最終章#35 バレンタインイベント②
SIDE:友斗
広めの調理室では、甘い匂いがふあふあと漂っている。
まさにバレンタインデーって感じだ。いやまぁ、当日は明日なんだけどな。このイベントの参加者は思いのほか少ない。キャパが小さめな調理室でも余裕を持てる人数だ。その辺りも、主催するうえできちんと計算しているのであろう。
このバレンタインイベントは、あくまで本命チョコを渡したい生徒への応援が本来の目的となっている。
そのため、作るお菓子もかなり簡単だ。
……いや、俺は作ったことないし、簡単とか言うのはあれなんだけどね?
予め生徒会側が用意したクッキーの生地を参加者に配り、色々と用意してある型抜きで好きな形に変えさせる。
それが終われば一度焼き、焼き終わったらチョコペンでデコレーションをして、ラッピングとメッセージカードを隣の準備室で用意し、すぐにでも渡せるように準備をする。
蓋を開けてみれば割と中身が薄く、やることの少ないイベントだ。
が、別にやることが多ければいいということではなかろう。勇気が出なかったり、料理ができなかったりする生徒の背中を押し、本命チョコを渡しやすい空気を作る。そういう意味では、実施内容以上に意外と意義のあるイベントだ。
などと、女子に混ざって説明を受けながら分析してみる俺でした。
いやね? 大河に啖呵を切って参加したはいいものの、女子に混ざると地味に居心地が悪いんですよ。ここにいるのは本命がいる女子ばかりなので俺に恋愛目的で話しかけてきたりはしないが、「なんでお前が?」みたいな視線が痛い。
「それで、一瀬くん。どういうつもりなのかしら?」
案内された通りにテーブルに向かおうとすると、そう呼び止められた。
振り返れば、ポンコツシスコンお姉さまこと入江先輩がいる。
険のある声に苦笑しつつ、俺はにへらっと口許を緩めた。
「どういうつもりって? 見ての通り、バレンタインイベントに参加してるんですけど。入江先輩の方こそ、渡したい誰かがいるんですか?」
「っ、ち、違うわよ! 私は大河に呼ばれて雑用をしてるの。誰かさんの代わりにね」
「へぇ……料理できないのに雑用できるんですか?」
「大丈夫。その誰かさんもお菓子作りは未経験らしいから、料理スキル皆無でもできる雑用を任される予定だったの」
「さいですか」
えっへん、と何故か誇らしげに胸を張る入江先輩。
何一つ誇らしいことがない上に、明らかに渡したい誰かがいるであろう反応をしているのだけど、あえてツッコむのはやめておく。めっちゃ怒られそうだし。
「というか、私の質問の意味を分かっててはぐらかしているでしょう? そういうの、どうかと思うのだけれど?」
「色んな解釈ができる質問をする入江先輩が悪いんじゃないですかね」
あっそう、と肩を竦めると、入江先輩は溜息の後に尋ね直す。
「それなら聞き方を変えるわ。今朝からの一件はどういうつもり?」
へぇ、そうくるか。
俺が想定した以上に上手くいってるみたいだな。やっぱりイメチェンの効果は大きかったらしい。
俺はニターっとピエロのように笑い、眼鏡の位置を直してから答える。
「どういうつもりも何も……俺、生まれてこの方、あまり人に期待されたことがないんですよ。だから期待されたからには応えたいなぁ、と思いまして」
「はぁ……?」
「ま、そういうことなんで。とりあえず俺は行きます」
あいにくと、今説明するつもりはない。
だってそもそも、説明できることがほとんどないのだ。
ほとんどのことが未定で、けれど、決まっていることは絶対に変えられない大切なものばかりなのだから。
入江先輩と別れた俺は、お目当てのテーブルに向かう。
幾つもあるテーブルそれぞれには生徒会が用意したスタッフがいて、色々とレクチャーをしてくれるらしい。生徒会と有志数名、それからお菓子研究会のOGが配置されている。
俺が向かったテーブルにいるのは、
「…………」
「…………」
澪だった。
澪は俺を見遣ると一瞬だけ顔をしかめ、すぐに全体に向けて仮面を取り付けた。
