最終章#08 MORNING RUNNER
SIDE:友斗
「くぁぁ……さむ」
冬の早朝の寒さは、ほんとマジでシャレにならない。
そんなことを思い知る、火曜の朝。
俺は顔だけをぱしゃぱしゃと洗い、寝ぐせを隠すようなキャップを被って外に出ていた。
適当なスポーツウェアを荷物から漁って着替えてきたのがよくなかったのだろうか。
薄手のスポーツウェアでは冬の極寒を防げはしないし、むしろダイレクトアタックで百瀬死すって感じ。もはやネタ化しすぎたせいで元ネタのアニメがどんなのか分かってないオタクである。
と、そんなくだらないことを考え、寒さに顔をしかめているくせにどうして外に出ているのか。
理由は簡単である。
健康のためだ。
「ま、いいや。走ろ」
先日過労で倒れ、諸々の人に迷惑と心配をがっつりかけた俺は、ちょっと本気で自身の健康と向き合うことを決意した。
今までは軽い筋トレをするぐらいだったが、それとは別に早朝にランニングすることを決めたのである。アクティブレストってやつだな。
まぁ将来的に中年太りしたら嫌だしな。俺がかっこいいと思える自分であるためにも、今から健康的な生活習慣を整えておきたい。多忙でどうしようもないときならともかく、理由もなくダラダラするのに運動はやる気が起きないっていうかっこ悪いおっさんにはなりたくないし。
ストレッチを済ませ、俺はゆっくりと走り始める。
体力自体はそこそこにある方だ。が、急に速度を上げてもしょうがないし、たまには街並みを眺めながら悠々自適に走るのもいい。その方が精神的な健康にもよさそうだ。
ひゅぅぅぅ、と微かな風。
僅かに騒めく木々。
それらが聞き取れるほどの静けさ。
まだ温まり始めてない町の朝の匂い。
たっ、たっ、たっ、と足音が弾むと、何だか楽しくなってくる。
通りすぎる家の一つ一つには、生活がある。
家族がいて、たくさんの絆が息づいている。
あと少しすれば朝食の匂いがする家もあるだろう。トースターのチンって音とか、目玉焼きを作るじゅ~じゅ~って音とか、色んな音と香りがコケコッコーの代わりに朝を報せる。
或いは、そうではない静かな朝もあるはずだ。
去年の今頃の俺はまさにそうだったし、それは別に特別なことではない。一人でいることだって悪くはないのだ。寂しく感じなければいけないわけではない。
そうやって誰かの生活に思いを馳せながら、だんだんとペースを上げて走っていく。
俺だけが、この時間の煌めきを知っている。
大抵の人はまだ夢の中で、ぷかぷかと眠っているに違いない。
「いいな、これ」
まるで秘密の冒険みたいだった。
17歳の冬の、ちょっとだけ特別な冒険。
なーんて、こんなちょっぴり子供っぽくてかっこ悪いことを考えられていることこそ、ランニングが心に余裕を作ってくれている証左なのだろう。
暫く走り、流石に息が切れてきたので、近くの公園に立ち寄る。
百瀬家からはもちろん、霧崎家からだってそれなりに距離がある場所だ。初めて訪れる公園に言いようもないワクワク感を覚えた。
「あれ、友斗?」
蛇口で水でも飲もうと思っていたところで、すれ違ったランニングウェアの女性がそう告げた。
振り返り、俺は息を呑んだ。
別のことに気を取られていて気付かなかったが……その人は、間違いなく澪だったから。
「澪……? どうして、ここに?」
「私はランニング。朝に走ってるの、知ってるでしょ」
「え、いやまぁ知ってるけど……え? ここまで来んの?」
ついさっき、これ見よがしに百瀬家から遠いなぁって思ったばっかりなんですけど?
ってか、冗談抜きで結構距離あるよな?
