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十章#32 入江大河は、諦めない。⑤

 SIDE:大河


「…………」


 澪先輩と一緒に、もうすっかり馴染んだ道を通り、私は百瀬家にやってきていた。

 表札の『百瀬』の二文字に懐かしさを覚え、同時にここにいない人のことが頭をよぎり、複雑な気分になる。


「なにやってんの? ほら早く入るよ」

「は、はい…っ!」


 澪先輩はくつくつと笑いながらドアを開く。

 すると、聞き馴染みのある軽やかな足音が聞こえた。


「ただいま」

「お姉ちゃんおかえり――ぃぃって、嘘っ!? 大河ちゃんが来てるっ! えっ、どうして? お姉ちゃん、どんな魔法使ったのっ?!」


 パァと笑顔を咲かせる、可愛らしい女の子。

 教室ではいつも私の一つ前に座っているから、別に久々なわけじゃない。でもこうして笑顔を見れることが嬉しくて、ちょっとだけ泣きそうになった。

 澪先輩は私の隣で、えっへん、と胸を張る。


「お姉ちゃんの特別な魔法ってやつだね。雫にはまだないしょ」

「え~、なにそれ!」

「いつまででも姉って生き物は妹に尊敬されたいんだよ」

「あー、色々とお姉ちゃんのほうが妹っぽい部分あるもんね」

「ねぇ雫。どうして私の胸を見たのかな?」

「別に胸張ってるのに小さめだなとか思ってないよ」

「思ってるよねそれ……っていうか、あのねぇ? 雫とかトラ子が大きいだけで、私は平均サイズだから。貧乳じゃなくて普乳だから」


 雫ちゃんと澪先輩は、けらけらと楽しそうに笑って話す。

 その様子は、友斗先輩が出て行った日とは乖離していた。失ったものへの哀しさなんて感じさせない、幸せな空気がそこにあった。


「っていうか、トラ子。いつまでぼーっとしてんの? 早く入りなよ」

「そーそー!」


 言われて、私はおずおずと玄関に上がる。

 ドアががちゃりと閉まると、冷気の代わりに仄かな温もりが身を包んだ。


「えっと……ただ、いま」


 本当は『お邪魔します』と言うべきなのかもしれない。

 だってきっと私は家族にはなれないから。

 それでも口をついて出たのは、言い慣れたその言葉だった。


「うんっ、おかえり!」

「ん……おかえり」


 久々なその言葉を聞いて、燃え尽き症候群なんて言ってられないな、と強く思った。

 靴を脱いで部屋に上がり、ひとまず手を洗ってから上着をハンガーにかける。

 そうして二週間強ぶりの家で過ごす準備をしてから、意を決して私は言った。


「あのね、雫ちゃん。話したいことがあるんだ」

「……えと、大河ちゃん?」


 私が急に言ったからだろう。雫ちゃんは驚き、そして少しだけ身構える。

 そんな様子を傍で眺めていた澪先輩が、ふっとはにかんだ。


「大事な話らしいから聞いたあげて。お姉ちゃんが料理作っておくから」

「あ、うん、それは聞くけど……いいの? 今日、私の当番だし、どうせなら三人で……」


 澪先輩は首を横に振り、ううん、と告げた。


「今日はお姉ちゃんに任せて。シチュー、作ったげるから」

「シチュー! いいねっ、それ! この前はあんまりよく味わえなかったし……」

「でしょ? だから雫はトラ子と話してて」


 ぽんぽんと澪先輩は雫ちゃんの頭を撫でる。

 頬を綻ばせた雫ちゃんは、元気よく頷いた。


「分かった……! じゃあ大河ちゃん、私の部屋いこ!」

「えっ、う、うん」


 雫ちゃんに手を引かれて、私は雫ちゃんの部屋に向かう。

 部屋に入ると、ふんありといい匂いがした。過剰に女の子らしくはないけど、可愛さのある部屋。何度来ても、雫ちゃんは流石だな、としみじみ思わさせる。

 楽しそうに鼻歌を歌いながらベッドに腰かける雫ちゃんを見て、ふと疑問が浮かぶ。