がらりと雰囲気が変わるのは何度見ても流石だ。
「えっと、今日は来てくれてありがとうございます。手元に生地がない人はいますか?」
言って、澪は説明を始める。
と言っても俺たちがやるのは型抜き程度だ。説明は少ない。
テーブルに用意された型を自由に使っていいこと、終わったものは各自シートに並べること、自分のものがどれか分かるように指定のエリアにきちんと並べることなどが説明される。
流石は澪。業務上のやり取りはお手の物なようで、恙なくこなしていた。何だか中学校の頃を思い出す。傍若無人な振る舞いに慣れていたけどな。
「――と、以上で説明は終わりです。焼く時間を計算して……10分で終わるようにしてください。タイマー、置いておきますね」
澪の合図で、同じテーブルの他のメンバーが作業を始める。
どの子もかなり真剣だ。
型選びから余念がない。ハートは攻めすぎか……?とか、色々と思案している。10分もかからないだろと思っていたが、そうでもないかもしれない。
「《《百瀬》》も早くやらないと終わらないよ」
ぼーっと眺めていると、澪が俺に声をかけてきた。
但し、案の定と言うべきか、あからさまに壁を感じる呼び方だったのだけれども。
「百瀬、なんて呼ばれるのは久々だな。それじゃあ自称してることにならないか?」
「なんのことか分からないなぁ。それよりも早く手を動かしなよ。クッキーを渡したい相手がいるんでしょ」
「その上っ面な喋り方、似合わない上に気持ち悪いな」
「…………うっさい」
澪がギロリと睨みつけてくる。
ぼそりと呟いた声は刺々しいのに弱々しくもある。
部屋に漂う甘い香りが台無しになりそうな作り笑顔だった。
「ま、バイト先に身内が来たら対応に困るもんな。それと同じだと思えばなんてことないか」
「……百瀬がそれを言うわけ?」
「言うね、言う言う。つーか、仮面剥がれるの速すぎじゃね? 被ったまま話すんなら、最後まで徹しろよ」
「っ、性悪」
辛辣な毒を吐くと、澪はぷいっとそっぽを向いた。
胸に手を当てて、ふぅ、と深呼吸をしたかと思うと、澪は人形みたいに笑う。
「《《百瀬くん》》、早くやりなよ。やる気がないなら生徒会長に言うけど?」
「そうくるか……分かった、やるよ、やるやる。元々そのつもりだしな」
そのムキになる感じも可愛いんだよなぁ……。
なーんて、こんなことを思っているとかバレたらぶん殴られそうだけどさ。でも可愛いんだからしょうがないじゃん?
んんっ、と喉を鳴らし、型を色々と手に取ってみる。
「なぁ澪。狐の型とかってないか?」
「……そこになければないと思うよ」
「そりゃそうか。じゃあここにある型の中だとどれが好きだ?」
「…………なんで私に聞くのかな?」
「なんでだと思う?」
澪と視線がぶつかる。
探るようなその瞳に期待の色が見えているのは、俺がそうあってほしいと願っているからなのか、それとも――。
伝えない言葉は山ほどある。
でも言葉とは、単なる音と意味の組み合わせではない。
歴史が、文脈が、言葉の意味を変える。言葉を知らないのなら、ありあわせの言葉で足りないのなら言葉以上の意味を言葉に込める状況に持ち込むしかない。
だから今は何も言わない。
澪との視線の交差は一瞬のうちにほどけた。澪が逃げたのだ。
「ハートとかじゃない?」
「ハートがご所望、と」
「ハートなら絵とかも描きやすいと思うよ。それに好きな人にあげるなら、普段できない恥ずかしいことをするくらいがちょうどいいんじゃないかな」
澪は俺だけじゃなくて他のメンバーにも聞こえるような声で告げる。
こくこく、と女性陣が感銘を受けたように頷いた。
上滑りする会話に鈍い痛みを感じつつ、俺は俺で型に手を伸ばす。
この生地なら……六枚分ほどは作れるだろうか。やっぱりハートは欠かせないな。三枚分のハートをくり抜いて、残りの三枚をどうしようか、と考えてみる
自然と頬が緩んで。
お菓子作りも悪くないな、と思った。




