最終章#28 百瀬友斗は考える。
SIDE:友斗
合宿から帰ってきて。
それでも俺は、変わらぬ日々を送っていた。
あの三人を遠ざけてから続いた毎日のように魘され続けることはなく、味覚を失うこともなく、それどころか毎朝のランニングの量を少し増やせるくらいには健康的だった。
我ながら、笑ってしまいそうになる。
あの三人を泣かせておきながら、傷つけておきながら、今の俺はこんなにもいつも通りの俺で在れている。
身勝手すぎて、まるでピエロじゃないか。
けれども――今もなお、あの子たちが握ってくれた手が温もりを覚えている。
俺のことを心底心配してくれたあの子たちの優しさを、想いを、熱がきちんと覚えている。
もう心配をかけるわけにはいかない。
そも、下手の考え休むに似たり、とも言う。
笑う門に福来る、とまでポジティブにはなれないが、自分を追い詰めて考えたところで何の意味もないだろう。
だから苦しむふりなんてするな。
傷ついてるふりなんてするな。
たとえそれがふりでないのだとしても、今は蹲っているよりもすべきことがある。
これまでに、何度も考えてきた。
そうして考え出した結論が生んだのが今回の結果だ。
雫は泣き、澪は怒り、大河は哀しみ、そして俺は三人と決裂した。
では、俺はこの後どうすればいい?
あと何日かすれば、否が応でも俺は百瀬家に戻ることになる。居候を延長するつもりはない。これ以上迷惑をかけるわけにはいかないし、父さんとした約束を裏切るわけにもいかない。
家に戻れば、雫と澪とは元通りだろう。
そういえば雫に言ったことがあったっけ。
『もしも俺と雫が結ばれない未来に行きつくとしても、俺たちは家族なんだからさ。そのときは義兄として、傍にいてやる』
家族のカタチも定かではないくせによく言えたものだ。
これもまた、酷いアイロニー。
皮肉ばかりが俺の日常には満ちている。
しかし、間違いではない。
俺たちは家族。雫と澪とは家族でいられる。
なら――大河を選べば、丸く済んだのか?
『一人ぼっちじゃなくて、四人ぼっちになろうぜ。得意だろ、数を嵩増しするの』
大河だけが一人だった。
家族ではないし、出会ってからの日数も浅い。夏までに俺が犯した過ちに関わっていたわけでもなく、紛れもない途中参加だった。
そういえば、名作青春ラブコメには必ずと言っていいほど途中参加するヒロインがいる。
二大ヒロインと主人公。
三者の閉塞した関係に疑問を呈するような、強烈なスパイスとなるヒロインだ。
その少女は必ずと言っていいほど物語を大きく動かすし、死ぬほど魅力的だし、強い存在感があるけれど、絶対に主人公とは結ばれない。
何故か?
途中参加だからだ。
既に始まり、固まってしまった関係。
幾らその一部になろうとも、三者の間には入れずに終わる。
これが青春ラブコメなら、大河はそんなヒロインなのかもしれない。
ならばこそ、真の意味で大河と四人になる選択をすれば――というのは、浅はかな考えだろう。
そもそも、澪に指摘されていたではないか。
俺が雫を選んだのは、それが一番丸く収まると思ったから。最も長く一緒にし、澪や大河と繋いだ雫を選べば、一番四人で一緒に居られる可能性が高いと思った。
よくあるだろう?
メインヒロインを選んだ後も、選ばなかったヒロインとみんなで大団円を迎えられる展開。ああなれるかも、って思ってた。選択を遅延した先の停滞ではなく、選択をした後のアフターストーリーに辿り着けるんじゃないか、と、
しかし、今考えてみればその考えこそ間違いだったのかもしれない。
いいや、待て。
間違いを正し、精査するのであれば、考えるべきところが違う。
俺は、どうして『ハーレムエンド』を拒んだのか。
そこから、再度検証しなくてはならない。
理由は三つ。
第一に、あの子たちが『ハーレムエンド』を真に望んでいるとは思えなかったから。当たり前だろ? 『ハーレムエンド』を望む女の子がどこにいる? そんなの妄想の世界の女の子だけだ。
第二に、『ハーレムエンド』はあの子たちを確実に傷つけるから。だって一緒にいるには“理由”が要る。世界と隔絶して生きていくことなどできない以上、その選択は彼女たちを傷つけるに決まっている。それも今だけの傷ではない。一緒にいる限り、永遠に傷つき続けることになる。
第三に、『ハーレムエンド』の末の四人の関係が変わりようのない本物だと証明できないから。今は三人が好きなだけで、いつか、また別の誰かを好きになってしまうかもしれない。俺はそんなつもりはないけれど、それを言ったら、三人を好きになるつもりだってなかった。
だから俺は、『ハーレムエンド』を望んではならない。
欲しがること自体が、許されてはいけない。
「本当に、そうなのか……?」
前提が違えば、何もかもが変わる。
俺が“関係”を通して誰かと関わるのをやめたとき、世界が変わって見えたみたいに。
『好き』だと自覚してからあの三人を見る度にドキドキしてしょうがなかったように。
真の意味で望んでいないのであれば、あの三人はどうしてあんなことをした?
