最終章#09 ノスタルジックスパイス
SIDE:友斗
休みってやつは過ぎていくのが本当に速いもので、あっという間に半分以上が終わった。
合宿まで残り数日。
早寝早起き三食おやつ付き+早朝ランニングと、かなり理想的な『健康で文化的な最低限度の生活』を送っていた。
そんな今日。
俺は一か月ぶりの百瀬家にやってきている。
理由は単純で、合宿に必要なものを取りに来たのである。二泊三日の宿泊に必要なものを買いなおすのは勿体ないため、修学旅行で準備したものを使うことになった。
が、家まで来て約15分。
俺は未だにドアをノックすることすらできずに立ち尽くしていた。
「はぁ……ったく、我ながら情けねぇなぁ」
人生のほとんどを過ごした家なのに、たった一か月離れただけで、まるで魔王城であるかのように思えてしまう。
だって、俺は自分からこの家を出て行ったのだ。
それなのにここにきて……俺はどんな顔をすればいい?
「――って、うじうじ考えててもしょうがないか」
考えても変わらない。
逃げてばかりじゃダメなことは、もう再三痛感した。
だから、
――こんこんこん
と、ノックをする。
自らドアノブには触れない。ここは今、俺の帰る場所ではないから。
「はぁ~い」
という声の後、とたとたと軽やかな足音が聞こえる。
「あっ、友斗先輩! おかえりなさいです!」
出迎えてくれたのは、雫だった。
シャラシャラとお日様製の金平糖みたいな笑顔が眩しく、ふんありと柔らかい印象の部屋着がキュートだ。
おかえりなさい、か。
玄関で当然交わされるべき言葉が、チクチクと胸を刺す。
今はまだ、ただいま、なんて言える立場ではない。
だから、
「おう、この前ぶりだな。ちょっと邪魔するぞ」
と、告げる。
口の中に広がる苦々しい思いについ顔をしかめてしまうと、むぅぅ、と雫がむくれていた。
「ねぇねぇ友斗先輩。そんなに『ただいま』が言えなくて苦しそうな顔するなら、言っちゃ言えばいいじゃないですか。この意地っ張り」
「うぐっ……いや、そうは言ってもさ。俺にもけじめがあるというか」
「ハラキリ?」
「えぇ……もうちょっと穏便なけじめで許してくれねぇかなぁ」
言って、ぷっ、と吹き出す。
雫と共にケラケラ笑いながら、つくづく敵わねぇな、と思った。
どんなシリアスでもコメディに変えて、傍で笑ってくれる。本当にズルくて可愛い女の子だ。
「で、付き合ってもいない美少女のおうちに何のご用ですか?」
「言い方に悪意がこもってない?! っていうか、予めRINEで連絡してたよな……?」
「まぁ、そ~なんですけどね」
くつくつと肩を震わせ、どうぞ、と玄関に招き入れてくれる。
軽く頭を下げてから入り、靴を脱いで玄関に上がった。
ふあっ、と嗅ぎ慣れない香りが鼻孔をくすぐる。玄関に置かれた芳香剤を見ていると、あー、と雫が声を上げる。
「それ、この前買ったんですよ。結構いい匂いじゃありません?」
「ほーん……まぁ、いいんじゃねぇの。オサレな感じだし」
俺の知らないものが増えていることに、ちょっとだけ切なくなる。
俺はたくさん知らないことがあるのだ。
この一か月の雫たち三人のことを知らないし、そうでなくとも知らないことは山ほどある。
「じゃあ部屋に荷物取ってくるから」
「はぁーい。あ、私もお手伝いしましょうか?」
「要らん」
別に見られて困るものはないけど、今雫を部屋に入れるのは微妙にこそばゆい。
きっぱりと拒絶し、自分の部屋に向かう。
どうしよう、俺の部屋が物置き扱いされてたら。
そんな不安は、無事杞憂に終わった。ドアを開けると、出て行ったときと全く変わっていない俺の部屋が広がっている。
まぁマジで物置き扱いされてたら泣いて家出を続けるつもりだったしな。
「さてと。んじゃ、やりますか」
くだらないことを考えてばかりでもしょうがない。
さっさと荷物をまとめて出ていこうと思い、がさごそと漁る。
修学旅行のときにまとめたばかりだったので、幸いなことにやたらめったら探す必要はなかった。だいたい場所は分かっていたので、10分もあればまとめ終わる。
荷物を背負ってリビングまで降りると、芳香剤のお上品な匂いとは違う、家庭的な香りが漂ってきた。
これは……カレーか?
「友斗先輩、荷物まとめ終わりました~?」
「ん、あぁ。忘れ物もないし、帰るわ。なんか悪いな、急に来ちゃって」
「いいんですよ。ここは友斗先輩の家でもありますし……もし私の家ってだけでも、いつでも来ていいんですから」
甘い言葉を囁いてくる雫。
そういえば俺と雫がまだ先輩と後輩でしかなかった頃、幾らだって機会はあったはずなのに綾辻家には行かなかった。よく考えてみれば、受験勉強なんかは家でやった方が都合がいいときだってあったはずなのに、だ。
きっと、そのときから俺は雫のことを意識してたんだろうな。
二人で密室空間に行こうものなら、先輩と後輩の“関係”だけではいられなくなる。そんな予感があったんだと思っていたのだ。
「おーい、友斗せんぱ~い。どーしてそんなに顔が赤いんですか?」
「うぉっ……べ、別に赤くなんてなってないんだからねっ」
「どうしてツンデレ!? っていうかそういうのは私のですから! 全然可愛くない友斗先輩が小悪魔後輩のあざとツンデレアタックを奪わないでください!」
「ツッコミの方がボケ度が強いのやめてぇっ?!」
俺が完全に滑ったみたいになっちゃうだろうが。
あと、俺は顔が赤くなってはいない。ほんとだよ、ほんと。俺ってば嘘つかない。マイネームイズ正直者。
「っと、じゃあ俺はこれ――ぐへっ」
これで帰るわ、と言おうとしていた俺の襟を雫が引っ張った。
アホっぽい声を漏らしながら振り向くと、雫がくすくすしている。
「ぐへっ、だって……友斗先輩、かわいい」
「っ……」
だから、そういう呟くみたいな声で言うのはぁ……!
