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最終章#26 斯くて、エンドロールは終わる。

 SIDE:友斗


 灼けるような頬の痛みは、シクシク軋む心痛よりもずっとマシだった。

 消毒液が染みたところで、胸に巣食う醜い毒を殺してはくれない。優しい手つきで手当をしてくれる女の子の眼を正視するのが怖くてしょうがなかった。



『――澪先輩っ! 何やってるんですか!』


 不毛な言葉と暴力を交わしていた俺たちのもとに駆けつけたのは、大河だった。

 けれど、澪は大河が来てもなお、その矛を収めようとはしなかった。


『邪魔すんな。今、この臆病者をぶん殴ってるんだから、さっさと出ていけ』

『何を言ってるんですか! 暴力を振るうなんて、絶対にダメです。早くその手を放してください』

『っ、《《大河》》こそ何を言ってるのッ?! 雫の顔、見たでしょ? 友斗の腑抜けた顔、見えるでしょ?』

『それは、そうですけど……っ』


 澪の言葉に、大河が苦しそうに唇を噛んだ。

 俺の顔を一瞥し、それから何かを思い出すように目を瞑り、それでも、と自身の胸を息苦しそうに押さえながら叫んだ。


『それでも、暴力はダメです。伝えるべきは、言葉じゃないですか』

『言葉程度で伝わるなら、もうとっくに伝えてる! 私たちのことが言葉なんかで伝わるなら……言葉なんかにできるなら、こんなに苦しいはずないでしょッ?!」


 ギュ、と俺を掴む力には今までにないくらいの力がこもっていて。

 爪が食い込むのを感じていると、大河は言った。


『それでも! 私は澪先輩にだって、傷ついてほしくないんです。雫ちゃんにもユウ先輩にも傷ついてほしくないですけど……私は澪先輩が傷つくところも、見たくありません』


 大河のその言葉を以てしてもなお、澪は止まろうとしなかった。

 そんな彼女を止めるべく、大河の後ろから入江先輩と時雨さんが現れて。


『離してッ! これは私と友斗のケンカなんだ! 誰にも邪魔させない!』


 そう叫んで暴れる澪を、入江先輩と時雨さんと晴彦の三人がかりで何とか押さえて。

 それでも押さえきれないところに大志が駆けつけて、四人がかりでようやく女子の部屋まで連れていくことができて。


 そして――



 俺と大河だけが部屋に残った。


「ユウ先輩、手当て終わりました」

「……ぁ。ありがとう」

「ぃぃぇ。澪先輩を止めることができなかった私にも非があります。ユウ先輩は、被害者ですよ」

「っ」


 被害者。

 その言葉が、胸に疼痛となって響く。

 ズキズキ、ズキズキ。口の中の傷よりも、頬に残る痛みよりも、いつまで経っても頭に残る澪の言葉たちの方がよっぽど辛かった。


「違う。悪いのは俺だよ。澪は悪くない……そうだ。俺のことはもういいからさ。頼むから、このことが問題にならないように根回しをしにいってくれねぇかな?」


 合宿での暴力事件。

 言葉にすればそうなってしまうし、俺が被害者で澪が加害者なのかもしれないけれど。

 そんなのは第三者の考えでしかなくて。

 だから澪に罰が下るのは――


「必要ありませんよ」

「なっ、どうして? 大河だって分かるだろ? 澪は何も悪くないんだ。澪を庇ってるとか、俺が自己犠牲に浸りたいとか、そういうことじゃなくてさ。マジで俺は悪くねぇんだよ」


 澪は言っていた。

 これはケンカだ、と。俺と澪のケンカなのだ、と。

 文化祭のとき、ケンカしてやろうと思って駆けつけたくせに、結局まともにケンカできなかったのを思い出す。

 澪はあのときのことを覚えていたのかもしれない。

 だからケンカを売ることで。

 俺を好きな綾辻澪ではなく、俺と|セックスまでする大親友セックスフレンドの綾辻澪として、俺に叫んだのだろう。


 なら澪が加害者なんてこと、ありえない。

 俺は殴らなかっただけだ。

 酷い言葉を、行動を、嫌というほどしてしまっている。


「はぁ」


 と、大河は溜息を吐いて続けた。


「色々と言いたいことはありますが……それは、まず置いておいて。澪先輩はユウ先輩のそういうところを分かっていたんだと思いますよ」

「え?」

「問題になって自分に罰が下れば、ユウ先輩が傷ついてしまう。そう分かっていたのか、それとも単なる自己保身か……まぁ、多くの人は後者だと思ってしまうのかもしれないですが。澪先輩はあれだけ怒っていても、用意周到に根回しをしていたようです」


 根回し……?

