最終章#24 届かない恋
SIDE:友斗
苦夜は更けるのが遅く、耽ることもできないらしかった。
夕食は喉に通らず、どうしようもなくブラックコーヒーが飲みたい。
カフェイン中毒ではないだろう。暇なときにガムを噛む癖はできてしまったが、それはもっと長期スパンでついてしまったものだ。魘されていた一か月弱のカフェイン過剰摂取生活程度では、中毒にはならない。
以前、漫画のキャラが言っていた。
何かに依存できるといい。寄り掛かって生きていられる人生なんて最高じゃないか、みたいなことを。
俺は今まで、美緒を助けることに依存していた。美緒を失うと今度は誰かを助けることに依存した。
――メサイアコンプレックス
その言葉は、今もなお頭から離れない。
だからこそ、俺は夢を見つけた。
物語と関わって生きていきたい。物語を届ける手伝いがしたい。
そうして、生きる道をきちんと定めて。
後は、その道を一緒に歩く人を決めるだけ。
【ゆーと:話がしたい】
【ゆーと:テラスが開いてるからそこで待ってる】
覚悟を決めた俺は、あいつとのトーク画面にメッセージを打ち込んだ。
はぁ、と吐く息は白い。
軽く上着を羽織ってきたんだが、それでもやや冷える。現地集合してからメッセージを送るべきじゃなかったな、と苦笑した。
でもしょうがないじゃないか。この期に及んで、まだ足が竦んでしまったんだから。
「あっ、ユウ先輩」
しばし待っていると、そんな声が聞こえた。
振り向けば、大河がいる。風呂上がりなのか、頬が仄かに火照っていた。
「こんばんは。何してるんですか?」
「ん……月を見てる。今日は天気がいいおかげで、結構綺麗だぞ」
「えっ……あ、本当ですね」
大河は俺の隣に身を寄せると、天を仰いだ。
俺たちの頭上に広がるのは、果てしのない空。朝は青空なんて色を付けて呼ぶくせに、夜の空に黒空だとか紺空だとか呼ばないのは、瞬く星や月に目がいくからなんじゃないか、と思った。
「この合宿……すごく、楽しかったです」
「俺もだよ。いつも以上に騒がしかったからな」
「みんないましたから」
アンニュイな表情で外を眺めながら、大河は続ける。
「如月先輩に、花崎さんに、土井さんに。杉山くんや八雲先輩、それに霧崎先輩と姉さんもいて。唯一いなかったのは……伊藤先輩くらいでしょうか」
「あー、伊藤なら今、サークルで地獄を見てるらしいからな」
「みたいですね。雫ちゃんから色々聞きました」
「そういや、雫は伊藤のサークルに行ったって言ってたもんな」
はい、と大河は頷く。
…………書記クンもいないことを指摘しようかと迷ったが、水を差しそうなのでやめておく。書記クンと絡みがないのは事実だしな。
「ユウ先輩に昔言われた言葉、思い出しました。『友達百人より、親友五人を大事にすればいいんだよ』って」
「あー……それなぁ」
「それで、実感してました。確かにこれ、友達が少ない人の台詞だなぁ、って」
「やかましい。いや、確かにそうとも言ったけどね?」
否定できないのは事実だしね?