雫は、俺の告白を断った。
澪は、俺の決断を詰った。
大河は、謝意を口にした。
『ハーレムエンド』を望まずに、あそこまでするか?
するかもしれない。だってあの子たちは、俺のことを分かりすぎている。俺の望みを見透かし、応えてくれようとする。俺の決断に憂いがあることを察し、あの子たちは――いや、待て。
俺たちは《《分かり合ってないんじゃないのか》》?
だって俺は『ハーレムエンド』を望む以上に、あの子たちが傷つかないことを望んでいる。『ハーレムエンド』と誰かを選ぶことを天秤にかけ、後者を選ぶくらいには望んでいるのだ。
ならもしも俺の望みに応えてくれるのであれば。
そんな都合のいい女の子たちであるのならば。
『ハーレムエンド』ではなく、もっといいやり方を模索してくれるのではないだろうか。誰かが俺と付き合い、他の二人も傍にいる。そんなやり方があるはずだ。
「なら、本当に?」
本当にあの三人は『ハーレムエンド』を望んでいたっていうのか?
こんな俺を好きでいてくれて、しかも『ハーレムエンド』まで望んでくれる。そんな都合のよすぎる女の子が三人もいるって?
そんなのありえな――
――ぶるるるっ
刹那、ベッドに放っていたスマホが振動した。
RINEかと思って画面を見て、苦笑する。
「なんだ、ただのリマインダーか」
リマインダーアプリの通知だった。
通知の内容は、以下の通り。
【進路希望調査:提出間近。余裕をもって提出すること】
そういえばそうだった。
まだ締切には日があるが、ギリギリで出すのはどうにも気持ちが悪い。早々に提出するつもりだったのだ。
「このまま考えて続けてもしょうがないか」
提出物を放置したままでは集中できまい。
どうせ明日、明後日と休みは続く。週明けまでは猶予があるのだし、今はすぐに消化できるタスクを片付けてしまおう。
そう思って鞄を確認してみたのだが、
「あれ?」
ない。
いつもプリントはファイルに挟んでいるはずなのに見当たらない。鞄にも、机の上にも……あれ、マジでないんだけど。でも学校に置いてきたはずはないんだよなぁ。前に晴季さんとこの件について話したとき、一回取り出して――あっ。
そういえばあの後、部屋にこもろうとしたらエレーナさんが寂しそうな顔をするので、リビングで書くことにしたんだった。結局、なんだか照れ臭かったのと言葉が思いつかなかったのとが相まって書けなかったんだけど。
「じゃあリビングに置きっぱなしか」
我ながらうっかりしている。
が、そんな風に『うっかり』をできているのは、きっとこの家が心地いいからなのだろう。もうすっかり、ここも俺の居場所になっている。だから気を抜けたんだ。
「あの、エレーナさん。ここに――って、あれ、いない」
「ん、おお、友斗くん。エレーナなら時雨と買い物に行ったよ。どうしても足りないものがあるらしくてね」
「あっ、そうなんですか」
リビングに向かうと、ソファーに晴季さんが腰かけていた。
声を掛けてくれたら荷物持ちくらいしたのに……。
俺は苦笑しつつ、テーブルの辺りを漁る。エレーナさんにプリントを見なかったか聞こうと思っていたが、いないのであれば自分で探すしかない。
俺がキョロキョロしていると、ん? と晴季さんが首を傾げた。
「友斗くん、何か探し物かい?」
「あっ、えっと……前に進路希望調査を書かなきゃ、って話したじゃないですか。あれ、提出日が近いのでそろそろ書こうと思って」
「あぁ、それか」
うんうん、と頷くと、晴季さんは席を立った。
え、なんで立つんだ?
ちょっと待ってて、と言い残し、晴季さんは何故か自分の部屋に戻る。ぽかーんと立ち尽くしたまま暫く待っていると、晴季さんは何かを持って戻ってきた。
「これ、前に置きっぱなしなのを見かけてね。汚れたり失くしたりしてはいけないと思って僕が持っていたんだよ」
「は、はあ……?」
それなら見かけたときに言ってくれればよかったのでは?
