最終章#25 一番の大親友とのケンカ
SIDE:友斗
何度も、何度も、振り返る。
振り返っても真っ白で、既に深い霧に呑み込まれているのだと自覚しているけれど、それでも振り返る以外にやり方を知らないから。
振り返って、顧みて、何を間違えたのかと血眼になって考える。
そうして思考が軋むほど痛んだところで、ようやく認める。
端から間違っていたのだ、と。
俺は故意に間違えた。
正しい答えがあると知りながら、それを選ぶことを拒んだ。だってそうだろう? その答えは、正しく見えているだけにすぎない。俺の最低さを、気持ち悪さをどこまでも受け入れてくれる彼女らが、誤答を正答に替えてくれているだけなのだ。
赤い糸は既に絡まり、ぐちゃぐちゃになり、ほどくことなんてできない。
だったら一度、チョキンと切ってしまうしかないじゃないか。
三本のうちの二本を切って、残り一本を守る。
それが誰もがやってる正しいやり方だろ……?
「……ぁ゛」
雫はあの後、弱々しい足取りでテラスを去った。
あれだけ危うい様子の雫に肩を貸すのが当たり前のはずなのに、もう俺にその資格がないことが分かってしまったから、ただ見送ることしかできなかった。
引き止めることも、できなかった。
寒空の下。
届かなかった言葉と叶わなかったあえかな願いを引きずって、俺は蹲っていた。
けれどそんな風に「自分は不幸だ」「可哀想だ」と叫ぶような態度が許されるはずがないから、どうにか部屋まで逃げてきた。
そうしてベッドに倒れ込んで、けれど、眠ることなんてできるわけがなくて。
だから、チープな「どうしたらよかったんだ?」って問いだけを繰り返して、天井を見上げていた。
「ははっ」
天井にぽかんと浮かぶ蛍光灯。
手を伸ばしても届くわけがなく、触れるために体を起こしたところで意味がないことを知っている。
ならどうすればよかった?
俺は一体、どうすればよかったんだよ……っ。
――キィィ
そのとき、部屋の扉が開いた。
寝転んだままそちらを見遣れば、見馴染んだ姿がある。
「たっだいま~……って、あれ、友斗? もう寝てんのか?」
「んぁ……ぃゃ」
声は掠れてないし、喉は枯れてない。
なのに声が不安定なのは、体に力が入らないからだ。
そうやってまた「助けてくれ」と口にすることすらなく、助けてもらおうとしているからだった。
「……なんか、あったのか?」
晴彦の真剣な問いに、心臓を掴まれたような気分になった。
何でもない、と即座に知らん顔をしようとして、やめる。
晴彦は俺を叱ってくれた。だからこそ俺は選ぶ決断をできたのだ。ならば、その結果も話すのが筋だろう。
「選んできた」
「それって――」
「雫を選んだ。澪と大河を選ばなかった」
雫の悲痛な号哭が、頭に残響する。
吐き出しそうになるのを抑えていると、そっか、と晴彦は呟いた。
「頑張ったんだな」
「っ…ぅぐ、ぁあ。俺、頑張ったよ」
「そっか。そっか」
「でも、ダメだった。届かなかった」
「え?」
嗚咽を漏らす自分の口を、無理やりに手で押さえた。
唇を噛んで、その痛みの分だけ彼女たちを愛しているんだと実感する。
けど――愛程度で何かを変えることなんて、できない。
晴彦に続きを話そうとした、その刹那。
――ドンドンドン
どこか怒りがこもったようなノック音が響いた。
「俺、行くわ」
「悪ぃ」
「気にすんなって。友斗は頑張ったんだ。今日くらい、休めよ」
どこまでも晴彦は優しくて甘い。
嗚咽交じりの『ありがとう』を呑み込んで、俺は目を瞑った。
「悪いけど、今は――って、綾辻さん?」
「友斗は?」
「へ? えっと、友斗は中だけど――」
「じゃあ、退いて。友斗に用がある」
「っ、いや、ごめん。それは無理だ。今の友斗とは会わせらんねぇ」
えっ、澪……? どうして?