 上手く呑み込めずに首を捻ると、大河は呆れたような、けれど哀しそうな顔で教えてくれる。


「先生を遠ざけて、隣り合っている部屋の生徒が外に出ているように誘導して……おかげで、私たち以外は澪先輩がやったことを知らないままです」

「そっ、か……」

「もちろん、ユウ先輩が望むのであればきちんと報告します。そうすべきだとも思います」

「やめてくれ。もし問題にされても、俺は『何もなかった』って言い切る。だから俺たちだけの話にしてくれ」


 かっこつけて赦してるわけじゃない。

 俺が耐えられない。きっと潰れて、おかしくなってしまう。

 ただそれだけなんだ。


「……そう言うと、思いました。だから黙っておきます」

「助かる」

「ぃぃぇ」


 消え入りそうに、大河は言った。

 大河と目が合ってしまう。

 奇麗な瞳だ。そこの映る俺はどこまでも不恰好で、みっともなくて、醜い。


「…………」

「…………」

「…………」

「…………」


 静寂が、部屋を蓋する。

 かはっ、と喉奥から息が零れた。俺は顔をしかめつつ、呟く。


「帰れよ。いつまでも男子の部屋にいたらまずいだろ?」

「消灯時間にはまだ遠いですよ。それに、女子が男子部屋に来る分には規則上問題ではないんです」

「男女平等の欠片もねぇな……」

「平等なんて、ありませんから」


 大河のその一言が、嫌に多義的に聞こえてしまった。

 平等なんてない。

 時間だけは平等に流れていると信じたい。けれど、その時間さえ幸せなときとそうでないときで流れる速さが違うような気がする。なら、平等なんてないのだろうか?

 正しさなんて、ないのだろうか?


「でも帰るべきだろ。澪とか……雫とか。一緒にいてやるべき相手がいるだろうが」

「二人には、みんながいます」

「それはそうかもしれないけどさ。みんながいたって、大切な人がいなかったらしょうがないだろ?」

「――っ、それをユウ先輩が言うんですか?」


 かひゅっ、と空気が通った。

 辛辣で、痛烈で、泣きたいくらいに正しい言葉だった。


「他の誰がいても、ユウ先輩がいなきゃダメだ、って。四人でいなきゃ意味がない、って。私たちはそう思ってるんですよ?」

「っ、だってそれは」


 願ってはならないもの。

 酷く歪で、許されないもの。

 否、許されないのではない。許されては《《いけない》》のだ。


「想像はしたんだよ。四人でいて、幸せになる未来」

「……はい」

「三股には変わりないからな。俺が最低なのは当然で。それでも、それを我慢して四人でいられるなら……三人のことを好きでいられるなら、最高だと思う」

「なら――」

「でも、ダメなんだよ。その最低を受け入れることはできたとしても、それ以上のことは許容できない。許してくれる三人に返せるものがない。ただ依存するだけの偽物になる」


 だってさ、と俺は続ける。


「俺が最低なのはいい。三股をかける覚悟だってある。現実的にどうか、なんてどうだっていい。けど…………三人は、どうなるんだよ? 三人は、《《三股をかけられてる女》》になる。そういう目で見られるようになる。祝福してくれる人は当然少なくて、世界を敵に回す可能性だってある」


