最終章#06 その道を行くために
SIDE:友斗
晴季さんに説教を受けた後、エレーナさんが作ってくれた退院祝いのご飯を食べた。
どれもすっごく温かくて美味しくて、ちょっと泣きそうになった。今まで味が分かってなかったくせにヘラヘラ笑って適当な感想を言っていたことを謝りたかったけど、そんなことをすればエレーナさんに余計な心配をかけてしまうかもしれない。
だから残る半月ほど、心から感想を言おう。感謝を告げよう。逃げ足で進むこの道は、紛れもなく逃げ道だから。
「そうだ、晴季さん」
「ん、なんだい?」
「さっきの今で話すのはどうかとも思ったんですけど……実は、ちょっとお話したいことがありまして」
食事中、俺は思いついた話題を口にした。
というのも、エレーナさんが俺と晴季さんを心配そうに見てきているのだ。そもそも食事中にはそれほど話してたわけでもないんだが……まぁ、さっきから何も話してなかったし、不安になるのも無理はない。
晴季さんもそれを感じていたのか、努めて笑顔で応じてくれた。
「ちょうど今、進路希望調査を書かなきゃいけなくて」
「おお、なるほど。そういえば時雨も去年、書いてたな。確か時雨は――」
「ボクは、まだ何になりたいっていうのがあったわけじゃないから、ぼんやりと書いて済ませたんだよ、お父さん。たったあの程度の文字数ならすぐに埋まるしね」
「そうだったそうだった」
へぇ、そうだったのか。
って、それはそれでどうなんだ……? っていうか俺、この前時雨さんに色々言われたんですけど。自分が書けてなかったのに俺には色々言ったんだ……と、思いつつ。
それで、と俺は話を切り出す。
「時雨さんに相談に乗ってもらって……編集者を目指したいな、って思ったんです」
「……ほう?」
「小さい頃から、物語に触れてきて。だから物語を届ける手伝いがしたいな、って」
「なるほどね。そういえば……昔、よく三人で本を読んでいたね」
「はい」
俺の原点は、三人で過ごしたあの時間にある。
だから素直に肯った。
「それで、相談っていうのは? 流石に就職のときに口利きを、っていうのはできないよ?」
「それはもちろん、分かってます。そもそも晴季さんの信用を裏切った身で、そんなことを言えないだろうって思ってるので」
まぁだからこそ、今言うべきか疑問ではあったのだけど。
でもこの居候をただ逃げで終わらせないためにも、限りのある時間を全て実のあるものにしたいと思った。
「編集者に必要なことってなんだと思いますか?」
言うと、晴季さんが箸を箸置きに置いた。
ぱちりと数度瞬き、晴季さんは続ける。
「それは資格的なこと、じゃないよね?」
「あっ、はい。もちろん資格的なこともいずれお聞きしたとは思ってるんですけど……もうちょっと抽象的なことと言いますか」
上手く言語化できない。
すみません、と言うと、晴季さんは首を横に振った。
「いいや、言いたいことは分かるよ。とはいえ、編集者と言っても色々あるからね。雑誌や小説、実用書とか……担当することによって色々だし、そもそも希望した通りのことをできるとは限らない」
そりゃそうだ。
好きな業種につくだけでも難しいしな。現実はそうそう上手くいかない。
それでも、と晴季さんは続けてくれる。
「その上で、友斗くんが言っていたように物語を届ける手伝いがしたいって願いを叶えるのであれば……重要なことは二つだと思う」
「二つ、ですか」
「うん」
晴季さんは、こくりと頷いた。
「一つは心構えの問題だけど……才能の奴隷になる覚悟だね」
「奴隷ですか」
「うん、奴隷。作家になる人は、誰もが天才だ。もちろん努力を否定するつもりはないし、努力は絶対に要る。でもその努力も含め、物語をそこまでして書こうって思いを持てることが才能なんだよ」
「なるほど」
それは、きっとネガティブな意味合いではない。
何となく理解できるものがある。
天才って言葉は最近だと逆に努力を否定する意味でネガティブな言葉として扱われがちだし嫌う人もいるけど、俺は悪いものではないと思う。天才とか才能って言葉を使ったらその人の努力を否定することになるとか、どんだけ二項対立の世界で生きてるんだよって話だしな。
「で、編集者はその才能の奴隷にならなければいけない。……あ、天才の奴隷になるんじゃないよ。あくまで才能の奴隷。天才が才能と向き合わず惰性で書いた生み出したものには赤をつけなきゃいけない。あくまで才能の奴隷だ」
「なるほど」
「あと会社の奴隷にもなってそうだよね、お父さん。編集の人たち、みんな大変そうだったし」
「それは締切ギリギリになる作家たちが――っと、まぁ、そういう風に締切とかの問題で才能のために頭を下げるのも含めて、奴隷だよ」
なるほど、と再び心の中で呟いた。
大変そうだけど、胸に響くものもある。
「それからもう一つ。少しタメになる意味で言うと……経験も必要だろうね」
「経験っていうのは……読書量とか、人生経験とかですか?」
「それももちろんそうだし、それよりもっと分かりやすく何かをする経験もだよ。誰かとモノづくりをしたり、何か行事を成功させたり、修羅場を潜り抜ける経験はしておくといい。辛かったり大変だったりすることを乗り越える力っていうのは、まぁ生きていく上で大切だからね」
「あなた? そういうことを言うと、友斗くんがまた無茶をしちゃうかもしれないでしょう?」
