二章#03 義妹がいる日常
「――さん。兄さん、朝だよ」
「んっ……み、お?」
懐かしいな、とぼやけた頭で思う。
泣き出しそうなくらいに懐かしい。しょぼしょぼした眠気眼と不鮮明な思考。まだ眠っている体に染み入る声は、まるでお日様のブランケットのように温い。
美緒の声だ。
美緒がまた、起こしに来てくれた。
俺より二つも年下なのに、俺なんかよりずっとしっかりしている子だったから、こんな風にいつも起こしてくれたんだ。
でも美緒は――と、最愛の妹の死を認識したところで、昨日のことを思い出す。
ゾっとしてしまうほどの自身の弱さと俺を愛してくれた少女の真っ直ぐさが、まだ眠っていたいとわがままを言う体を叩き起こした。
「ん……あぁ、悪ぃ。おはよう、みお」
「うん。おはよう、兄さん」
たんぽぽみたいな笑顔がとても可愛い。ふわふわと綿毛のように軽やかな気分になった。
目をこすりながらもう一度、おはよう、とぼしょぼしょ呟く。
「っていうか俺、寝坊しちゃったか?」
「ううん。ちゃんといつも通り早起き」
「……だよな」
うん、そんな気はしていた。寝坊したとき特有の雰囲気がない、いたって平和な朝だ。時計を一瞥し、むしろいつもより少しだけ早いくらいだと確認する。
俺は寝坊しているわけじゃない。なのにみおはどうして起こしにきたんだろうか? 視線だけで尋ねると、みおはほんの少し不安そうに顔を曇らせた。
「ごめん。妹らしく朝起こしにきてみたんだけど……こういうのはお望みじゃなかった?」
……なんだ、それ。
心に広がる言い表しにくい感情をぎゅっぎゅっと丸め、みおの不安を払拭するように首を横に振った。
「いや、そんなことはない。でも昨日言っただろ? 呼び方以外は変えなくていいって」
今度はみおが、ううん、とかぶりを振る。
「それは口調の話でしょ。それ以外のことはちゃんと妹らしく在りたい。私はあなたのために義妹になってあげてるんじゃない。あなたの一番になる方法をこれにしただけ」
「…………」
「義妹になってくれている、だなんて思わないで。私はあなたの一番でいたい。そのためにあなたが妹を欲する気持ちを利用してるんだよ」
真っ直ぐに言い切る綾辻を見つめたとき、俺の頭の中にはありきたりな文句が浮かんだ。
――本物になろうとする偽物の方が価値がある
俺が変な気遣いをする方が失礼だろう。にへらっと笑い、俺は答える。
「そういうことなら今後も起こしに来てくれると嬉しい。妹に朝起こされたらそれだけで一日がフィーバータイムになりそうだ」
「……なんか言い方がちょっと引くんだけど」
「温度差⁉ ここはうん、とか可愛らしく答えてくれるところじゃないの?!」
「発言が、妹と背徳な近親相姦するクズ兄みたい。私、もしかして襲われるの?」
「襲わないから! 警戒して距離をとるのやめてねっ?」
確かにそれくらいヤバい奴だと思われても仕方がないんだけども!
でも美緒とは健全な兄妹関係だったので、そこだけは警戒しないでほしい。……いや、いずれ美緒みたいな子と付き合いたいなって欲はあったけどさ。
「まぁ、なんだかんだ兄さんの目が覚めたみたいでよかった。もうすぐ朝ご飯できるから支度してから来て」
「お、おう。分かった、すぐ行く」
みおがいなくなると、部屋はがらんと静かになった。
朝には匂いがすると思う。時間に匂いがあるわけじゃないのに、目を瞑って時間から隔絶されても朝だ、と何となく分かるのだ。
すっかり元気になった体を起こし、てきぱきと制服を身に纏う。ネクタイを第一ボタンが見えないくらいぎゅーっと締めたら準備よし。
姿見に映る自分はどこか堅苦しいけれど、せめて外見くらいはちゃんとしていた方がいい。
ぱしゃぱしゃと顔を洗い、髪をワックスでそれなりに整えてからリビングに向かった。
「悪い、待たせたな」
「別に大して待ってない。急ぐ時間でもないし」
「それもそうか」
食卓につき、二人で合掌する。
いただきますの声は、とても楽しそうだった。
◆
「昨日、お姉さんの方がきたよ」
放課後。
来る新入生歓迎会に向けた作業をカタカタと進めていると、時雨さんが呟いた。
様々な歓迎の行事を考えていた生徒会だが、なかでも今週末に行われる新入生歓迎会には力を入れている。新入生歓迎会とは、体育館を借りて行う歓談パーティーのようなものだ。これは昨年までも行っていた伝統行事なので、参加者も結構多かったりする。
そんなこんなで、俺は詰めの作業を手伝っているのだった。例の如く生徒会のメンバーは出払っている。デスクワークは俺と時雨さんの二人で処理というわけ。
よく考えると俺ってかなり学校に貢献してるよな……という俺の思いはさておいて、今は時雨さんだ。
「お姉さん?」
「……澪ちゃん」
「ああ、そういうことか」
時雨さんの渋い顔で思い出す。そういえばみおは昨日、美緒のことを時雨さんから聞き出したと言っていた。
時雨さんの手は珍しく止まっており、どこか後ろめたそうにしている。
「キミに謝らなくちゃいけない。ボクはあの子に、美緒ちゃんのことを話してしまったんだ」
「うん、綾辻から聞いた。この前の約束を使って無理に聞き出した、って」
そうだったんだ、と時雨さんが零した。
重い空気になりそうなのを察し、努めて軽い口調で言う。
「時雨さんがしてやられるなんて珍しいね。ちょっとした冗談で足元を掬われるなんてさ」
「うっ……キミにそう言われるのはお姉さん的に複雑だなぁ」
時雨さんがくつくつ笑った。
よかった、と思う。時雨さんは親戚だが、だからといって俺の弱さが招いた歪な関係に巻き込みたくはない。
カタカタ、カタカタ。
鳴り始めたキーボードの音にホッとしつつ口を開いた。
「昨日さ、綾辻と話したんだよ。美緒のこと」
「うん」
「それでも距離はできなかった。むしろ家族として、少しだけ近づけた気もする」
全てが嘘というわけではない。話しているのは本当のことだけだ。
だからさ、と俺は続ける。
「結局、時雨さんの言う通りに相談しておくのがよかったんだなって思ったよ」
「そっか」
微笑む時雨さんの姿は、ひらひらと舞う桜の花びらのように綺麗だった。
粒チョコみたいな泣きぼくろがちょこんと可愛らしい。
「今日のキミはどこか雰囲気が違うね。昨日までのキミも素敵だったけど……ちょっとだけ、憑き物が落ちた感じがするよ」
「そうかな?」
「そうだよ。小さい頃を思い出す」
かたーん、とエンターキーを押した。
グラウンドからは部活動の掛け声、校舎からは吹奏楽部の演奏が聞こえる。青春のサラダボウルみたいな時間だ、と場違いに思う。
「ねぇ時雨さん。忙しさから目を背けようとしてない?」
「……そういうキミは嫌いだな、お姉さん」
「嫌いとかいいから仕事やろうか。この話するために書類仕事する予定だった書記ちゃんを外に行かせたの知ってるんだからね?」
「いいもん。ボクは何でもできる完璧美少女だから」
「時雨さんも色々と大概なんだよなぁ……」
仕事は人をダメにする。
父さんや義母さんに加え、時雨さんまでもが俺の持論の証拠になりつつある気がした。