十章#20 入江大河は、諦めない。①
SIDE:大河
「ねぇ入江さん。これってどうすればいい?」
「あ、今やってるのが終わったら一緒に持っていくよ。そっち置いておいて」
「うん、了解」
ユウ先輩が生徒会に来なくなって一週間が過ぎようとしていた。
ユウ先輩が言っていた通り、現在の生徒会は業務で忙殺されるほどではない。冬星祭の事後処理の残りと、あとは新学期に伴う雑事がある程度。後はほとんど暇で、今しがたの仕事っぽいやり取りも実はかなり久々なものだった。
「ふぅ……なんだか、一気に仕事が減ったわねぇ」
と頬杖を突きながら言うのは副会長である如月先輩だ。他のメンバーは隔日で来ているのに(と言っても他のメンバーは三人しかいないんだけど)、如月先輩はあれから毎日のように生徒会室に来てくれている。
コーヒーをチビチビと飲むと、はぁ、と吐息とも溜息ともつかない息を零した。
「最近は忙しかったですしね。如月先輩にも色々と負担をおかけしてしまって……申し訳ないです」
「いーえ、それはいいのよ。大河ちゃんと一緒にいたいし、花崎ちゃんや土井ちゃんとお喋りするのも楽しいもの」
「「如月先輩……!」」
如月先輩の一言に、花崎さんと土井さんが目をキラキラと輝かせる。
感激しました、って感じの瞳。
気持ちは分からなくもないんだけど、如月先輩が単に先輩として後輩の面倒を見ているだけじゃなくて、可愛い女の子が好きだって事実を知っている身としては色々と思うところがある。二人とも、騙されないようにね、とか。
まぁ如月先輩は八雲先輩と仲がいいみたいだし、変なことにはならないだろう。
というか――はっきり言ってしまうと、私が人のことをそんな風に心配していられる立場ではない。自分のことですらまともにこなせてはいないんだから。
と、陰鬱な気分になりかけたところで、如月先輩がんんーっと伸びをしながら言う。
「やっぱりほら、忙しい日々の後に暇な時間が来ると燃え尽き症候群気味になっちゃうじゃない? 今、ちょうどそんな気分なのよねー」
「あー、その気持ちはちょっと分かります!」
「冬休みとか、まさに燃え尽き症候群って感じでした」
如月先輩の言葉に、花崎さんと土井さんが同意した。
燃え尽き症候群――またの名を、バーンアウト症候群という。
今まで熱心に仕事に取り組んでいた人が、努力に見合った結果が出なかったり、逆に大きな目標を達成したりして起こる状態を指す。
けど、
「如月先輩。燃え尽き症候群は、医学的にうつ病と一種とされるちゃんとした病気ですよ。その症状はやる気が起きない、朝起きられない、人との関わりを避ける、学校や会社に行きたくなくなる、などです。ただ多忙でなくなって気が抜けている程度のことを燃え尽き症候群とは言わないかと。もちろん、精神的なことなので一概には言えませんが」
「大河ちゃんったら、本当に厳密ねぇ……!? もちろん、分かってるわよ? 何となく、イメージとしての『燃え尽きた』って感じになってるだけ」
うんうん、と花崎さんと土井さんも頷く。
私は、ちょっと的外れなことを言ってしまったらしい。もちろん自覚はある。文脈を汲み取れば、私の指摘は場違いで空気が読めないものだと言わざるを得ない。
それでも気になってしまうし、指摘したくなってしまうのは私の生来のタチだ。
――と、いうだけではなくて。
つい最近、燃え尽き症候群について調べたからだった。
ユウ先輩が霧崎先輩と付き合うという話を聞いたとき、体から一気に力が抜けたような感覚に陥った。
恋愛初心者の私でも、好きになってもらえてる、って確信していたから、まさに晴天の霹靂だったのだ。
でも……痛い妄想なのかもしれないし、都合のいい考えなのかもしれないけれど、ユウ先輩の『好き』が嘘だ、という確信も私の中であった。だってあのときのユウ先輩は、夏休み前と同じような顔をしていたから。
だからこそ、なのだと思う。
ユウ先輩は誰かを選んだのではなく、ただ私たちの『好き』を拒絶した。その事実が、ずしんと胸に突き刺さった。
百瀬家を出ることも、生徒会を暫く休むことも、明確すぎる拒絶だったから。
私たちの『好き』は……ううん、私の『好き』は、あの人を困らせてしまっただけなんだ、って気付いてしまった。
それからだ。
やる気が起きない、朝起きられない、人との関わりを避ける、学校に行きたくない。
そんな症状が、体に出るようになった。
今朝もどうしようもない気怠さとの戦いの末にようやく登校して、雫ちゃんに会わせる顔がないからとただでさえ少ない仕事に昼休みにも取り組み、放課後に至る。
「まあ、冗談はさておいて……実際、この時期って色々とやるチャンスだと思うのよね。特にほら、来月の中旬にはバレンタインがあるでしょう? 生徒会主催で何かやれたら絶対楽しいだろうなって思うんだけど」