俺が苦笑して見せると、大河はくすくすと可笑しそうに笑った。
「友達百人すら大事にできない人に、親友五人を大事にできるわけがないですし……友達百人を大切にできない自分を、五人の親友が好きでいてくれるはずがない。そんな当たり前のことに、あの頃の私は気付いてませんでした」
「そっか」
「だから……改めて、ありがとうございました」
大河は、頭を下げずに囁くように言った。
大河にしては珍しい軽めのお礼の一言が、逆に嬉しくて、心が揺れた。
「それ、軽い皮肉だろ?」
「バレましたか?」
「当たり前だ。俺に弟子入りしたお前が一番最初に学んだのは皮肉の言い方だったしな」
「弟子入りした覚えはないですし、最初に覚えたのは仕事の仕方でしたけどね」
「あーうん、そうね」
そりゃそうだ。
俺に仕事以外のこと、教えられるわけがない。
そんな大層な人間じゃないんだ。俺にとって皮肉は、言うものではなく現実に突きつけられるものだから。
「っと……言いたいことも言えましたし、私は戻ります。冷えて誰かさんのように倒れるわけにもいきませんから」
「皮肉の応酬はやめてね? ま、ちゃんとあったまって寝ろよ」
「もちろんです。昨日は雫ちゃんと一緒の布団で寝ましたから」
「いやそれは別々に寝ろよ……」
くつくつと笑みを浮かべながら、おやすみなさい、と大河は言ってくる。
ああ、おやすみ。
俺はそう告げて、テラスを去る大河を見送った。
「……っぐ」
待ってくれ、と。
そう続けようとした己の唇を、強引に噛みしめた。
俺は、入江大河を《《引き止めない》》。
選ばないことを、決めたから。
◇
「せーんぱいっ!」
冷え冷えとしたテラス。
見上げる星の煌めきのうち、幾つが既に失われたものなのかと考えていたら、飛び跳ねる兎みたいな声が聞こえた。
振り向けば、雫がいる。
もこもこなパーカーを着て、とてとてとこちらに駆け寄ってきた。
「ちゃんと名前を呼べ、名前を。ただでさえこの合宿は先輩後輩入り乱れてるんだから」
「ん~。でもこんなところでかっこ悪くたそがれてるのなんて友斗先輩だけですしぃ。あと、友斗先輩って呼ぶと微妙に流れが悪いじゃないですか」
「人の名前を流れが悪いとか言うのやめてね?」
そういや、大河も前に百瀬と先輩で『せ』が続くのがどうたら、とか文句を言ってたな。後輩ってのは先輩の名前に文句をつけなきゃダメなのだろうか。
俺が言うと、雫はけらけらと笑い、ちょこんと俺の隣に立った。
「おぉ……結構綺麗な景色ですね。めっちゃエモいです」
「こういう景色を見て、すぐ『エモい』とか言うのは良くない傾向だぞ」
「むぅ、ワイドショーのおじさんみたいなこと言わないでくださいよぅ。エモいんだからしょうがないじゃないですか」
触れた手すりは、嫌に冷たかった。
手を離そうとするより先に、雫の手が覆いかぶさってくる。
冷たい手すりと冷え始めた掌に挟まれて、低温火傷してしまいそうだった。
雫は、うっとりとした声で続ける。
「大好きな友達とか、憧れの先輩と遊んで。女の子でしかできない秘密の話をしたり、どんな話をしてるんだろうって想像したりして、ドキドキワクワクして。その旅の終わりに、大大大好きでずっと憧れ続けた人とこんな景色を見れるんです。エモいじゃないですか」
「そ…っか。そりゃよかった」
「はいっ、よかったです。この合宿のこと、すっごく楽しみにしてたんですから」
えへへ、と雫が頬を綻ばせる。
まるで夜に咲くお日様みたいに。
んんっ、とわざとらしく咳払いをすると、雫はこつんと肘で小突いてから、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「そ・れ・で! 待ちましたか?」
「……それ、何気に久しぶりだな」
「友斗先輩を待たせる機会、なくなってましたからね」
そういえば、そうだった。
そもそも待ち合わせをすること自体、なかったように思う。雫が待ってくれているか、それとも何かをしているときに俺の手を引っ張っていくか。
雫がしたのは、そのどちらかだった。
「それでは友斗先輩。答えをどーぞっ!」
「……ったく。全然待ってないよ今来たとこ、でいいのか?」
