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最終章#19 ありがとう、さようなら

 SIDE:友斗


 部屋を出て、すぐにスマホを操作する。

 時刻は20時。消灯時刻まではまだ2時間以上あるが、これから呼び出す相手は人気者だ。すぐに部屋を出てこられるか分からない。早く呼び出すに限るだろう。

 なんて、結局は建前で。

 本当は、少しでも先延ばしにすれば「また明日」って便利な言葉で逃げてしまいそうな弱い自分がいるから、今日じゃなきゃダメなのだけれども。


【ゆーと:今から会えない?】

【ゆーと:大切な話がある】


 あの人は、文面での会話を好まない。

 しかし、既読の表示はすぐについた。まるでメッセージが来るのを見計らっていたかのように。


【rain:すぐに行くよ。カフェラウンジで待ってて】


 時雨さんの返信には迷いがなかった。

 相部屋の友達はいいのだろうか。一瞬そんな考えがよぎるけれど、それが時雨さんを心配したものではないことに気付いて、唇を噛んだ。

 そういうのはやめだ。

 ここから先は、もう逃げない。


 逃げちゃダメだ、なんていうのは間違っている。

 逃げるのは構わない。逃げなきゃどうしようもないときは山ほどあるし、逃げちゃダメなときほど逃げる以外の方法がなかったりもする。

 だから逃避を悪だと断じるのは間違いだ。


 だから、これは善悪ではなく意思の問題。

 あの夏と同じだ。

 正しいかどうかではなく、俺の意思で、俺はレールを切り替える。向かうべき最低を替え、眩しい親友と後輩の言葉に報いる。


 だって、そうできる俺で在りたいから。


 カフェラウンジには、ほとんど人がいなかった。

 何も頼まずに居座るのも申し訳ないので、カウンターでコーヒーを頼……もうとして、咄嗟にホットレモネードに切り替えた。

 カフェインの摂りすぎはよくない。

 体にも、心にも。

 あの苦さは優しさだから。

 澪や大河の優しさに縋るべきではないから。


 しばしホットレモネードに口をつけて時間を潰していると、時雨さんが現れた。明確の時間を決めていなかったのだから当たり前ではあるけれど、定時ぴったりに現れない時雨さんは久しぶりなように思える。