 ――世界を敵に回しても君を守る。


 そんなの、当たり前だ。

 けれど、俺は世界を君たちの敵にしたくない。君たちは愛されるべきだから。それくらい、素敵な存在だから。


「それでも四人で幸せに、なんて。そんなのできるわけがないんだよ。正しくない。紛いものだ。俺は三人にあげられるものがないし、三人を安心させてやれない。今は信じてもらえても、いつか、何年か先に不安にさせてしまうかもしれない。そんな不安定な偽物を、許せるわけがないんだよ」


 だって、どこにも証拠がない。

 ずっと前から三人を好きだったとしても。

 その想いがどれだけ強かったとしても。

 初恋じゃないこの気持ちが、人生で最後の気持ちになるって証明する方法がどこにもない。


 返せるものも、証明する方法もなくて。

 この気持ちを、関係を、本物にするための大事なピースが見当たらないから。


 だから俺は最低には、なれない。

 だから俺は最低にしかなれない。


「……ユウ先輩」


 大河はそう俺の名前を呼ぶと、歯痒そうに唇を引き結んだ。

 そして、迷いながら言ってくる。


「雫ちゃんは、最低です」

「っ……いや、そんなことは――」

「ありますよ。ユウ先輩がもがいて苦しんで選んだのに、わがままを言って突き放したんですから、最低に決まってます」


 その言葉が大河を自傷することは彼女の顔を見なくたって分かった。

 やめろ、と。

 そう告げるより先に大河は強く言い切る。


「澪先輩も、最低です。暴力なんて絶対にしちゃいけないことです。ユウ先輩の傷を分かっているなら、尚更殴るべきじゃなかった。言葉にすべきでした」

「だから、それも違うって――」

「それから、私も最低です。本当は、澪先輩を止められなかったんじゃなくて、止めなかったんです。澪先輩なら変えられるかもしれない。私たちを守ってくれるかもしれない。そう期待してたんです」


 あえて、大河の顔を窺えば。

 その儚さに、哀に満ちた千切れるような表情に、息を呑まずにはいられなくなった。


「私たちは最低です。ユウ先輩と話そうとしませんでした。『好き』を免罪符にして、ユウ先輩のことを全部分かっているって思い上がってました。勝手に『ハーレムエンド』だなんて盛り上がって、『ハーレムエンド』じゃなきゃダメだとか言って、勝手に苦しんで、勝手に起き上がって……ユウ先輩のことを何も考えていない、わがままで最低な子供でした」

「ちがっ、違うだろ、それは」

「違いませんよ、事実です。ユウ先輩も分かっているはずですし……私たちだって、自覚があります。私たちは最低の女で、他の誰かと結ばれることなんて許されるはずがないどうしようもない女たちで……だからこそ、私たちをたくさん傷つけてくれたあなたと……誰よりも最低なユウ先輩とお似合いなんだ、って。そう思ってました」


 待ってくれ、と思った。

 違う、そういうことが言いたかったんじゃない。

 違うんだ。そうじゃなくて――


「でもユウ先輩が、変わりたいと願うなら。最低をやめて、なりたい自分で在ろうとするなら、それを邪魔するつもりはありません。一緒に堕ちて、なんて依存じみたことは言いません。言いたくありません」


 エンドロールすらも、終わりかけている。

 あと少し。

 もう少しで、何もかもが終わってしまう。

 けれどももう、俺が紡げる言葉はなかった。言葉遊びで誤魔化すことすらできず、黙って大河の言葉を聞くことしかできない。

 大河は、席を立って言った。


「けれど私たちは、あなたに傷つけてほしかった。あなたから貰う傷なら嬉しくて、愛おしくて、心地よかったから――だから、今まで、ごめんなさい。勝手に最低だなんて言って、期待して、傷つけて、甘えて……ごめんなさい」


 ごめんなさい、と。

 もう一度大河は告げて、頭を下げて、部屋を出ていった。

 がらんどうな部屋に、俺一人が残される。


「…っぐ、ぅっ、くそっ……」


 月が見えなければよかった。

 星が見えなければよかった。

 世界を見なければよかった。

 君を知らなければよかった。

 恋を知らなければよかった。


 ――俺が主人公でなければ、よかった。


 それだけで、よかったのに。

 神様もヒーローも、その願いを叶えてはくれなかった。

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