「バレンタインイベント!」
「それ、いいかもですね!」
如月先輩の提案に、ハッとした。言っていることは何一つ間違いではない。折角できた暇を生かしてこその生徒会だ、事実、霧崎先輩だって去年はこの時期に次年度の準備を進めていたらしい。
でも、
「バレンタイン、ですか」
そのたった六文字が、嫌に鈍く聞こえた。
今までの人生で何度も聞いたことがあって、けれど縁遠かった言葉だ。
好きな人も、友達も、できたことがなかったから、本命チョコも、友チョコも、用意する必要すらなかった。外の世界の出来事って感じがしていた。
「……えぇ」
如月先輩が、恐る恐ると言った感じで頷く。
花崎さんと土井さんが少し身構えているのを見て、私はようやく自分の頬が強張っていることに気付いた。どうやら気を遣わせてしまったらしい。
こんなんじゃダメだなぁ。
雫ちゃんなら、きっと顔に出さない。ちゃんと周りの人を照らし続けるのに。
ニィと笑ってから言う。
「バレンタインに何かをやるとなると……たとえば、チョコ交換会、とかでしょうか?」
「それもいいけど……できるなら、お料理教室とかもいいかな、って思うのよね」
「お料理教室……ですが、そうなるとかなり色々考えなくてはいけませんね。材料とか場所とか」
頭の中でイメージしてみる。
これまでの仕事の中で、ユウ先輩が書いた企画書を何度か見てきた。あれと同じように、脳内で企画書を組み立ててみよう。
チョコの作り方を教えるお料理教室。
必要なものは……材料、教師役、参加者全員が恙なく料理をできるような規模の会場、スタッフ、それから……。
「難しいんじゃないでしょうか。《《現実的に》》考えて、時間も場所もお金も何もかも足りません」
「それは、そうかもしれないけれど。ほら、そこは理想と現実で上手いこと調整して――」
「――無理ですよ。そんな風にしたところで、結局どうしようもなくなって諦めることになるんです。もう少し《《現実的に》》考えましょう。《《現実的な》》プランがあるはずです」
言っていて、八つ当たりみたいになってしまったと自覚する。
でも事実だ。
現実的に不可能なことは、きちんと現実的に不可能だって言わないと。
それができないのは悪いことだから。
「っ、すみません。少しキツイ言い方になってしまいました」
「う、ううん、いいのよ。確かにそうね、流石にお料理教室は現実的じゃないかもしれないわ。人手だけなら百瀬くんを呼べばいいけれど、それ以外にも問題が多すぎるものね」
「っっ、そう、ですね」
ユウ先輩の名前が出ただけで、心が騒めく。
ユウ先輩を呼ぶわけにはいかない。だってあの人は、私を拒絶してる。私と一緒にいたら苦しい思いをする。
ううん、既に私は苦しめてしまった。
本当なら雫ちゃんや澪先輩にこそ言うべきだったのに、怖くて言えなくて。
私は言うことのできない臆病さを、ユウ先輩に話すことで誤魔化したのだ。
「…………ごめんなさい。この話はまた今度にしましょうか。また、バレンタインまでは日もあることだしね」
「すみません」
「謝ることはないわよ? ただなんかやりたいわねーって。それだけは知っておいてほしかったの」
「はい……」
如月先輩が言いたいことも、聞きたいことも、分かっている。
花崎さんや土井さんですら気を遣っているぐらいなのだ。夏の険悪になった頃のことを知っている如月先輩なら、私とユウ先輩の間に何かがあったことなんて容易に推測できるだろう。
けれど、話せない。
話したら多分、如月先輩はユウ先輩を責めてしまうから。
それぐらいあの人は最低で……でも私たちはそんな最低なあの人のことを好きになったから。
生徒会室に、何とも言えない沈んだ空気が満ちる。
もう今日はお開きにするべきだろう。
そもそも仕事はほとんどないんだから、こんな風に集まっているのも不毛なんだし。
そう思っていると、
「そういえば、前にSNSで目安箱を始めるってことになったじゃない? あれを見てみるのはどう?」
と如月先輩が声を上げた。
DMを利用したSNSでの目安箱の創設。それは私の公約をユウ先輩が現実的に昇華した施策の一つだ。
今までほとんど見ていなかったのに今更言い出すのも変な気がするけれど……きっと、如月先輩の気遣いなんだと思う。そもそも私の公約にあったことなんだし、固辞するのもおかしい。
「そうですね……それなら、確認してみましょう」
冬星祭を機に、SNSアカウントの管理はユウ先輩の他に私と如月先輩も行うことになった。だから…………あの人に迷惑をかけることは、ない。
コーヒーに口をつけてから、私はパソコンでSNSにログインする。
口に広がる苦みだけがあの人とまだお揃いのような気がした。




