十章#22 綾辻澪は、諦めない。①
SIDE:澪
三学期二度目の月曜日が終わりを迎えようとしている。
来年に向けてやや授業内容が難化していることもあってか、教室には沈鬱とした空気が漂っていた。ぐでりと机に突っ伏したり、あまりの疲弊から溜息を零したり、めいめいの反応を見せている。
もちろん、中には疲れを感じさせない人もいる。
私の後ろの席に座っている鈴ちゃんがそのいい例だ。
午後の授業ですやすやと心地いい寝息が聞こえていたかと思えば、今はぐいーっと気持ちよさそうに伸びをしている。授業など知ったことかと言わんばかりのその態度には呆れてしまうけれど、鈴ちゃんは前からこんな感じだったので別にいいだろう。
まあ、そうやって堂々と寝ていたから疲れてない人もいるのだけど。
それ以外にも、ちゃんと授業についていった上で平然としている奴だっている。
「ぐぁぁ……友斗、俺、もう無理。死ぬぅ」
「死ぬな、生きろ。数学の度に溶けるのやめろっての。みっともない」
「そうは言ってもよぉ……! 全然分かんねぇんだもん、しょうがないじゃん」
教室の後ろの方で、そんな会話をしている奴がまさにそうだ。
三学期の学期始めテストで私より良い点数を取った相手――百瀬友斗。
書類上は私の義理の兄で、けれど、今は家を出てしまった存在。
「……っ」
「んー、みおちー、どうかしたの? 疲れた?」
意識すると、今でもお腹の中がずーんと沈む。
家を出て行ったことも、霧崎先輩と付き合い始めたことも、霧崎先輩とホテルに行ったことも、全部ぜんぶが体の奥に沈殿している。
油断すると何もかも吐き出したくなるから、堪えるように仮面を着ける。
にこっと笑い、鈴ちゃんに答えた。
「うん、ちょっとだけね。鈴ちゃんみたいに授業中寝たりしてないから」
「うっ、ウチだって起きようと努力はしてるんだよ?」
「してる? 五時間目が始まって5分ぐらいで寝息が聞こえた気がするんだけど」
「5分は努力したから!」
「短い努力だなぁ」
アハハ、と。
枯れた笑みを漏らすところまで、上手いことキャラ造形をして振舞う。こうして創り上げる仮面すらも私なのだ、と言ってくれたのは誰あろう友斗だった。まさか彼への色んな感情を隠すために使うことになるとは思ってもいなかったけれど。
話している間に担任がやってきて、帰りのHRが始まる。
来週あたりに配られる進路希望調査のこととか、来月頭にある自由参加の合宿のこととか、そういうことを話し、すぐに終わった。
「ねぇねぇみおちー。この後って暇?」
「この後……?」
ちょんちょんと背中を突いて、鈴ちゃんが聞いてくる。
「そうそう! しずちーと一緒に遊ぶ――じゃなかった。サークル活動する予定なんだけどさ」
「サークル活動……そういえば、そんなこと言ってたね」
鈴ちゃんは、同世代の子たちと一緒に同人活動をしているらしい。そして一昨日、雫をそのサークルに連れていってくれたのだそうだ。
どうやら雫も知っているようなゲームを作っているサークルだったらしく、かなり楽しめた、と雫も言っていた。友斗が出て行ってからずっと沈んだ表情をしていたから、少しでも気分転換になったならよかったな、と思っていたのだ。
「で、もしよかったらみおちーも来ないかなって思ったんだけど……」
「あ、そういうことか」
雫だけでなく、私のことも心配してくれてるんだ。
嬉しく思うと同時にまずいなとも感じる。だって心配されるってことは、仮面の隙間から疲弊しっ切った素が漏れ出ているということだから。
「うーん、ごめん。今日は行くところがあるんだよね」
「あっ、そうなんだ?」
「うん。折角誘ってくれたのにごめんね。雫のこと、お願いできる?」
「それはもちろん!」
行くところがある、というのは嘘じゃない。
一匙の真実がなければ嘘は簡単に見抜かれてしまう。今更鞭撻する必要もない有名な話だ。
改めて、ごめんね、と告げてから、荷物をまとめて席を立つ。
「じゃ、ばいば~い」
「うん、また明日」
言って、廊下に出たときだった。
「あっ」「っ……」
ちょうど廊下を通ったその人とぶつかりそうになる。
