗なものじゃない。
醜くて、気持ち悪くて、認めたくなくて。
そういうのを全部含めて、それでも世界で一番素敵な魔法だと言い張れる。
それぐらい無茶苦茶な感情が、恋や愛なのだと俺は思う。
「ねぇ時雨さん。最後のお願い、聞いてもらってもいいかな」
「……そういえば、まだ一つだけ残っていたね。ボクにできることなら、何でも聞くよ」
時雨さんが立ち止まる。
儚い淡雪のようなその表情を見て、うん、と俺は頷いた。
この物語を締めくくるのなら、全てをハッピーエンドに染めるのなら、俺たち四人が幸せになるだけじゃまだ足りない。
それじゃあ俺は、満足できない。
だから、
「感謝祭。霧崎時雨の全力を以て、成功させてほしい」
俺は無理難題を告げる。
時雨さんが忙しいことは百も承知で、それでもやってくれと希う。
「最後の最後まで青春を駆け抜けて、愛を知って、俺じゃまだまだ敵わないって心底思えるような物語を紡いでよ。そっちに行くか、それとも寄り添う側になるか分からないけど……いつか、時雨さんと同じ世界で戦いたいからさ」
時雨さんは、僅かに目を細め、ふっと吐息を漏らした。
素敵で不敵で詩的に笑って、時雨さんは頷く。
「キミのお願い、聞くよ。今度はボクの全力で足掻いてみる。だからキミも逃げないでね。まだ終わってはないんだから」
「もちろん」
時雨さんが差し出してきた手を、俺は握った。
冷たいその手を温めるのは俺の役割じゃないから、一握りだけして、手を放した。
「じゃあ俺はあっちだから」
「うん、またね。明日からはお互いに頑張ろう。修羅場が続くんだろうしね」
「ほんとそれ」
俺と時雨さんが行く道は、同じようで全く違う。
けれどいつかは交差するし、同じ場所で一緒に休むことだってあるだろう。
だって俺たちは従姉弟なのだから。
俺は俺で、帰るべき場所へ帰る。
それだけの話である。
◇
「久々、でもないのか……」
時雨さんと別れて暫く。
俺は百瀬家を見上げていた。
表札の『百瀬』の字を見れば感慨深くなるけれど、考えてみればそれほど久々なわけではない。合宿の前に荷物を取りに来たのだから、せいぜい一週間弱ぶりってところだ。
それでもそこはかとなく懐かしいのは、ここが帰るべき場所だと分かっているから。
いずれはここではないどこかに行くのだろう。
いつまでもここにいるわけにはいかない。大人になって、一人で生きて、その上で四人で生きていくのだから。
しかし、それまではここにいる。
大人になるまでは、子供をちゃんとやっていこう。
「よし…入るか」
ビビる必要はどこにもない。
こんこん、と一応ノックをしてから、ドアノブを捻った。
玄関に入ると同時に、三人分の足音が聞こえる。
「おかえりなさいっ、友斗せーんぱいっ♪」
と元気に雫が言い、
「おかえり、友斗」
といつも通りに澪が呟いて、
「おかえりなさい。ユウ先輩」
と礼儀正しく大河が出迎えてくれる。
ったく、うっかり泣きそうになったじゃねぇか。そういうのに弱いの、三人とも知ってるだろ……?
こきゅっと息を呑みこんで、言った。
「ただいま」