頭の中にはてなマークが浮かんでいるのをよそに、二人の会話に耳を澄ませる。
「いや知らないから。退いてって言ってる」
「だから無理なんだって。今の友斗は、もう無理なんだよ。明日にしてくれ」
「は? なんで八雲くんにそんなこと言われなきゃいけないわけ? 八雲くんは友斗のなんなの?」
「一番の親友に決まってんだろ。だから俺は、苦しみながら頑張ったあいつを守る。今日は、ここは通さない」
力強く吠える澪を、晴彦はきっぱりと拒絶していた。
それは、頼もしすぎるほど頼もしい言葉。
俺なんかを守る意味はないのに……それでも、守ってくれていた。
「――んな……ふっざけんな」
「っ、ふざけてねぇよ! 今日は帰ってくれ。つーか、女子だって男子の方に来ちゃいけないはずだろ?」
「知らない。そんなの、どうだっていい。退け。退け、退け退け退け――ッ!!」
「――っっっ」
がた、と大きな音が鳴る。
どうやら晴彦が倒れたらしかった。晴彦のことを心配する間もなく、どたどたと猪の突進のようにそいつは近づいてくる。
俺に用があるんなら、寝ているわけにはいかない。
この展開は想像してなかったけれど――こういう罰が下ることは分かっていた。それが選び、捨てるということだから。
俺が体を起こすとそこには、
「どうして、雫を選んだの?」
優しい青鬼が立っていた。
「雫から聞いたのか」
「雫、泣いてた。ぐちゃぐちゃに泣いて、今までにないくらい苦しそうな顔をしてた。どうして、雫を選んだの? どうしてそんなこと、したの?」
「それは……雫に話した通りだよ。俺は雫が好きなんだ。澪と大河には、恋してない。だから雫を選んで、澪と大河を捨てた。それだけのことで――」
「そう本気で言いたいなら、ちゃんと好意を隠しきってよ。友斗の好意、ずっと前から駄々洩れなんだよ。冬星祭のときからずっと、友斗が私たちのことを好きだって、分かってるんだよ」
「な――ッ」
キィ、とベッドが軋んだ。
気付けば澪はベッドに乗り、俺の胸倉を掴んでいた。
「私たちは、選んでくれ、なんて言ってない。四人でいたい、って。そういう結末がいい、って。大切な場所で、言ったでしょ! どうしてそれを分かってくれないの……っ!」
「そんなのっ、無理に決まってんだろ…っ。四人でいるなんて、簡単じゃない。だから俺は選んだんだ」
「どうして…どうしてそうやって、友斗はっ」
澪が、拳を大きく振り上げる。
ああ、殴られるんだな。
別にそれでもいいんだ。だってそれは、選ぶという最低を犯した者に下るべき罰だから。澪を捨てた俺が当然受けるべき痛みだから。
そうして、俺が半ば反射的に目を瞑ったとき。
「待てよ、綾辻さん。それは酷すぎるだろ。友斗の気持ち、無視しすぎだろ」
親友の怒りがこもった声が、聞こえた。
目を開けば、澪の手首を晴彦が握っている。澪はギリリと晴彦を睨んだ。
「っ、放して」
「放さない。だって、殴るんだろ?」
「そうしなきゃ、こいつは目が覚めないんだ。だから私が、一発――」
「そんなの、綾辻さんの身勝手な考え方だろ!」
晴彦が手に力を込めたのだろう。澪は顔をしかめる。
澪は底冷えするような声で晴彦に言う。
「身勝手って、なに?」
「言った通りだよ。友斗は選んだ。どれも等しく大切で、選んだところで後悔するって分かってるのに選んだ。もがいて、苦しんで、悩んで、選んだんだよ。そりゃ、選ばれなかった綾辻さんは苦しいのかもしれない。でも……その怒りを友斗にぶつけんのは、身勝手すぎるだろ。そんなのは、一番の親友として絶対に許さない」
晴彦の声は、苛立ちと怒りに満ちている。
今すぐにでも破裂しそうな空気は――果たして、一瞬で破裂した。
「ざっっっけんなぁぁぁぁぁぁっ!」
それは、青鬼の雄叫び。
澪は晴彦の手を強引に振りほどくと、叫ぶ。
「たった一年、傍にいただけの奴にっ! 友斗に傷つけられたことも、友斗を傷つけたこともないくせにっ、友斗の哀しい顔も楽しい顔もとろけたようないい顔も嬉しすぎて泣きそうになってる顔も何もかも知らないくせにっ、一番の親友とか言うんじゃねぇっ!」
「はぁっ? 何を――」
「バカにすんな! 自分が選ばなかったからきた? そんなわけない! 友斗のことを好きな女として来たわけじゃない! 雫や《《大河》》を守りに来たわけでもない! 私は…っ、私は友斗の――百瀬友斗の一番の大親友として、殴りに来たんだっっ!」
ギュゥゥと胸倉が強く掴まれる。
澪は俺を一瞥してから、晴彦に言い続けた。
「一番の親友? ざけんな。ふざっっけんな! あんたみたいな奴に、一番の大親友の座は譲らない。こいつのことを信じてやれないあんたなんかには、絶ッ対に譲ってやらない」
「……っっ」
そう言い捨てると、澪は俺を見下ろすように睨む。