「雫ちゃんは……もう、大丈夫なの?」


 聞いていいものか、迷った。

 だってもしかしたら空元気なのかもしれない。私を心配させないように振舞っているだけなのかもしれない。それなのにこんな風に言うのは酷いことだ。

 それでも恐る恐る口にすると、雫ちゃんははてと首を傾げた。


「うんっと、大丈夫って?」

「だから、その……ユウ先輩と霧崎先輩が付き合い始めたこととか、家を出て行ったこととか、公園で言われたこととか」

「あ~、そゆことか」


 なるほどね、と雫ちゃんが頷く。

 ぽんぽんと隣を手で叩くので、私はそこに座った。


「んっとねぇ……ほんとのこと言うと、つい最近までは結構凹んでたんだ。公園で色々言われたのも、考えてみたら図星だったし。友斗先輩が誰かと付き合うなんて苦しいし、家に帰ってもいないんだって思ったら哀しいし、寂しいし」

「……うん」

「『ハーレムエンド』を目指しちゃった私が悪いんだな、たくさん自分を責めた」


 それは違うよ。

 悪いのは私なんだよ。

 そう言うよりも先に、雫ちゃんが続きを口にする。


「でも違うなって思ったの。図星だからって、別に何も悪くないし! 友斗先輩は絶対私たちのこと好きだから、どうせ何か事情があるに決まってるし! それに家にはお姉ちゃんがいるもん。だから凹んでる暇があったら『ハーレムエンド』のために頑張らなくちゃ! って思ったんだ」


 屈託なく言い切るその姿は、太陽みたいにキラキラ眩しい。


「雫ちゃんは『ハーレムエンド』、諦めてないんだ……」

「もちろんだよ。諦めかけそうになったけど。でも、諦めたくないんだ」


 ……っ。

 こんな風に言ってるのに、私はそれを否定しなきゃいけないんだ。

 自責心が、あの日の雪のように積もっていく。

 それでも言わなきゃいけないから、


「あのね雫ちゃん。それは、無理なんだ」

「えっ……?」

「絶対に四人では幸せにはなれない。私が抜けるか、私とユウ先輩だけか。多分、それ以外に道はないんだ」


 と、言った。

 喉がカラカラに渇く。蟠った息を押し出すように一呼吸おくと、その間に雫ちゃんが首を傾げて聞いてくる。


「なん…で? やっぱり『ハーレムエンド』は嫌だから?」

「ううん、違う。私も四人で幸せになりたい。雫ちゃんとユウ先輩と澪先輩と……四人で、幸せになりたいよ」

「じゃあ、どうして……?」

「それは……現実的に無理だから、だよ」


 まだ何も終わってはいない。

 もう隠し事はしないと決めたから、都合の悪いこともズルいところも全部をここで雫ちゃんにぶつける。


「私の家はね、25歳までに結婚してないとお見合い結婚しなくちゃいけないんだ」

「ぇ……」

「だから『ハーレムエンド』は無理なんだ。四人で一緒に、なんて認めてもらえない」


 古くてバカバカしいしきたりだ。

 でも私は、あの家に生まれた。幾ら息苦しくても、あまり良い印象を抱いていなくても、あの家を捨てることはできない――なんて、嘘だ。


「ユウ先輩にも、このことは話した。だからユウ先輩は『ハーレムエンド』なんて無理だって思ったんだと思う」


 私は、必要ならあの家を捨ててもいい。駆け落ちみたいになってしまってもいい。私の両親はそうだったのだから。


 けれど――多分それは、本当の幸せじゃない。

 家族に祝福してもらえない幸せを、ユウ先輩は本当の意味で幸せだと思えない。あの人はそういう人なんだ。


 だから私は、私たちは、


「『ハーレムエンド』は叶わない。でも私はユウ先輩のことを諦めきれたくない。だから私以外の三人で幸せになるか、私がユウ先輩と結ばれるか――その二択しか、ないんだよ。そのどちらかを選ばない限り、今が続くだけだから」