口許がぐにゃりと歪みそうになるのを堪え、雫を睨む。
「雫、急になんなんだ? なに、俺に恨みでもあるの?」
「違いますよぅ! ただ引き止めただけです。それとも後ろから抱き着かれたかったですか?」
「裾とか掴めよ……」
まぁ裾を摘ままれたら、それはそれでキュンってくるに決まってるんだけど。
俺が苦笑していると、雫は続けた。
「それでですね! もしよかったら、今日お昼だけでも食べていきませんか? ちょうど昨日のカレーが残ってるんですよ」
口にされた提案に、俺は渋い顔になる。
エレーナさんには今日は外で食べてくると伝えたから、食べていっても問題はない。
でも……。
「いいのか?」
「もちです。今日、お姉ちゃんが大河ちゃんと出かけちゃってるのでこのままだと一人で食べることになっちゃうんですよ。それはちょっと寂しいので」
「む……」
「それに! 大河ちゃんとラーメン食べに行ったり、お姉ちゃんと朝会ったりしてるんですよね?」
「ぶふぅぅっ!?」
吹いた。
え、あ、それ知ってんの……?
呆けていると、雫はニコニコしながら続けた。
「私のことだってちょっとは構ってくれないと拗ねちゃうんですからねっ! 私が拗ねたら怖いですよ? 伊藤先輩とかに友斗先輩のイタイ過去を暴露しちゃいますから」
「なっ、それマジでシャレにならない脅しだからなっ!? 絶対に一生ネタにされるだろ!」
伊藤→クラス→晴彦→如月、といった感じでとめどなく伝播していく気しかしない。俺が親しい奴はほとんど雫とも仲いいからなぁ……ダメだ、敵いそうにない。
「分かったよ、食ってく。ちょうど腹も減ってたしな」
「やった! じゃあ今温めてるので、先に座っててください!」
「うい」
言われた通りに、俺は席に座る。
離れてしまった『いつも』と同じ席。一年弱座り続けたその場所が、無性に懐かしい。
「ふんふんふ~♪」
雫は、上機嫌に鼻歌を歌いながらカレーを運んできた。
その横に添えられたサラダを見て、あっ、と声を漏らす。
「これって、あれか。よく小学校で出るやつ」
「ですです!」
いわゆるパリパリサラダ、ってやつだ。
細切りの春巻きの皮を揚げて、野菜と一緒にドレッシングで和えてあるだけ。よくカレーと一緒にお盆に並んでたものだ。
「カレーとパリパリサラダの日は、牛乳じゃなくてジュースだったりしたよな」
「しましたよねっ! なんか特別って感じがして、ちょっと好きでしたもん」
「分かるなぁ。けど、牛乳が好きな奴はそのときだけテンション低いんだよな」
「あー、そういえば友達にもそういう子がいました」
学年は違う俺たちだけど、小学校での記憶は少なからず共有している。
だからだろう。
懐かしくて、楽しくて、可笑しい。
「じゃ、食べましょっか」
「そうだな……いただきます」
「いただきますっ!」
二人で手を合わせて、言う。
ワンテンポ遅れた雫の声も何だか給食のときみたいに思えて、そこはかとなくエモい。
一口、二口、三口、とカレーを食べ進める。
程よい辛さと、ほとんど形がなくなったじゃがいも。おまけみたいに入っているきのこは、綾辻家特製カレーの特徴だった。
「美味いな……」
「えへへ、でしょでしょ~♪ お姉ちゃんと大河ちゃんにも好評だったんですよ」
「ほーん……昨日も大河は来てたのか」
「来てたって言うか、休みに入ってからは毎日泊まってますけどね」
「え、そうなん?」
冬休みでも何かと忙しくて泊まっていた日数は少なかったのに。
もしかして俺がいたから泊まりにくかったとかなのだろうか、と思っていると、雫が答える。
「ですです。大河ちゃんは色々頑張ってくれてますからね。お姉ちゃんがそれを手伝って、私は何もできない分、二人が無理しすぎないようにお世話する係なんです」
「なる、ほど……?」
頑張るって、そんなに何を頑張ることがあるんだ……?
やっぱり何かに困っているんだろうか――と、考えて。
俺はすぐにかぶりを振った。
自分の目標を決めたところで、己の性分はそうそう変わりはしない。誰かを助けたいと思うし、それが好きな子であれば尚更だ。
だが俺に言えることは何もない。自分で突き放しておいて助けるだのとのたまうのは傲慢知己で身勝手だ。
「――そっか。ほんと、三人は仲が良いな」
俺がいないところで、三人が幸せになってくれるならいい。
三人でいても、誰も咎めはしない。
俺がいるから四人でいられないだけで、俺さえいなければこの子たちは幸せになってくれるのだ。
俺が笑うと、雫は一瞬唇を噛んだ。
すぐに首を横に振り、たはは、と破顔する。
「まぁ、お姉ちゃんと大河ちゃんはいっつも言い争いしてるんですけどね~」
「あー。それは想像できるわ」
笑う門には、福来る。
ここはこの子たちの居場所なんだ。俺がしかめっ面のままでいたら、この子たちに福が来ないかもしれないんだから、ずっと笑っていよう。
俺は、強くそう思った。