はぁぁぁっ、と深い溜息を途中で噛み切ると、そのまま澪は問うてきた。
「もう一度聞く。どうして、雫を選んだ? 四人でいることを選ばなかった?」
その視線は、さっきまでと違って、熱い。
火傷しそうな視線だ。
「さっきも言っただろ。四人でいるなんて無理だ。だから選んだ。雫と二人で生きていきたいって――」
――ゴヅンっっ
痛みが、鈍く頬を叩いた。
さっきとは位置の変わった澪の右拳を見て、自分が殴られたのだと気付く。
「ってぇ……なに、すんだよ」
「友斗が嘘を吐いたから殴った。雫と二人で生きていきたい? それ、どう考えても嘘じゃん。じゃあどうして私や《《大河》》じゃなくて雫を選んだ?」
「それ、はっ」
「雫を選ぶのが一番丸く収まるからじゃないの? 私とも、《《大河》》とも一緒に居られる可能性が一番高い。二人で生きたいなんて本当は思ってないんだ」
「……ぃっ」
図星だった。
一番最初に出会って、俺たち四人を繋げてくれたのは雫だったから。
雫を選べば、俺たち四人がバラバラになることは絶対にない、って。
全部が手に入るベストエンドに辿り着けるかも、って。
そんなことを考えていた。
――ゴヅンっっ
もう一発、殴られる。
痛くない、なんてことはなかった。
どうしようもなく痛い。痛くて、どうにかなりそうだった。
「四人で一緒にいたいんだろ! だったら、最低になる覚悟しろよっ! 本当に欲しいものからずっとずっと目を逸らして! 諦めるなんて一番簡単なことして逃げてるんじゃねぇぇぇッ!」
「――っ」
月までだって、絶対に届く。
そう思うくらいの咆哮だった。
……っ、んだよ、それ。冗談じゃない。なんで…どうして、そんなことを言われなきゃいけないんだッ!
「なんだよ、それ! 諦めるのが一番簡単? んなわけねぇだろ! お前は俺のことなんて、何にも分かってない! 俺がお前らをどれだけ好きか、ちっとも分かってない! 全部諦めずにいられるなら、俺だってそうしてぇよ! でも無理だろうが!!」
澪の胸倉を掴んで、ぐぅぅ、ときつく握る。
それでも殴らずにいる俺とは対照的に、澪は容赦なくゴヅンゴヅンと拳をお見舞いしてきていた。
「どうしてそこで諦めるの? 友斗は諦めてこなかった! 無茶苦茶なやり方で足掻いて、もがいて、みっともなく泣き喚いて……傷ついても前に進むのが友斗だった! だからどんなに最低なことをされても、私たちは友斗を意味が分かんないくらいに好きになった!」
「――ッ、俺がぁっ! 俺が自分可愛さで諦めたとでも言いたいのか?」
「違うわけ? 自分が最低になるのが嫌だから……だからあんたは、逃げてるんでしょ!!」
「んなわけ、ねぇだろ……!」
あぁ、そうだ。
自分が在りたい姿のために、正しい姿になりたいがために諦めていたのならどれだけ楽だったか。
その程度で済んだ夏なんて、もうとっくに俺は通り過ぎてしまっている。
届かないことのもどかしさとか、伝わらないことの苦しさとか、そういうのを八つ当たるようにして俺は、
――ゴヅっ
と、世界一愛している女の子の顔を殴ろうとして。
殴れなくて、その代わりに鼻っ面を近づけた。
「っ、殴りなよ。殴りたいんでしょ? こんだけ殴ってるんだから、そっちだって殴ればいいじゃん」
「……っ、できるわけ、ないだろうがッ。これ以上お前らを傷つけることなんて、できるわけがない」
「なにそれッ!? こんだけ、叫んでも……友斗には、届かないのッッ?!」
「それはこっちの台詞だろうが!」
ゴヅン、ゴヅン、と澪が俺を殴る。
痛い、痛くてしょうがない。
けれど、もっとどうしようもない痛みを知っている。
だから俺は、澪を睨む。
「諦めるのが簡単なわけない。四人でいる時間は、幸せだった。これ以上何も要らないって思えるくらいに幸せで、ずっとこのままならいいって思った!」
「だったら、そう願えばいい! 私が欲しがったから、美緒ちゃんと向き合えたんだ、って。そう言ったのは友斗でしょ! 今だって、おんなじ! 友斗が欲しがってさえくれれば、私たちは…っ」
「できない! あのときとは状況が違う。欲しがっていいものだけじゃねぇんだよ!」
「っ、臆病者! 欲しいものを欲しいとも言えない弱虫!」
「幾らだって言えよ! 殴れ! それで気が済むなら好きにすればいい!」
「開き直んなっ! そっちこそ言えよ! 一言言ってくれさえすれば……私たちは、それだけでいいのに」
……っ。
そんなことはできない。できるわけがない。
欲しいものをねだって、手を伸ばして、好き勝手にわがままを言える時期はもうとっくに過ぎている。
だから、だから、だから――
「――澪先輩っ! 何やってるんですか!」
そのとき。
真っ直ぐに澄んだ声が響いた。




