十章#14 仕事
霧崎家に居候してから数日が経って。
始業式の前日――つまり昨日――から、ラノベ新人賞の下読みバイトが始まっていた。パソコンに送られてきた無数のファイルを一つずつ読み、適宜気になった点をメモしたうえで、それぞれの作品に複数の項目で点数をつけていく。
ジャンルも文体も、作品によって大きく異なる。
少し前までは「一次審査は日本語が書ければ通る」なんて言説がネタ混じりで蔓延っていたような気もするが、流石にそのレベルの作品には今のところ出会っていない。というか、どの作品も文章力って意味ではそれなりの基準に達しているんじゃないだろうか。たまに学校で配布されるプリントに掲載されている文章とかの破綻具合に比べれば、随分と読み易い。
と言っても、文字で圧死させようとするみたいなとんでもない文量の作品もある。ほとんど改行されていなかったりすると、もう大変だ。疲れた目では読めないから休み休み読んでいくしかない。
「はぁ……」
ブルーライトカットの眼鏡も、家に置いてきてしまった。
それゆえか、それとも単に集中しすぎているせいかは分からないが、確実に眼精疲労が貯まっているという実感がある。
この仕事が終わる頃には眼鏡をつけることになるかもなぁ……と、少し苦笑した。
「ま、それもありか」
いっそ、眼鏡キャラにイメチェンしてもいい。
如月と晴彦の二人とキャラ被りしてしまうが、逆に三人トリオって感じで面白いんじゃないだろうか。
眼鏡を外せば世界がぼやける。
それは今の俺には、途轍もなく安心できることのように思えた。目を逸らさなくとも見たくないものを見ずに済むというのは、とても甘美な状態だ。
「――って、眼鏡の良さを語りすぎだろこの作品」
眼鏡サイドに引っ張られそうになる心のまま、俺はぼそっとツッコんだ。
今読んでいる作品、『眼鏡っこキャラの彼女と眼鏡好きの俺がスクールカーストの頂点に立つまで』ってタイトルなのだが、眼鏡語りが凄いのだ。
『眼鏡を外せば世界が~』ってのは、作中の主人公の名(?)言である。ちょっと感動したし上手いなとは思ったけど、それはそれとして語りすぎだと思う。ちょっと変態だ。
「でも、こういう作品の方が意外と跳ねるんだよなぁ……」
飛びぬけた変態性が見え隠れする作品は、時に人の心を掴む。凡百な作品よりもやべぇ作品の方が話題になるし、面白いからな。
全体的に文章力や構成力も高く、キャラ造形も丁寧で……うん、この作品はいいな。
ともあれ、この作品も読み終えた。
評価はかなり高めになる。おそらく一次審査は通るだろう。
「じゃあ次に行くか」
下読みは数をこなすことが求められる……かは、よく分からん。いやだってこれが下読みの仕事初めてだし。晴季さんから何となく評価方法とか感覚を教わったが、あくまでそれだけである。他の下読みさんと話したりはしていないため、仕事の心得みたいなのもよく分かっていない。
ただ誠実に、心からの物語全てと真っ直ぐ向き合う。
それだけが俺のできることだと思っている。
美緒の『ブルー・バード』と時雨さんの作品群。
それぞれにこもった思いを汲み取るみたいに、丁寧に。でも数も多いから、それなりのスピードを保って。
そうして次の作品に移ろうとしていると、
――とんとん
と、ドアがノックされた。
「友斗くん、今大丈夫かな?」
時雨さんの声だ。
俺を気遣うような口調。特に入られたらまずいということでもないので、大丈夫だよ、と告げる。
きぃ、とドアを開けて入ってきた時雨さんは、普段とは違う気の抜けた服装だった。少し胸元が緩く、薄い生地。いわゆるネグリジェってやつだ。
今更驚くわけでもない。
居候を始めてから数日。時雨さんが寝る前にネグリジェ姿なのは知っている。そりゃあ時雨さんみたいな美少女がこうも薄着だと色々と思うところはあるが、だからって性的な目で見れるわけではない。
パソコンから目を離し、椅子の背もたれに身を任せながら時雨さんの方を向いた。
「こんばんは、時雨さん」
「うん。こんばんは。いい夜だね」
詩的な言葉と共に、時雨さんは夜のカーテンのように微笑んだ。白銀の髪を耳にかけると、ベイビーブルーの泣きぼくろが姿を現した。
「友斗くんは、今日もお仕事?」
「そう。今日もっていうか、昨日からだけどね」
昨日は説明を受けたりもしてたので、メインで動いたのは今日のみ。『も』という助詞は不適切だと言えよう。
時雨さんはくすくすと肩を震わせ、ベッドに腰かけた。
うーん……別にいいけど、この時間に部屋に来てベッドに座るってのは、年頃の女子としてアウトなのでは?
