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十章#31 綾辻澪は、諦めない。③

 SIDE:澪


 ピアノ線みたいに細い月は、けれど、あえかな月光を放っていた。

 それよりも退廃的で人工的な自販機の灯りの隣で、少女が悩ましげな表情で缶コーヒーを飲んでいる。


「ごめん、待たせた」

「いえ、構いませんよ。澪先輩が風邪を引いてしまった方が困りますから」

「ん。ま、着替えてこいって言ったのはそっちだから悪いとも思わないけどね」


 トラ子の話を聞く、という話をしてから暫く経って。

 私はトラ子に、


『汗すごく掻いているじゃないですか。冷えてしまったら困るので、先に着替えてきてください』


 と言われ、苦笑しつつも制服に着替えてきたのだった。

 皮肉っぽく言うけれど、トラ子は言い返してこない。それだけ考え事に集中しているのだろう。私がいない間に自販機で買ったらしいおしるこを受け取り、程よい温かさに吐息を漏らした。


「んっ、んっ、んっ……甘くておいしい」


 口に広がる甘さを噛みしめながら、今年のお正月のことを思い出す。

 お祖母ちゃんに、百瀬家秘伝の正月料理を幾つも教えてもらった。その中にはおしるこもあった。


「それで……話って?」


 なかなか話し出さないトラ子に告げると、彼女の肩が微かに震えた。

 トラ子は一度強く唇を噛み、はぁ、と息を吐いてから言う。


「私は雫ちゃんと、本物の友達になりたいんです」

「ん」

「そのためには、隠しておいちゃいけないことがあって。でもそれを言うなら……諦めなくちゃいけないんです」

「諦める?」

「はい。雫ちゃんと本物の友達になるためには――ユウ先輩への『好き』を捨てなきゃダメなんです」


 驚きはするけれど、予想外ではなかった。

 だってトラ子は言っていたはずだ。

 雫と友斗、両方のことを考えている、と。


 つまりそれは――友情と恋心、どちらを選べばいいか迷っている、ということであって。

 きゅぅぅ、と胸が締め付けられるような思いになる。


「それは……どうして?」

「…………家の、事情です」


 聞くと、トラ子は絞り出すように言った。

 刹那、色んなものが繋がり始める。

 友斗や入江先輩の行動の理由が、朧気ながら見えていくような気がした。


「うちの家には、色々と古いしきたりがあるんですけど。そのうちの一つに、25歳までに結婚していなければお見合い結婚する、というものがあるんです」


 ああやはり、と思った。

 25歳までに必ず結婚しなければならない。

 それはつまり、結婚を前提としないであろう『ハーレムエンド』の在り方と反することになる。

 おそらく……友斗はそれを、知っていた。

 元日、友斗は神社のおつかいとして入江家に足を運んでいた。きっとあのときに何かしらの事情で知ることになったのだろう。


 だから友斗は『ハーレムエンド』が現実的に不可能だと分かっていた。

 分かっていたから悩み、苦しみ、その果てに――誰のことも選ばないという選択をしたのだ。おそらくは誰への想いも捨てることができないから。


「だから私は、本当は分かってたんです。『ハーレムエンド』なんて現実的じゃないんだ、って。辿り着けることのない幸せな未来だ、って」

「そっ、か」

「それなのに私は、言えませんでした。ずっとずっと、隠し続けてたんです。折角雫ちゃんが全部を話す機会をくれたのに……っ、その機会を、ふいにしてしまって……!」


 秘密を話す機会――それは、雫の誕生日のことだろう。

 それぞれが秘密を暴露しあった。

 雫は自身の醜い部分を晒し、私も友斗との過去を話し、けれどトラ子は《《小綺麗な事実》》を口にして終わった。


『っていうか、不服なのはこっちなんだけど。トラ子の秘密だけピュアすぎない?』


 冗談交じりに言ったあの言葉は、もしかしたらこの子に罪悪感を与えていたのかもしれない。そう思うとチクリと胸が痛んで、トラ子と一歩分距離を縮めた。せめて、寄り添ってあげられるように。


「だから……本物の友達になりたいなら、今度こそそれを打ち明けるべきで! けど打ち明けるからには、ユウ先輩への気持ちは諦めなきゃダメなんです」

「それは、どうして?」

「だって、だって……私さえいなければ、三人で『ハーレムエンド』に辿り着けるじゃないですか! 私さえ好きじゃなければ、雫ちゃんと澪先輩とユウ先輩は三人で幸せになれるじゃないですかっ!」


 酷く弱々しい声で、トラ子は叫んだ。

 今すぐにでも抱き締めてあげたい。もう大丈夫だからって言ってあげたい。それぐらいこの子は私にとって大切だから。

 でもそれが求められてないことは分かってるから、うんうん、とだけ相槌を打ち続ける。


「友達の幸せを願えなきゃ、そんなの本物じゃないです。あんなに優しくて眩しい雫ちゃんと、ズルくて弱い私。どっちが幸せになるべきかなんて分かり切ってて! だったら、私は諦めるしかないじゃないですかぁっ!」