 時雨さんはホットココアを受け取って、俺と向き合うように座った。


「こんばんはだね、キミ」

「うん、こんばんは。髪、あげてるんだね」


 ジャブを打つように、まずは簡素なやり取りを交わす。

 今日の時雨さんは髪をお団子状にしていた。俺が指摘すると、少し照れ臭そうに笑ってから首を縦に振る。


「これ、同じ部屋の子にやってもらったんだよ。気分も変わるし、朝のヘアセットもしやすいらしいし、ちょうどいいかなって」

「そっか……確かに、雰囲気は全然違うね」

「でしょ? キミはこういうヘアスタイルがお好みかな?」

「俺は好きな子に似合う髪型なら何でもお好みだよ」

「それじゃあボクはキミに好かれてないから何をしてもお好みにはなれないね」


 冗談めかしたその一言は、核心に触れろ、と告げているかのようだった。

 レモネードの甘味と酸味を口腔内で感じながら、はぁ、と溜息をついた。元より逃げることを自分に許してはいない。

 俺が戻る先は晴彦と大志が待つ部屋だ。

 俺を叱ってくれた親友に、期待してくれた後輩に、会わせる顔を残しておかないといけない。


 だからまず、


「時雨さん。その髪、《《あの人》》にも見せた?」


 俺は、優しい嘘から暴くことにした。

 否、《《優しい嘘になってしまった元事実》》と呼ぶべきだろうか。

 時雨さんの表情がにわかに歪む。無自覚ではなかったらしい。よかった。無自覚だったらその方がどうすればいいか分からなかったからな。


「…………あの人って、誰のことかな?」

「時雨さんの好きな人、だよ」

「言わなかったかな? それはキミだよ。それとも、まだボクのことを信じてない?」

「まさか」


 俺は、ふるふるとかぶりを振る。

 時雨さんは嘘も上手い。されど、意味もない嘘も自分がつきたくない嘘もつかない。


「そこは無意識なんだね」

「……? 一体キミは、何を言ってるのかな?」

「気付いてない? 俺のこと、ずっと前から『友斗くん』じゃなくて『キミ』って呼んでる」

「…………」


 時雨さんが口を噤んだ。

 沈黙は肯定を表す、と言ってしまうのは流石に酷だろう。だから俺は、別の言葉を紡ぐ。


「最初は、意図があるんだと思った。いや……多分、意図もあったんだろうね。最初は時雨さんの中で色んな考えがあったはずだ」

「……うん」

「けれど、それだけじゃないよね」


 ふぅ、と吐息を零して。

 そっと壊さぬようにガラス細工みたいな言葉を吐き出す。


「時雨さんは俺の恋の話を聞くことで、俺への気持ちより遥かに強い想いがあることに気が付いた」

「……っ」

「時雨さんが今好きなのは、俺じゃなくてあの人。違う?」


 こんな推理に意味はない。

 だって叙述トリックも仕掛けも見当たらず、ただ俺の感覚だけで言っているのだから。

 俺が問うと、時雨さんは微かな笑みを零した。桜色に火照った頬に触れ、一番星のような泣きぼくろをきゅっと下げる。


「キミには隠し事できないんだね。悔しいなぁ……澪ちゃんたちには誤魔化せたんだけど」

「付き合いの長さが違うからね」

「言っておくけど、最初は本当にキミが好きだったよ。キミの『好き』を守るために付き合うことを決めた」

「分かってる。俺が『ハーレムエンド』を選べるように、時雨さんは色んなことを教えてくれてたよね」

「っ」


 時雨さんの目的は、俺の『好き』を永遠の片想いとして守ること――ではなかった。

 

「あの三人に頼まれた……わけじゃないのは、分かる。でも時雨さんはあの三人のことを大切に思っていた。澪と大河は言うまでもないし、雫にだって罪悪感とか尊敬とか、色々と思ってることはある」

「うん」

「だから時雨さんは、俺の背中を押すためにあえてあの三人から遠ざけた。家族が分からないだなんて言う俺に家族を教えて、恋のルーツを辿らせることであの三人への気持ちを再認識させて」

「そうだね……認めるよ。加えて言うなら、途中からはキミが『ハーレムエンド』なんて途方もない選択を取ることでボク自身にもメリットが生まれてた」

「うん、それも分かってる。だからこそ、時雨さんはあの晩、あの三人が俺の傍にいられるように口利きをしてくれた」


 ドライブ中、父さんから聞いたことだ。

 雫と澪は俺が倒れた晩、大河が面会時間を超えても傍にいられるように熱弁を振るった。けれどそれでも周囲の大人を説得するには至らなかったそうだ。

 そんな三人の代わりに話術を駆使し、無理を通したのが時雨さん。

 あの三人への贖罪の意味もあるかもしれないが、それだけじゃないだろう。


 時雨さんは、明確に俺を『ハーレムエンド』に導こうとしている。


「時雨さんには感謝してる。色んな大切なことを教わった。多分時雨さんと付き合っていなかったら、俺は早晩に潰れてたよ」

「結局、あの晩に潰れちゃったけどね」

「まぁね。けど、あの晩倒れたから今ここに居られるのかもしれない」


 俺を安眠させてくれた温もりを知っているから。

 胸が千切れるほどの思いをしながらも、俺は前に進むことを決めた。

 だから俺は言うのだ。


「時雨さん。俺と別れてほしい」

「…………」

「こんなことを言えた立場じゃないかもしれないけど、俺は時雨さん自身の『好き』も大切にしてほしい」


 時雨さんは、何も言わない。

 その微笑は月のように儚かった。


「俺はもう大丈夫。自分でどうするのか決めた。時雨さんに優しい嘘をついてもらえなくても、前に進める。進む覚悟をした」


 時雨さんは優しすぎる。だからこのまま『ハーレムエンド』へ導いてもらうわけにはいかない。

 俺は最低になる。

 時雨さんの期待を裏切って、自分の想いを切り捨てて。

 だから、


「別れてほしい」


 今一度、俺は言った。

 雪を融かすように、間違いを正すように。


「……キミはまさか――」


 時雨さんが、唇を戦慄かせる。

 瞳にこもるのは失望か、それとも別の感情か。

 けれどその先を口にはせず、そっか、と漏らした。


「ボクは……思い上がってたんだね」

「え?」

「ううん、何でもない。分かったよ。キミの望み通り、ボクはキミと別れる」


 何か、と思う。

 俺は間違えているのではないか。

 チリチリと何かが頭を焼いた。


「まぁ別れるも何も、ボクらの関係を知ってるのはごく一部だけどね」

「そうだね。恋人らしいことも、したことないし」

「キミが極上の据え膳を食らわない朴念仁だったから」

「それが結果的にプラスになってるんだからいいじゃん。俺、あの人に妬まれるのは絶対やだし」


 上滑りする会話を続け、二人でくつくつと笑う。

 俺は冷め始めたレモネードを飲み干すと、席を立った。


「じゃあ俺はここで」

「うん。また明日ね」

「おやすみ」


 食器を片し、俺は部屋に戻る。

 ふと見遣った外は酷く暗くて。

 間違いはないかと振り返っても確かめようがないほどの暗闇に包まれている俺のようだ、と思った。



 ◇



「ボクは……何もかも、読み違えてたんだね。きっと、ずっと前から……ボクはキミを勘違いしてた。あの子たちに会わせる顔がないなぁ」

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