十章#33 綾辻澪との話
SIDE:友斗
綾辻澪は、俺至上最強のいい女だった。
でも同時に、最も話すのに困る相手でもある。何しろ澪との日々は、何もかもが間違っていた。
美緒が死に、雫と出会って。
雫を美緒の代わりにしてしまっていることに気が付いて、ゾッとした俺は逃げるために中学受験をした。
今度こそ、上手くやろう。
そう思っていた矢先に出会ったのが、綾辻澪という少女だった。
何もかも、美緒にそっくりだった。
世界には同じ顔の人間が三人いるとよく言うが、まさに美緒と澪がそうだった。美緒が生きていたらこんな風に育ったんだろう。そう思える容姿の彼女から目を離せなくなるまで、そう時間はかからなかった。
澪は孤立より孤高という言葉が似合う少女だった。
けれども必要なときには作り笑いを浮かべ、人と上手くやることを躊躇わない。その在り方は、ある意味では当時の俺に似ていた。俺は人と上手くやる方に天秤が傾いていたけど、それは程度の問題。狙っていることは同じだろう、思えた。
『よろしく、綾辻さん』
『百瀬くん……よろしく』
ファーストコンタクトは、学級委員決めのとき。
鉄仮面のような作り笑顔に心がキシキシと軋んだのは、今でも記憶に残っている。
澪とは三年間同じクラスだった。
そのうちの最初の二年は、俺も澪も学級委員になった。理由も同じだったと思う。俺と澪は、委員が決まらないとき特有の無言の圧力に満ちた空気が嫌いだったのだ。
他者と上手くやる。
その一点に於いて、或いは、俺たちは過敏になっていたのかもしれない。少しでも上手くいっていないような空気が流れることが嫌だったのだ。
学級委員をやっている最中、澪とはそれなりに話をした。
『綾辻さんってさ、走るの速いよな』
『ありがとう。百瀬くんも運動神経いいよね』
なんて、雑談に社交辞令を返されることもしばしば。
『あ、それやっとくよ』
『いいよ。私がやるし』
『でも綾辻さん、結構仕事抱えてるでしょ? 俺は慣れてるからさ』
『……そういうことなら、お願い』
って、業務上から少しだけはみ出た会話をすることが多かったように思う。澪は当然ながら俺のことを鬱陶しがっていたけど、それでも俺は、澪と関わり続けた。
その均衡が崩れたのは、中学三年生のとき。
俺と澪が共に学級委員をやめるようになり、俺は澪と関わる“理由”を失った。“関係”のない状態で澪に話しかけることが怖かったのだ。
だって――“理由”なしに優しくすることは、澪を美緒扱いすることに等しく思えたから。
だから話すことはめっきり減った。
ほぼゼロに近かったと言っていい。
それでも澪のことを目で追っていた。孤高ぶって、寂しそうにもせず、それでも何かを求めるような横顔をずっと見ていた。
そんなある日だ。
『先生、体調が悪いので保健室に行ってきます』
澪は授業中、明らかに青ざめた顔でそう告げた。額には汗が滲み、どう考えても一人で保健室に行けそうではなかった。
でもその日はたまたま保健委員がいなくて――なんて、いうのは後付けの理由で。
きっと俺は、澪を助けたかったんだと思う。
力になりたかったんだ。
『あ、じゃあ俺行きますよ。去年まで学級委員だったんで勝手も分かりますし』
俺は付き添いを名乗り出て、澪に肩を貸して保健室に行った。
感じる熱とか、柔らかさとか、シャンプーの匂いとか、そういう澪の『女の子』の部分に触れた俺は、すぐにどうして体調が悪いのか気付いた。
保健室には先生がいなかったから、澪をベッドで寝かせて。
先生が来るまでは傍にい《《たい》》と思った俺は、ベッドの傍の椅子に腰かけた。けれど体調を確認するほかに何を言えばいいのか分からなくて、黙り込む。
すると澪は、言った。
『ねぇ百瀬。私とセフレにならない?』
それは過ちを真の意味で始める台詞だった。
高校生どころか中学三年生である俺たちにはどう考えても不似合いで、不健全な関係。
でも俺は、受け入れた。
理由は前に澪が言ってたっけ。
俺は運動をする澪と性的な澪にだけ、美緒を重ねずに済んだ。だから澪と美緒を乖離させるために……そして同時に、澪と美緒の相違点を呑み込んで両者を完全に同一視するために、セフレになっ、た――って、いうのがさ。
今から考えてみると、それが全てじゃなかったんだ。
もっと奥底、言葉にするのも憚られるような本能的な部分があった。
俺は――綾辻澪が、欲しかったのだ。
とびきりの美少女に、セフレにならないか、と誘われて。
俺にとって何もかもが理想的だった澪のことが欲しくなった。悪辣に言えば、澪の体が欲しかった。いずれは心も、欲しかった。
『するなら、念のために病気の検査とかしてきた方がよくないか? 遺伝とかそういうのがあるか分からないけど、お互いのせいにするのは後腐れがあって嫌だし』
『いいんじゃない? じゃあ私も今度――』