 トラ子はコーヒーの缶を握る手に力をこめた。

 僅かに変形した缶が、何故だか無性に悲しげに映る。

 それでもトラ子は泣いてはいなかった。まるで自分には泣く資格がないと言いたげに、どうにかなりそうなほどに堪えていた。


「私は、諦めたくないんです。雫ちゃんは私にとって最初の友達だから。私の日々をカラフルに染めてくれたのは、雫ちゃんだから」

「だから、友斗への気持ちは諦める?」

「それが正しいって分かってるのに……でも、まだ躊躇してしまう自分がいるんです。好きだよ、って。どうしようもなく好きだよ、って。諦めきれない自分がいるんです」


 友情と恋心の分岐点に立って、迷いなく前者を選べたら楽だったのだろう。

 切なさに堪えて、つーっと一滴だけ涙を流して、お手本みたいな負けヒロインを演じられたらいい。

 でもこの子は違うのだ。

 前者を選びたいのに、後者を捨てることができなくて。そんな自分が前者を選んでいいのか、とすら迷っている。


 本当に素敵な子だ。

 途中で割り込んできておいて、私や雫と同じぐらいに友斗に愛されてるだけのことはある。

 ……この私に気に入られるだけのことは、ある。


「だったら、それも全部あの子に伝えてあげればいいじゃん」


 こんな素敵な子だからこそ、自分の素敵さに潰されそうになるのだろう。

 いい子だからこそ、悩んでもがいて苦しむのだ。

 私にこの子を救ってあげることはできないけれど、守ることぐらいはしてあげたい。


「そんなの、無理ですよ。そんなことをしたら――」

「嫌われる、と本当に思う?」

「――……っ」


 おしるこの缶を呷り、甘みで口をいっぱいにしてから言う。


「最低な友斗のことも、一度は裏切った私のことも、あの子は嫌ってない。それなのにその程度でトラ子を嫌うって思ってるなら、それは《《うちの妹を舐めすぎだよ》》」

「でもっ……」

「言えなかったこと、今も後悔してるんでしょ? だったら全部言いなよ。恋を諦める? そんなくっっだらないことを考えてるようなら……さっさとうちに来い!」


 トラ子がいなければ、私はきっと今みたいになれなかった。

 友斗のことを本当の意味で好きになれてすらいなかっただろう。

 この子が友斗を好きになってくれたから、雫を大切に思ってくれたから、今の私たちがあるんだ。


「…っ、……っぐ。みお、せんぱい」」


 トラ子は唇を震わせて、私のことを見つめてくる。

 それから嗚咽を堪えるような掠れ声で、言った。


「今日、泊まってもいいですか……?」

「当たり前でしょ。いつでも来ていいって言ったじゃん」


 私より背の高いトラ子は、けれど、私よりもずっと小さく思えて。

 背伸びした私は、彼女の頭をそっと撫でた。



 ◇



「先、玄関行ってて。忘れ物したから」

「……分かりました」


 大河と一緒に帰ることになった私は、微かな足音を聞き取り、トラ子を送り出した。

 一礼してから玄関へ向かうその背中を見送り、はぁ、と私は溜息を吐く。


「盗み聞きなんて、らしくないですね」

「気付いてたのね」

「気付かせるつもりでわざと足音鳴らしてたくせに」


 声のする方を睨めば、物陰から入江先輩が姿を現す。

 靡く金髪はトラ子よりも明るく、華やかなオーラが今はどうしようもなく鼻についた。


「愛しの妹があれだけ苦しそうにしてるのに自分は知らん顔で盗み聞きなんて……姉失格じゃないですか?」

「あら手厳しい。流石、おままごとの姉役に慣れている子は違うわね」

「またそういうことを――」

「おっと失礼。それとも、《《お母さん役》》の間違いだったかしら?」

「――っっ」


 入江先輩は、皮肉げに言ってくる。

 ちっとも図星ではないはずなのに、言葉に詰まっている間に入江先輩は続けた。


「あなたたち三人は、そうやって納得したのよね。それぞれの役割を演じて、四人で家族になろうとしてる」

「…………」

「でもその先に待つのは、ただの偽物よ。歪んだおままごと。誰も幸せにならない」


 偽悪的に言い切る入江先輩。

 吹き荒ぶ風の音を聞きながら、私はそっと、胸の奥で燻る炎に薪をくべた。


「そっちこそ、罪悪感はなくなりましたか?」

「……何が言いたいの?」

「さあ」


 あなたの思い通りになんてなってやらない。

 私はびしっと指をさし、入江先輩に言った。


「明日で終わりにしてみせます。あの子たちが前に進み始めたのに、私が立ち止まってるわけにはいかないので」

「ふぅん……できるものなら、してみるといいわ」


 言って、入江先輩は去っていく。

 その背中を見送った私は、トラ子が待つ玄関へと向かった。

 

 頑張る二人を、見届けてあげるために。

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