「『でいいのか?』とか聞いちゃうあたり、めっちゃ減点です。あと、待ってるって言ったくせに今来たんだとしたらそれはそれでアウトです」
「えぇ……じゃあなんて答えればよかったんだよ」
「そんなの、何でもいいに決まってるじゃないですか。友斗先輩の声を聞けるなら、何を言われてもときめいちゃいますから」
「――っ……!?」
あまりにもズルかった。
どく、どくどく、どくどくどく――。
加速する鼓動の分だけ、体と心が軋む。血が沸騰しそうなほどの熱は、外気の冷たさを以てしても冷ますことができない。
「あ~、今照れましたよね? 超照れましたよね?」
「うっ、うっせぇ……そりゃ照れるに決まってんだろ」
「そうですかねぇー? だって友斗先輩的には、私って友達なんでしょー?」
けたけたと、からかうように雫が言う。
その笑顔の眩しさの分だけ、心が千切れてしまいそうだった。
いっそのこと、分身出来たらよかった。
俺が三人になって、それぞれの相手と結ばれることができたら――なんて、成しえない仮定だ。
だって、そんなの俺は納得しないから。
俺以外の俺が他の二人と結ばれているのを見るのは絶対に嫌だから。
それでも俺は、選ばなくてはいけない。
だから俺は綾辻雫を《《呼び出した》》。
「ごめん、雫。それは嘘なんだ」
「えっ……?」
エンドロールが流れ始める。
もう後戻りはできない
溜息をめいっぱいに吐き出して、幸せを追い出す。ハッピーエンドなんてどうでもいい。今の俺がすべきことは一つ。
「友達として好き、なんて嘘だ。俺は雫のことを一人の女性として大好きなんだよ」
終わらせることだ。
この恋を、愛に昇華して。
三人の本気の想いに、俺の本気で応える。
「っ、それって……! やっと、分かってくれ――」
「だから、俺は綾辻雫と結ばれたい。世界中の誰でもない、雫とだけ結ばれたいんだ」
即ち、綾辻雫を選ぶ、ということ。
『好き』を二つも捨てるという最低の行為をすることで、正しい形で雫と結ばれること。
それだけが俺のできることで、すべきことだから。
刹那、
「どうしてッ!? どうしてそういう話になるんですかっ?! あの二人のこと、好きじゃないんですかッ??」
雫はどうしようもなく絶叫した。
鼓膜を貫く声はどうしようもなく甘くて優しいのに、果てしもなく痛い。
ああ、分かっている。
この子が『ハーレムエンド』を望んでくれてることは、分かってる。
けれど――それは、許されることじゃないから。俺は選ばなくてはならない。
「澪のことも、大河のことも、大好きだ。魅力的な女の子だし、素敵な人間だと思う。でも雫なんだ。雫がいなきゃ……俺は、あの二人と出会ってなかった」
「……っ」
「美緒を失ってどうしようもなかったとき、雫がいてくれたから俺は俺でいられた。雫が彼女として待っていてくれたから、俺はあの夏に変われた。『好き』を真っ直ぐにぶつけてくれる雫がいなかったら、俺はとっくに折れてたんだよ」
これは詭弁だ。
ありあわせの、付け合わせの“理由”だ。
それでも口にし続ける。
修正できないほど間違えるために。
「俺がどれだけ最低なことをしても傍にいてくれる雫が好きだ。俺の近くで笑ってくれる雫が好きだ。俺がいてくれて嬉しいって言ってくれた雫が好きだ。真っ直ぐに『好き』を叫べる雫が好きだ。俺の手を引いてくれる雫が好きだ」
告げる言葉は、嘘ではない。
当たり前だ。俺の雫への『好き』には嘘など微塵もないのだから。他にも『好き』があるだけで、この『好き』が、恋だの愛だのと呼ぶ気持ちに劣るわけじゃない。
「雫の目が好きだ。雫の声が好きだ。体だって好きだ。考え方も好きだ。一緒にゲームをしてるときなんて最高だし、勉強を教える瞬間も好きだ。俺の知らない雫が増えるのは嫌だし、嫉妬だって当然する」
なぁ……っ!
どうして『好き』を叫んでるだけなのに。
好きな人に告白してるだけなのに。
こんなに寒くて、冷たくて、痛いんだよ。
「澪や大河のことが好きだって気持ちが気付かれてるのも分かってる。でも……ここでその気持ちとはさよならする。澪とは彼女の姉になって、大河とは彼女の友達になって……そういう“関係”で、これから一緒にいればいい」
なんて最低なんだろう。
それでもこれが捨てるってことなんだ。
だったら、さぁ……!
捨てる覚悟って、なんなんだよッ!