はてと首を傾げる俺に、晴季さんはにこりと笑った。
「それともう一つ。友斗くんに渡したいものがあってね」
「渡したいもの、ですか?」
「ああ。最近ずっと探していてね。これを渡す前に進路希望調査を書かれてしまうのは困るから預かっていた、というのもあるんだよ」
「なる、ほど……?」
イマイチ言っていることが分からない。
戸惑う俺に、晴季さんは一冊のノートを渡してきた。
小学校高学年が使うような、マスが小さめの方眼ノート。その表紙には何かが書かれているようだったが、水性マジックだったのだろう。もう消えてしまっている。
「えっと。これは?」
「覚えてないかな。友斗くんが小学四年生の夏休みに僕に見せてくれたんだよ」
「え……?」
まったく記憶がない。
小四の夏の記憶といえば、海に行ったことくらいだ。めちゃくちゃに可愛くて、楽しくて。あれが最後の夏だった。
受け取り、ノートを開いてみる。
それは――間違いなく俺の字だった。
「君が書いたお話だよ。まあどう見ても拙いお話だけど……時雨と美緒ちゃんと三人で回し読みしていた。それで、僕が編集者だってことを知った君がぜひ読んでほしい、って言ったんだよ。小説家になりたいから、って」
「えっ、いや、そんなこと――」
なかったはずだ、と言い切れなかった。
言われてみれば、そんなことをしたような気がする。だってこのノートには見覚えがあるんだ。
パックで買うと赤青緑黄の四色しかなくて。
でも俺が一番好きな色は紫だったから、母さんにねだってちょっと割高なこのノートを買ってもらった。美緒が呆れてたのとか、よく覚えてる。
どうして、忘れてたんだ……? 美緒とのことを忘れるはずがないのに。
「覚えてないのも無理はないと思うよ。時雨も覚えていなかったしね。……その次の春に、美緒ちゃんはいなくなってしまって、君も孝文も変わった。だから覚えている余裕がなかったんじゃないかな。僕も、返していいものか迷っているうちにすっかり忘れてしまっていたしね」
「そうですね。確かに、あのときは余裕がなかったです」
それでも忘れるはずがない。
俺が美緒のことを忘れるはずがないのだ。なのにどうして?
疑問は尽きないけれど、晴季さんに問うてもしょうがない。口にすべき問いは他にある。
「でも、どうしてこれを?」
「あぁ、うん。この前はつい僕の仕事に聞かれたものだから語りすぎてしまってね……そのせいで、聞こうと思っていたことを忘れていたんだ。それを、改めて聞こうと思って」
「聞こうと思っていたこと、ですか」
うん、と肯って、晴季さんが聞いてくる。
「君は物語と関わる仕事がしたいと言っていたけれど……本当に編集者でいいのかい?」
「えっ?」
「編集者が悪いとは言わない。斜陽産業だなんだと言われているけれど、僕はこの仕事が大好きだし、君が本気で編集者に興味を持っているのも何となく伝わってくる」
「なら――」
「けどね、友斗くん。やりたいことや行きたい道が一つじゃないといけないなんてことはないと僕は思う。編集者になりたい。でもそれと同じくらい、君は作家にもなりたいんじゃないのかな?」
「……っ」
そんなことはないはずだ。
晴季さん曰く、俺はこのノートを渡したときに小説家になりたいと言ったらしい。だがそれはあくまで小四の頃の夢。
――だったらなんで、物語と関わる仕事、なんて表現にした?
「もちろん僕の勘違いならすまない。昔と今で夢が変わることなんて当たり前だしね。時雨みたいな天才が身近にいるせいで、少し考えが偏ってしまっているのかもしれない」
でも、と晴季さんは続けた。
「僕には君が作家になりたがっているように見えた。編集者になりたいのも本当だろうけれど……それは『作家になれないのなら』って但し書きがついているんじゃないかな」
「…………」
「作家なんて現実的じゃないからね。それでも物語には関わっていたい。だから編集者を目指す。それは間違いじゃない。夢なんてそんなものだ。でも…………目指す先も夢も一つだったらよくて複数だったらよくない、なんてルールはない、と僕は思う。だってそもそも、就職が始まったら希望職種だけを選んでいるわけにはいかなくなるんだから」
それだけだよ。
晴季さんはそう言うと、ソファーに戻る。テレビでは、まるで狙ったかのように若くして成功した天才児の特集がやっていた。
なんだよ、それ。
作家になりたい、だなんて。そんなこと、思ったことないだろ? つーか、今は将来の夢なんかで迷ってる場合じゃない。もっともっと考えることがあって――
『だから誰かを救うのは、俺じゃなくていい。ただ俺は物語を届けるのを手伝いたい』
だったら俺はどうして文化祭のとき。
『八面鏡の白雪姫』にあれだけ想いを詰め込んだんだ? これでもかってくらいにメッセージを込めて、澪に伝わりますようにって祈った? 伝わらないことがもどかしくて、悔しくて、それでも届いたときに嬉しかったのはどうしてだよ。
たった一枚の、未来への紙飛行機。
そこに書くと決まっていた文字さえ、俺には分からなくなってしまった。