その人、なんて誤魔化し方は意味がないか。
わざわざ後ろのドアを使ってまで私を避けようとしているのは、友斗ぐらいしかいない。ぱちりと目が合うと、お互いに気まずくなって言葉を失う。
「えっと」「…………」
沈黙を埋めようとする中身のない言葉と、私の沈黙がぶつかった。
息が詰まる。
私の足も、友斗の足も、呪いにかかったかのようにその場から動かない。
20cmほど私より高い位置にある友斗の顔は、酷い有様だ。目つきが酷いし、明らかに疲弊している。選挙のときも、霧崎先輩に返り討ちになったときも、こんな顔をしてはいなかった。
ねぇどうして、と言ってしまえばいいんだ。
友斗が私たちを好きだったのは、紛れもなく事実のはずで。
霧崎先輩に向けた『好き』が張りぼてな嘘だと分からないほど、私たちは友斗のことを知らないわけじゃなくて。
だから、言ってしまえばいい。
本当は全部嘘なんでしょ、って。私たちから逃げないでよ、って。
でも、
『そうですか? 兄さんに誰より距離が近くて、兄さんと同じものを守れて、兄さんと色んなものを共有している――そんな、他の二人より優位な立場に酔ってるものかと思っていました』
美緒ちゃんに言われたことが、棘みたいに刺さって抜けない。
「……うす。じゃあな」
「ん。また明日」
黙っている間に、友斗は苦しそうにさよならの挨拶を絞り出していた。
『じゃあな』『また明日』。
こんなやり取りを友斗と学校でしなくてはいけないことが、苦しくてしょうがなかった。
こんなんじゃ、ダメだ。
美緒ちゃんの言葉が呪縛のようになって、私は動けなくなっている。
だから私は、
「うん、行かないと」
戦わなければいけない。
私が私であるために。
友斗が見つけてくれた私を、貫くために。
◇
三年生のフロアは、二年生の教室よりも更に賑やかだった。
何故かと考えて、脳裏にカレンダーがよぎる。
三年生にとっては、もうすぐ高校生活は終わるのだ。大半が推薦で大学に行くとはいえ、大学と高校では色んなものが決定的に変わってしまうだろう。
だからきっと、この喧騒は今を惜しむゆえのものなのだ。
失ってしまう『今』を強く認識し、だからこそ失う前に大切にする。失って初めて大切さに気付くなんて話もするけれど、多分違う。失わなくたって、本当に大切なものの大切さは分かってるんだ。
私だってそうだった。
私と、雫と、トラ子と、友斗。
四人でいる時間の大切さは、失う前から分かっていた。
それでも――失ってしまった。
「すみません。入江先輩はいますか?」
昏い思考を振り払って、三年F組の教室を覗く。
声をかけると、すぐにその人は見つかった。
トラ子よりも明るめの金髪と、独特の華やかな雰囲気。
私が今日会いたかった人に他ならない。
「あら……綾辻澪」
「フルネームで呼ばないでください、とお話しませんでしたっけ」
「嫌よ、とも言ったはずよ?」
入江先輩は早々に不敵な笑みを浮かべて言い返してきた。
もしかしたら私が来ることは想定の範疇だったのかもしれない。クラスメイトに断わりを入れてから、入江先輩はスクールバッグを持ってこちらにやってくる。
「私に用事だと思っていいのかしら?」
「……はい。この前のことで、話したいことがあります」
噛みつくように、私は言う。
「リベンジに来ました」
あのときの言葉が、今も抜けない棘になっているのなら。
そのせいで動けなくなっているのなら。
今一度挑んで、討ち倒せばいい。
それが私の流儀で、私にできることだから。
「ふぅん? リベンジ、ね……」
「はい。本当は霧崎先輩がよかったですけど……でも、あの人はそもそも捕まらないので。それに自分が演じた役には責任を持ってこそ、ですよね?」
「ふぅん? 上手いこと言うじゃないの」
ニヤリ、と入江先輩は愉快そうに笑う。そして金色の髪をさらりと靡かせ、歩き出した。
「来なさい。相手してあげる」
「……はい」
おままごとでも、歪んだ関係でもない。
或いは周りからは酷く歪んで見えるからこそ、私たちは本物なのだ。
一度は剽窃した美緒ちゃんの幻を討ち倒すために、私は入江先輩を追った。