なんて、うぶな男子みたいに注意できる立場ではないのだけれども。
「下読みのバイト、どんな感じ?」
「どんな感じ……そうだなぁ。まだ二日目だから大層なことは言えないけど……」
言われて、考えてみる。
今言ったように、まだこの仕事は始まったばかりだ。偉そうに語るなんて愚かだと言わざるを得ないが、それでもあえて言うならば。
「楽しいよ。凄いやりがいがあるな、って思う」
俺は美緒に、物語の良さを教わった。
本の匂いを、物語の呼吸を知った。
生きているんだ、って。
あれからずっと、本にしろゲームにしろたくさんの物語に触れ続けていた。美緒や時雨さんのように物語を作ることはできないけれど、根っからの物語好きであることは事実なのだろう。
「そっか」
時雨さんが、ふっ、と微笑む。
それから、はい、と手に持っていたカップを差し出してきた。椅子を立ち上がり、俺はおずおずと受け取る。
ホカホカと立つ湯気、苦い香り。
コーヒーを入れてきてくれたらしい。
……いやまぁ、入ってきたときから何となく察してはいたけどね。
「ありがとう。時雨さんが淹れたの?」
「うん。生徒会でも、よくコーヒーを飲んでたしね」
「ああ、なるほど」
そういえば、そうだった。
生徒会ではいつも大河がコーヒーを淹れてくれた。会長になってもなお、「私がやります」って言って、コーヒーを淹れ続けてくれたんだよな。砂糖ゼロのブラックコーヒーだ。
逆に家では、雫がお風呂から上がってくるのを待つ間に澪が淹れてくれてた。砂糖たっぷりの甘いやつ。あれを飲むと、妙に落ち着いたんだよなぁ。
ちゅび、っとカップに口をつける。
このコーヒーがどちらの味に近いのか、分かりはしない。
百瀬家を出てからというもの、味覚が酷く鈍くなっている。ブラックガムの刺激とか、熱さ冷たさとか、今はそういうことぐらいしか感じない。
「濃いめにしたんだけど……苦すぎたかな?」
「えっ、いや、大丈夫。これぐらいの方が集中できていいよ」
「……そっ、か」
ちびり、ちびり、と飲んでいく。
どうやらこれは苦いらしい。ヤバいな、俺。全然分からねぇわ……。
「んんっ……」
「ちょっと、時雨さん」
「ん~?」
時雨さんがごろんとベッドに寝転がる。
無防備なその様子は、ぐにゃーっとリラックスする白猫みたいに見えた。
「あのね、時雨さん。そういう恰好で、しかも異性の部屋でだらけるってのはどうかと思うよ。晴季さんが見たら卒倒する」
「む……別にボクだって、誰の部屋でもこんな風にするわけじゃないよ?」
「そういう台詞もよろしくないって分かってるでしょ」
ジト目を向けると、時雨さんの瞳にはどこか艶めかしい色が混じる。くふぁと小さな欠伸を手で押さえ、時雨さんは起き上がった。
「ボクって、かなりの美少女だと思うんだよね」
「……そうだね。妖精みたいだなって思ってる」
「ふふっ、照れるよ」
「事実だから」
時雨さんが美少女なのは事実だ。
褒め言葉でも、口説き文句でもない。
「しかもボクは彼女で友斗くんは彼氏。何かしたければしていい立場なんだよ」
「……そう、かもね」
「でも何もしないんだ?」
「するわけないじゃん。それとも、してほしいの?」
「うん、って言ったら?」
うんって言われたら、どうすればいいのだろうか?
彼氏って立場として、彼女の願いに答えればいいのか?
俺はこの人に、そういう感情を抱けるのか?
まだ『好き』を見つけていなかった頃のあの子たちにはそういう感情を抱けていたのに、時雨さんに抱けないのはどうしてなんだ?
何も言えずにいる俺に、時雨さんが立ち上がって笑う。
「なーんてね、冗談だよ。ちょっと色々と確かめてみたかっただけ」
「色々と……?」
「小説の参考にね」
「あっ、そういうことね」
俺は取材対象にされたってわけか。
俺が苦笑していると、時雨さんは軽やかな足取りで部屋を出ていく。
「じゃあ、そろそろボクは寝るよ。友斗くんもあんまり夜更かししないようにね?」
「っ、うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
時雨さんは、こく、と頷いて去っていった。
静けさを取り戻した部屋の中、時雨さんの残り香のようなものを微かに感じる。
「仕事に戻るか」
俺は苦笑し、席につく。
再び口をつけたコーヒーは、やっぱり味が分からない。
頭によぎった問いを追い出すように、俺はパソコンの中のテキストに集中した。