『っていうか、どうせなら一緒に行こうぜ。その方が手っ取り早いし』
『ふぇ?』
そのときの澪の間抜けな顔は、今でも忘れない。
雫みたいなあざとさを素で出して、その後すぐに顔を赤くして、ちょっと怒ってきた。
『…………』
『…………』
『…………』
『なぁ綾辻、なんか話さないと気まずくないか?』
『別にそうでもないかなぁ……気まずいと思うなら、勝手に話してていいよ』
『いや、別にそうでもないんだけどさ』
黙り込んでいても気まずくなくて、むしろ心地いいと思い知った。
歩く速さは合わせるまでもなく同じで、考えていることも共有してて。
悪くなかった。
澪とは何十……いや、下手すれば百を超えたかもしれないってぐらいにシた。
最初は一日一回がお互いに限度だったけど、回数を重ねるごとに二回、三回、って増えていったように思う。
その全てが鮮烈な記憶だけど、中でも一番残っているのはやっぱり初めてのときだ。
『……今更だけど。こんなんで初めてを捨てていいのか?』
『本当に今更だね、それ。胸触って、女の子のところを触って、下着をびしょびしょにして、ついでに自分のを触らせて……その上で言うのは遅すぎない?』
『そりゃ、そうなんだけど。でもこの一線を超えるかどうかって大きな問題だろ』
あのときの澪の顔は、忘れられない。
恥じ入るのでも、強がるのでもない、魔性の笑み。
『どうでもいい。はやく、ちょうだい』
今も俺の胸に巣食う獣を育てたのは、紛れもなく澪だった。
初めてを捨てた瞬間、澪の表情は一瞬だけ苦悶の色に染まって。
かと思えば、
『……どうよ』
一言、勝ち誇ったように笑った。
肉欲が疼いた。
誓って言おう。
あの一瞬、俺の頭には美緒が介在していなかった。綾辻澪だけが俺の世界の全てだった。
何度も、何度も、澪とシた。
澪の体を貪って、逆に澪は俺の体を貪った。
『生』にどうしようもなく直結するその行為を求められるほどに、俺は自分が生きていることを実感した。
美緒が死んでしまって、俺が生きていることを。
だから果てるギリギリのとき、いつも『みお』と口にしてしまった。
けど今なら分かる。
俺は『みお』と口にした。
『美緒』とは口にして、いなかったのだ。
澪はどこまでも俺と間違ってくれた。
セフレだけじゃなくて、義兄妹にまでなってくれて。
多分、俺たちの関係に正しいところなんて一つもない。間違いだらけで、アンモラルなことを繰り返していた。
どんづまりな俺を、求めることで掬い上げてくれたのはいつもあの子だった。
澪は俺が出会った中で最強のいい女で。
だから俺は綾辻雫のことをずっと愛している。
◇
「――っと。こんなところ、かな」
月曜日の夜に、俺は澪のことを語り終えた。
言うべきではないことはもちろんある。だから思い出したことと話したことは必ずしもイコールではなかったけれど、何となくのディティールは伝わっていたはずだ。
時雨さんの方を見遣れば、綺麗な碧眼がこちらを見つめている。
「ええっと、時雨さん?」
何も言おうとしないので尋ねると、時雨さんは俺の頬に触れてきた。
そっと一撫でだけすると、時雨さんはうんと頷く。
「この前みたいに聞こうかと思ってたけど……やめておくよ。もう《《キミ》》は気付いたみたいだから」
「気付いたって、なにに?」
言えば、時雨さんはぺちんとおでこを叩いた。
「前に言ったよね? 『そうやって気付いてるくせに気付かないふりを続けるのは、友斗くんの美点であり欠点でもある』って」
「……っ、それは――」
「気付いてるんでしょ? それぐらい分かるよ」
きゅぃっ、と胸が締め付けられる。
だってそれは、気付きたくないことだったから。
でも多分、ずっと前から気付いていたことだったから。
「ボクはもう行くよ。一人になりたいだろうからね」
「……そう、だね」
否定はしない。
時雨さんはハープの音色のように優しく笑んで、じゃあね、と言って部屋を出た。
一人ぼっちになった俺は、件のチョコレートを口に放ってからベッドに横たわる。
ほとんど味がしないチョコを口の中で溶かしながら、俺は一周遅れで気付いた本当の気持ちと向き合う。
全てを自分で壊してしまったんだから今更向き合ってもしょうがないのに。
それでも居てもたってもいられなくてスマホを握り、〈水の家〉のトーク画面を開いた。アイコンは、球技大会のときに撮ってもらったフォーショット。
「…っぐ、うっ……」
どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。
気付いていたら何かが変わったんだろうか。
俺が✕✕✕✕✕✕✕✕だった、って。
でも全ては後の祭り。
終わらせてしまったのだから、これは正しく後悔なのだ。
空に浮かぶ月は、チャシャ猫の口許のようだった。