 諦めないために、諦めるしかない。

 欠けることのない幸せなんてどこにもありはしないのだから。

 部屋には、静寂が落ちる。

 私にはこれ以上言うべきことはない。私が静かに待っていると、雫ちゃんは小さく小さく呟いた。


「……ぃゃ」

「え?」

「ぃゃ。いや…嫌だっ! そんなの絶対、い・や・だ!」


 かと思えば、大きな声で叫んで。

 雫ちゃんはむっくりと頬を膨らませたまま、続けた。


「何かを選ぶなんてぜーったい嫌だから! そんなの私の好きな展開じゃないもん! 何かが足りない幸せなんて、そんなのちっっとも欲しくない!」

「っ、そんなこと言ってもしょうがないじゃん。私だって本当はそうだけど……でも、どうしようもないことだってあるんだよ」

「ないもん! どうしようもないことなんてない! っていうか急にお見合いとかよく分かんないし! なにその設定。物語の完結を先延ばしにするために最後の方に急に変な設定を入れることで一気に評価が数段階落ちるシリーズ物のラブコメか何かっ?! 私そんな話、初めて聞いたもん!」

「なっ……それは、言えなかった私が悪いけど…ッ! けどしょうがないじゃん! あんな楽しい場でいきなり『お見合いしなくちゃいけないんです』なんて言えないよ! だいたい、『ハーレムエンド』の話をしてるとき、現実的な議論を後回しにしたのは雫ちゃんでしょ!」


 えっ、何言ってるの……?

 なんでこんな逆ギレみたいなことを……。

 頭は混乱してるのに、口だけがペラペラと動く。


「むぅっ、なにそれ! それでいいって大河ちゃんだって納得したじゃん! 一度同意したことを後から掘り返すのは生徒会長としてどーなのっ?!」

「っ、それはそうだけど……! でも、だからこそ今、後回しにした話をしてるんでしょ。どうしてちゃんと聞いてくれないのっ?」

「聞いてるってばぁ! 聞いてるけど嫌なの! 四人で一緒に幸せになるんだもん! それが嫌なら、私たちのこと嫌いだって言えばいいじゃん! 友斗先輩のことを独り占めしたいなら、他のことのせいになんてしないでよ!」


 ……ッ、何それっ。


「ふざけないでっ! 私だって四人がいいって言ってるじゃん! ユウ先輩を独り占めしたいだなんて思わない! あんな最低な人、独り占めしたいだなんて思うわけないでしょ!」

「だったらどうして諦めるの?」

「どうしてって……だって、諦めるしかないじゃん! 私はあの家を、捨てられない! 捨てて幸せになったって、ユウ先輩は喜ばない! だから――」

「――そーやって、自分の方が友斗先輩のことを知ってるみたいな顔するのやめてよ! 私の方が友斗先輩との付き合いはずっと長いもん。昔会ったことがあるかもしれないけど、そんなの一瞬でしょ? 私の方が友斗先輩のこと、いっぱい知ってる! あの人なら何とかしてくれるもん!」

「それはただの妄信だよ。ユウ先輩のこと、何にも分かってない。あの人にだってできないこと、たくさんあるんだよ!」

「そんなの分かってる! 分かってて、それでも友斗先輩なら何とかしてくれるって思ってるんじゃん。あの人は、こんな急に出てきた意味の分かんない壁になんか負けない! 私たちのために、何とかしてくれるもん」