「雫が不安になるなら、暫くあの二人とは距離を取る。俺の気持ちが信じられないなら、その分だけ『好き』って叫ぶ。雫が今までしてくれたことに比べたらお返しになんてならないけど……それでも俺は、雫と生きたい」
頭なんてもう、ぐちゃぐちゃだった。
後悔しか頭にはない。最低の気分だ。吐きそうで、吐きたくて、どうしようもなくおぞましい考えばかりが頭によぎる。
それでも、これが俺の選択だから。
進むべき最低だから。
「頼む。俺と二人に、なってくれ」
24時を過ぎれば、シンデレラの魔法は解ける。
王子様がすべきことは、24時の前に愛を告げることだったんだ。離れないでくれって、懇願することだったんだ。
言い終えて、俺は雫を見つめる。
彼女の目には、雫って言葉じゃ足りないくらいに涙が溢れていた。悲痛に歪むその顔が、酷く胸を締め付ける。
「どうして……? どうしてっ…ぅぐ、そういうことになるんですかっ? あの二人のこと、好きなんですよね? だったら、どうして、そうするんですか? なんで分かってくれないんですかぁっ!」
「それでも選ぶんだよ。選びたいんだ。これは俺の、意思の問題だ。俺は雫を選びたい。ただ一つの『好き』に――」
「そんなの、嘘ですよっっ! ぜったいに、わたしはみとめない!」
雫が、俺の手を強く握る。
一歩こちらに踏み込み、涙まみれの顔で吠えた。
「ねぇ……もう一回、やりましょう? 次はお姉ちゃんと大河ちゃんも呼んで、私たち三人に愛を囁いてくださいよ。そうしたら私たち、悪態つきながら最後には『大好きです』って抱き締めますから。こんなロマンチックな場所でなら……キスくらい、してもいいですから」
「…っ、無理だ。俺は雫を選んだ。澪と大河を選ばない」
「どうして、ですかっ? 私は勝ちヒロインになりたかったわけじゃない! 幸せになりたいんです。幸せに、なってほしいんです……っ!」
「それでも、無理なんだよ。俺は雫を選んだんだ。澪と大河を選ばなかったんだ!」
これが捨てる覚悟。
取捨選択――誰もがやってる、当たり前のこと。
正しいことだから、そう在るべき姿だから。
だから俺は、言いたくなかったことさえ告げねばならない。
「今この瞬間から、俺は澪と大河を好きじゃなくなる。俺はあの二人に恋愛感情を持ってない。100%友達としての『好き』だ。俺はあの二人に、《《もう恋をしてない》》」
「な――っ!!」
雫の表情は、哀一色に染まる。
愛を叫び続けることのできるこの子が、哀でいっぱいになって――
「訂正してください! その言葉、取り消してください! 好きじゃなくなるなんて……そんなこと、言わないでください!」
「無理だ。訂正しない。取り消さない。俺はあの二人への恋を捨てた」
「ッッ、だったら、命令です。前に言いましたよね、一つ言うことを聞いてくれるって。あれを使うからっ。だからお願いだよ、先輩。そんな……っ、そんな哀しいこと、言わないでよぉッ」
ぐちゃぐちゃになったまま、雫はずっと前にした勝負の罰ゲームを持ち出してくる。
縋るように、胸を叩いて。
雫は、へなへなとその場に崩れた。
俺はそれでも、彼女の願いに応えることができない。
「無理だ。俺は捨てたんだよ、あの二人への気持ちを」
「うそですよ、それ」
「嘘じゃない」
「うそです」
「嘘じゃない」
「うそ」
「違う」
「……っ、うそつき」
違う、とはもう言えなかった。
言ったら最後、吐いてしまいそうだったから。
自己嫌悪がせりあがってきて、今すぐにでも何もかも吐いてしまいそうだった。食べたものも、思っていることも、何もかもを。
「ごめん」
言えるのは、ただそれだけ。
「ごめん」
「…………」
「ごめん」
「…………」
「ごめん、ごめん」
「…………」
雫は何も言わない。
いつの間にかその手は床に触れ、その甲には大粒の雫が何滴も零れていた。
何度も、何度も、謝って。
何滴も、何滴も、零れて。
それでも枯れない涙を拭って、雫は、掠れ掠れの声で言った。
「私は……正しいあなたの、ヒロインにはなれません。最低な私は、最低じゃないあなたのヒロインには、なれない。ごめんなさい」
それは弱々しくも、明確な拒絶だった。
それが、さよならだった。