「いいや……それはきっと大丈夫だよ。きちんと注意したんだから」
胸の奥で、晴季さんの言葉を咀嚼する。
特別なことではなく、むしろありふれた話だ。経験が大切だ、なんて何も知らなくても言える。
それでもグサリを胸に突き刺さるのは、俺が色んなものを乗り越えていないからなのだろう。
「まあ、そういうわけだから。僕が言った二つのものを持っていたら、何かしらの形で物語に関わっていけるんじゃないかな。それこそ編集者じゃなくてもいいんだ。ゲームプロデューサーとか、映画監督とか、色々ね」
「……そうですね。ありがとうございます。参考になりました」
「そうか。それならよかったよ」
それからは、当たり障りのない楽しい会話が続いた。
そこには紛れもなく家族があって。
俺はその瞬間、家族の一員になれたように思った。
◇
昼食を終え、夕食を終えて。
一作分だけ下読みの仕事をした俺は、お風呂から上がって眠りに就こうとしていた。流石に時間が早いので速攻で寝るほどではないが、ベッドで休んで夢の世界への招待状を待っていようかと思う。
そんな折、ドアがノックされた。
ノック音で誰なのか分かる。時雨さんだ。
「どうぞ」
「失礼するね」
部屋に入ってきた時雨さんは、いつも通りの恰好だった。
ただ違うのはその表情。
家に帰ってきたときから今まで、明らかに翳っているのだ。本来ならば俺から時雨さんのもとに向かうべきだったのだが、すっかり失念していた。何せ、エレーナさんに言われて食事中以外はずっとリビングでテレビを見てたからな。
「時雨さん……こんばんは」
「うん、こんばんは。って、こんな風に話すのも久々だね」
「だね」
結局、病院にいるときには時雨さんと顔を合わせなかった。
一度来てくれたときも寝ていたらしいし、連絡もRINEだったから。そんなもんだと思う。
父さんや晴季さんが心配するのは保護者として当然だが、俺の症状自体はそれほど重くないのだ。突き詰めてしまえば、ただの睡眠不足。やや風邪も拗らせたせいで体調が悪かったが、その程度でしかない。
「時雨さん……水曜日は、本当にごめん。マジで迷惑かけたな、って思ってる」
「っ。その台詞はボクが言うべきものだよ。こっちこそごめん。キミの想いの強さを分かっていたくせに、キミがこの選択をしたことでどれだけ苦しむのかを本当の意味で分かってなかった。今回のことは、完全に計算外だったんだ」
初めて見たかもしれない。
時雨さんは、本気で頭を下げていた。
「違うよ、時雨さん。時雨さんは何も悪くない。俺の都合のいいような存在になってくれて、しかも、この前は俺を導いてくれた。本当に感謝してるんだ」
「それは、そうかもしれないけど……っ! でもボクは見過ごしていた。キミが壊れているのを見ておきながら、必要なことだって無視してた。そのせいでキミが倒れたんだ。謝るべきことだと思う」
「だからそれは――って、何を言っても無駄か」
時雨さんが謝るべきでないことは、誰でも分かる当然の理屈だ。
しかし『べき』論はいつだって本人の中でだけ歪む。だから時雨さんの思いを幾ら否定したところで、罪悪感は消えないのだろう。
ならば俺に取れる手段は一つ。
「じゃあ二つ目のお願いを使わせてほしい」
「……え?」
「三つのお願い、あったでしょ。あのうちのもう一つを使わせて」
時雨さんはパチパチと目を瞬かせ、こく、と首を縦に振った。
ありきたりなやり方だけど、これしか思いつかないんだからしょうがない。
「この件はもう気にしないでほしい。謝罪は要らない。苦い思い出だから、いつまでも引きずりたくないんだ」
「………………そっか」
長い沈黙の後、時雨さんは肯う。
そして、くすっ、と笑った。
「じゃあ、この件は手打ちにするよ。……まぁ、ボクの責任とか言ったらそれはそれで怒る人がいそうだしね」
「怒る人?」
「ううん、こっちの話」
時雨さんはかぶりを振り、ドアに手をかけた。
「今日はキミにちゃんと寝てほしいしそろそろ帰るよ」
「うん、俺も今日からはちゃんと寝るつもり。寝れると思うから」
「そっか……なら、寝る前に。一つだけキミに宿題を出そうかな」
「宿題?」
意味ありげに微笑んだ時雨さんは、そっと割れ物を扱うように言った。
「行く道は決まったみたいだけど…………その道を、キミは誰と歩いていくの? キミ一人? それとも隣に誰かがいる? 生き方っていうのは、ボクはそういうのも含めての生き方だと思うな」
…………。
「それだけ。おやすみなさい、キミ」
「う、うん。おやすみ」
時雨さんは部屋を去り、けれど残り香はどこにもない。
本当に短い訪問だった。
けれど最後の宿題は、ずっと前から出され続けていたものであるように思える。
どこへ向かうかだけじゃない。
誰と生きるか。それも多分、大切なことで。
「容赦なさすぎませんかねぇ」
俺はへなへなとベッドに身を任せた。
ばふん、と体が沈む。
「けど、考えるべきなんだろうな」
どうするべきなのか、改めて考えるべきなのだ。
逃げ足のままじゃ、見つけた道を駆けていくことはできないから。
美緒との出会いが、数多の物語に触れたことで見つけた道が、俺にとっての逃げ道にならないために。
美緒の死と向き合い、生と向き合い、俺はようやく一人で進んでいけるようになった。
そうして答えを見つけても、まだ何も終わってはいない。
全てをちゃんと終わらせるために、明日を歩もうと決めた。