 無茶苦茶だった。

 雫ちゃんが言ってることはもちろんそうだし、私が言っていることもぐちゃぐちゃな感情論だだった。

 ぜぇ、ぜぇ、と息を切らしてしまうと、雫ちゃんはそれを見計らったようにばぁっと抱き着いてくる。咄嗟のことに受け止め切れなかった私は、バタリとベッドに倒れ込んだ。


「ちょ、ちょっと、雫ちゃん?」

「放さないから。一緒に幸せになってくれるって約束するまでずぅぅっと放さない。お姉ちゃんが折角作ってくれたシチューを食べれなくて、後で後悔すればいいんだ」

「え、何それ……え?」


 論理も理屈もありはせず、ただ雫ちゃんの温もりだけがそこにある。

 ぎゅっと抱き締めてくれた雫ちゃんは、本当にどいてくれそうにない。仄かな香りと体の柔らかさと華奢さをありありと感じ、頭がクラクラしてくる。


「大河ちゃん、私は大河ちゃんのことが好きだよ」

「っ、それは私だって――」

「大好き。すっごく好き。たくさん好き。いっぱい好き」

「う、うん、分かったから――」

「オメガ好き! 超好き! あいらぶゆー! きゅん!」

「だから、やめてってばぁ」

「やめないよ~! 大河ちゃんが約束してくれるまで放さないし、ずっと好きだって言い続けるから。好き好き好き♡」

「……っ!?」


 何これ、可愛い……!

 って、そうじゃなくて、これ本当にどうすればいいの……?


「好きだよ大河ちゃん。だぁい好き。好きったら好き!」

「う、うぅ……」


 好き、大好き、超好き、凄く好き。

 雫ちゃんは限られたボキャブラリーの中で、『好き』をローテーションさせる。放してくれる様子もやめてくれる様子もなく、本当に私が約束するまで許してはくれなそうだ。


「ねぇ大河ちゃん。そんなに四人じゃ嫌?」

「ッ、嫌じゃないけど、でも……」

「大丈夫だよ。ほんとに、ぜったい大丈夫。もし大丈夫じゃなかったら……そのときは、私が大河ちゃんと結婚するからさ。ね?」

「それはそれで無理な気がするんだけど……」


 ね、と雫ちゃんが瞳を輝かせる。

 からん、とラムネ瓶の中で揺蕩うビー玉みたいな瞳。

 思えば私は、出会ったときからこの目に吸い込まれていたのかもしれない。私を見つけて、決して逃がさなかった眼に。


「分かったよ、分かった! 約束する!」

「じゃあ指きり!」

「えっ、あ、うん……」


 言われるがままに右手を差し出すと、ふるふる、と首を横に振られた。


「私気付いちゃったんだよね」

「……気付いた?」

「うん。大河ちゃん、指輪付けてきてるでしょ?」

「――ッ!?」


 正解。

 ユウ先輩から貰った指輪を、私はずっと持ち歩いてる。学校では流石に付けていなかったけど、さっき家に入る前に指にはめたのだ。

 だって、そうすれば勇気を貰えると思ったから。


「だから左手で指きりする。そうしたら、約束破っても罰が友斗先輩にいきそうだし」

「それはそれでダメじゃないかなぁ」

「いいのいいの! ほら、はいっ!」


 雫ちゃんは左手の小指を差し出してくる。

 そこにはきっちりピンキーリングが。

 好きな人に貰った、好きな人たちとお揃いの指輪。私は自然と笑みを零しながら、雫ちゃんに合わせて左手を差し出した。


「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本の~ます!」

「ゆ、ゆびきったっ!」



 約束を破るのは、よくないことだ。

 まして大好きで本物の友達との約束を、破るわけにはいかない。


『好きで、好きで、好きなんです。雫ちゃんの好きな人だって、分かってるけど。澪先輩の好きな人でもあるんだって分かってるけど。それでも諦めたくないんです』


 だから――入江大河は、諦めない。

 ずっと昔、離れ離れになりたくない人たちを手を掴み続けると決めたから。




 それから私たちはリビングに戻って、三人で過ごした。

 澪先輩が作ってくれたシチューはぽかぽかして、久々に三人で入ったお風呂は楽しくて。

 降り積もった雪が溶けていくようだった。

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