俺がぼーっとしていると、澪は肩を竦めた。
「ここまでって……そんなに距離長くないよ。ランニングとしてはちょっと物足りないくらい」
「えぇ…………何その無尽蔵体力お化け。時雨さんよりよっぽどチートだろ」
「む。こんな朝早くに美少女と出会っておいて、早々に別の女の名前を出すのはどうかと思うけど?」
「っ、悪い」
ただでさえ心拍数上がってるんだから、そういう拗ねるみたいなことを言うのはやめてほしい。ドキドキしちゃうから。
っていうか、これはなんなんだ。この前の大河のときといい、ニアミスが多い気がするんだけど――って、そもそもニアミス以前に俺一人での外出が少なかったですもんね。そりゃあニアミスするわけないわ。澪の場合、同じ家に住んでたんだから尚更である。
「で、そっちは? もしかして友斗もランニング?」
「お、おう。まぁそんなところ。ちょっと本気で健康のことを考えようと思ってな」
「ふぅん。ま、いいんじゃない? また倒れられても困るしね」
言いながら、澪はぐいーっと伸びをした。
健康的なはずなのにイケナイものを見ている気分になって、視線を逸らす。
小さいとは言うし俺も知ってるけど、慎ましやかなだけで無いわけじゃないんだよな……。
「そだ。ねぇ友斗」
「な、なんだ?」
「……? なんでちょっと声が上ずってるの?」
「…………何でもない。気にするな、ちょっと息が切れてるだけだ」
「ふぅん?」
訝しげな視線を向けてきた後、まぁいっか、と澪は漏らした。
そして話を続ける。
「冬にランニングするなら、服は重ね着した方がいいよ。いきなり薄着で走り始めると体に良くないし」
「えっ、そうなのか? てっきり暑くなるまでは我慢するものなのだとばっかり……」
事実、学校の持久走とかって大抵が冬にやるのに半袖短パンで走るように言われたりするんだよな。どうせ途中で暑くなるんだから、って。
澪は、はぁ、と溜息を吐いてから言った。
「だからこそ重ね着なんだよ。厚くなったら脱げばいい。でも寒いのに薄着のままだと、色々と危険なの」
「なるほど……ああ、だから腰に巻いてんのか」
「そゆこと」
言われて気付く。
ランニングウェアの澪だが、その腰には上着が巻かれていた。長袖のランニングウェアも袖をまくってあるし、手には外したであろうネックウォーマーが握られていた。
なるほど、体温調節が肝心ってことか。
考えていると、何故か澪はえっへんと胸を張ってドヤ顔をする。
「どう? これはこれで悪くないでしょ? 着飾らないスポーツ女子って感じで」
「お前なぁ……ほんっと、そういうとこブレないよな」
「まーね。で、褒め言葉は?」
「ったく……健康的なところが逆に色っぽい。『着飾らない』を上手く着飾りすぎててズルいな」
「ん」
澪は満足そうに頬を緩めた。
満足してくれたならよかっ――じゃねぇよ! 今俺、すげぇナチュラルに褒めたよな? しかも結構恥ずかしいことを言って!
うっわぁ……ないわぁ……マジでないわぁ……このままでは恥ずか死んでしまう。
苦笑していると、澪が腰元の上着をぺろっとめくった。
一瞬ハッとしたが、すぐにウエストポーチの存在に気付く。動揺を悟られまいとしていると、はい、と澪が何かを差し出してくる。
「えっと、これは?」
「タオル。走ってるくせに、タオル一つ持ってないじゃん。汗、それで拭いていいよ」
「あっ、あぁ……マジですまん。全然考えが及ばなかったわ」
そうだよな、言われてみればタオルとか当然必要だよな。
昨晩ふと思い立ってランニングを始めてみたわけだが、もうちょっと事前に準備しておくべきだった。
掻いた汗をこのままにして風邪を引くのも困るので、俺は素直にタオルを借りて汗を拭く。
「冬でも、やっぱり走ると汗って掻くんだな」
「当たり前じゃん。だからこそ気持ちいいんだし」
「なるほどなぁ……俺も、今日その気持ちがちょっと分かったわ。ランニングも悪くない」
「へぇ、いいじゃん。今度一緒に走る?」
「ここまで走ってきてる時点で、澪と一緒に走ったら『一緒に走ろうね』とか言うくせに置き去りにされるっていうマラソン大会あるあるを回収しそうだから嫌だ」
「そのくだらないツッコミができる余力があるなら大丈夫でしょ」
「それは自分の埒外の体力を自覚してから言ってほしんだよなぁ……」
苦笑しながら、俺もぐいーっと伸びをする。
ベンチに座ろうかとも思ったが、一度座ったら億劫になる気がするのでやめた。
さんきゅ、と言ってタオルを返すと、澪はタオルに顔を埋める。
「ん……うん」
「…………」
「ん、ふふ」
「…………」
「ふふ、友斗の匂い」
「おいちょっと待てぇっ!? タオルに顔埋め始めた時点で『あれ?』とは思ったけど、やっぱりお前、匂い嗅いでたのかよ!」
完全に聞き逃せないワードを呟いた澪に対し、俺は全力でツッコんだ。
すると、澪が顔を上げて抗議の視線を向けてくる。
「うっさいなぁ。いいじゃん、これくらい。この匂い、落ち着くんだもん。ギリギリになって、友斗が私に覆いかぶさってきたときに首筋から――」
「ああそういう当時の記憶がしっかり蘇るようなエピソードトークはやめて?! 分かったから。もう匂いを嗅ぐことには文句言わないから」
「ん。あ、友斗も私の匂い――」
「嗅がねぇよ!」
いや汗の匂いはちょっと気になるけども。
けどそれ以上に、この先を話せば不健全な話になる予感がするので切り上げる。下ネタトーク、よくない。
「ま、それはさておいて。どうせ私、明日からもここで折り返すから。今後もランニング続けるなら、また話そ」
「…………そうだな。俺も、三日坊主にならないようにするつもりだし」
澪の言葉に、俺は少し迷ってから頷いた。
家を出たくせに関わりたいと思うなんて、間違ってる。
そもそも俺は三人の恋を終わらせるために距離を取ったのだ。だから本当は今も距離を取るべきだし、もっと言えば、さっき話しかけられたときに無視するべきだった。
それでも、澪たち三人のおかげで安眠できるようになったのは事実だから。
俺はこの子たちを遠ざけられない。
意志薄弱にも程があるな、ほんと。
でも――きっと、恋だけが全てじゃないから。
友達として関わることは悪ではないから。
「そんときはよろしくな、先輩」
「ん。任せとけ、後輩」
俺は、にっ、と笑った。




