十章#06 ふたり
SIDE:大河
「…っぐ、どうして……ぇ」
浴室の外から、嗚咽交じりの声が漏れ聞こえる。
それまでの会話は、ほとんど聞き取ることができなかったけれど、その泣き声だけははっきりと聞こえた。ざらざらとした聞き心地に、気付けば私の顔は険しいものになっていた。鏡に映る自分の怪訝な表情を見て、すぐに目を逸らす。
「お姉ちゃん、泣いてるね」
ごし、ごし、と私の髪を洗いながら雫ちゃんが呟く。
澪先輩にお風呂に入るように言われた私たちは、しかし、湯船が貯まるのを待つのも億劫で、お互いに髪や体を洗いながらお湯を張ることにした。シャワーと湯張りを同時につけることはできないから、当然洗いっこをしている私たちの体は芯から冷えていく。
けれども今はそんな冷たさより、外から聞こえる澪先輩の泣き声に雫ちゃんは意識がいくようだった。
「うん、そうだね」
なんと言えばいいのか分からず、私はただそうとだけ口にした。
顔に垂れてきたシャンプーを指で拭うと、雫ちゃんはシャワーノズルを手に持つ。湯張りからシャワーに切り替えた瞬間、ざーざーざーと豪雨みたいな水音が響いた。
「さっきの電話、だよね。きっと」
「多分、そうだと思う」
水音に掻き消されそうに弱い声。
それでもきちんと言葉を拾えたのは、お互いが冷えないように、身を寄せ合っているから。雫ちゃんの温もりが肌越して伝わってくる。それがたとえ温もりではなく冷たさと呼ぶべきだったとしても、今の私には温かい。
けれど――澪先輩は、一人だ。
雫ちゃんと、それからおそらく私のことを思い、澪先輩は私たちを二人っきりにしてくれた。料理とか、そういうことを引き受けてくれて、私たちは休む時間を貰えた。そのことがどれだけありがたいのかは、シャワーノズルから降る熱い雨に冷やされた体が理解している。
だからこそ、休まずにいる澪先輩のことが気にかかる。
脱衣場にまで持ち込んでしまった私と雫ちゃんのスマホは、ついさっき、高らかに鳴った。〈水の家〉のグループトーク。発信主はユウ先輩だった。
出るべきだったのかもしれない。
でも胸のうちに広がる嫌な予感だとか、そもそもユウ先輩に会わせる顔がないと思えてしまうことだとかのせいで躊躇っている間に、澪先輩が通話に参加してしまった。
もちろん、私たちだって参加すればいいのだけれど。
このタイミングで澪先輩が参加するのは私たちを庇うためなんだ、と理解できてしまった私たちは、参加せずにこうして入浴を続けている。
「何があったのかな……?」
「分からない。でも……澪先輩が泣いてるの、私は初めて聞いたよ」
「そっか。私も、お姉ちゃんが泣いてるのは数えるぐらいしか見たことないなぁ。すっごく拗ねて面倒くさくなるときはあるけど、それでも『お姉ちゃんだから』って意地張ってなかなか泣かないんだよね」
目を瞑っているから、雫ちゃんがどんな顔で言っているのかは分からない。シャワーが洗い流されていく音のせいで声色だって正しく認識することはできていないのだと思う。
それでも、そこには紛うことなき憧憬と愛情があった。
そして同時に、後悔も。
「お姉ちゃんに押し付けちゃったよね、私たち。本当なら三人で受け止めるべきだったのに……泣くなら三人で、泣くべきなのに」
「うん」
「守られちゃった。また、お姉ちゃんに守ってもらっちゃったよ……お姉ちゃんは、何も悪くないのに」
「う、……ん」
シャワーが止まったので目を開けると、浴室の床にシャンプーが流れていた。
ちゃんと汚いものと一緒に流れてくれただろうか、と思う。
私の罪は、弱さは、洗い流されたのだろうか。
……なんて、そんなことが成し遂げられないのは知っている。
こうなったのは、私のせい。
私がいなければ『ハーレムエンド』は成立していたはずなのに、私のせいで雫ちゃんも澪先輩も傷つく結果になった。シャワーを浴びた程度でチャラになってくれるわけがない。
「雫ちゃん、今度は私の番」
「うん……お願い」
くるっと回って、雫ちゃんの髪を洗っていく。
サラサラとした黒髪。毎日時間をかけて手入れをしているんだ、と聞いたのは、まだ私がユウ先輩と知り合う前のことだった。私はそれほど手間暇をかけていなかったから驚いたものだ。同時に、その手入れがたった一人の想い人のためであると知り、少なからずの嫉妬を覚えたんだっけ。
「ごめんね、大河ちゃん」
「うん?」
「きっとこうなったの、私のせいだと思うんだ。私が『ハーレムエンド』なんて変なことを言い出したから、そのせいでお姉ちゃんのことも、大河ちゃんのことも傷つけた」
「っ、それは……っ! それは違うよ」
雫ちゃんの髪を洗う手に余計な力がこもりそうになって、慌てて手を離した。
代わりにぶんぶんと首を横に振って否定の意を示し、私は続ける。
「雫ちゃんのせいだなんて……そんなこと、絶対にない。『ハーレムエンド』を望んだのは雫ちゃんだけじゃないよ。私も澪先輩も、本当にそうなりたいって思ってた」
それは決して雫ちゃんを慰めるための嘘などではなく、本当のことだ。少なくとも私は、本当に四人でいたいと思っていた。
荒唐無稽な『ハーレムエンド』だけれども、そうなれたならどれだけ幸せだろう、って何度も夢を見た。
たとえば――。
四人で同じ家に住んで、普段はワイワイといつもみたいに暮らす。お互いに仕事で疲れたときは労いあい、家事を代わってあげたりしながら、助け合っていく。でもただの友達ではなく、そこには愛があって、ユウ先輩に甘えたり、逆に甘えられたりしてもいい。
そうやって寄り掛かり合って……いずれは、男女の営みも。
想像するだけで恥ずかしいし、頭が真っ白になってしまうけど、でも恋や愛で繋がるならいつかはそういうことをしてみたい。興味がないわけじゃ、ないから。三人でユウ先輩に愛されて、くたくたになって四人でベッドに眠る。肌と肌を触れ合わせながら休日の朝を迎えて、まったりと時間を過ごす――みたいな。
そんな日々を夢想していた。
しかし同時に、叶わないことにも気付いていた。
だって――私は、入江家の人間だ。
あの古い慣習に囚われた家の子だから、常識から逸れたような関係性を認めてもらえるはずがない。
『大切な人なんてよく言えますよね。まだあれだけ大切なことを言えていないくせに』
姉に、或いは姉が扮した美緒ちゃんに。
そう告げられたことが頭をよぎる。
あれだけ姉に忠告されておきながら、私は未だに家のことを雫ちゃんは澪先輩に伝えられていない。言えば――『ハーレムエンド』が不可能だと分かってしまうから。
「私のせいだよ」
雫ちゃんの髪を熱湯で洗い流しながら、私は聞かせないような声で呟いた。
流れていくシャンプーの香りはすっかり嗅ぎ慣れている。流し終えてシャワーを止めると、湯船の半分ほどのお湯が貯まっていた。
「体、洗おっか」
「うん」
頷くと、雫ちゃんが手にボディーソープをつけた。
くしゅくしゅと泡立て、私の体を洗ってくれる。優しい手つきが心地よくて、いっそ身を委ねてしまいそうになった。
「多分さ」
と、雫ちゃんが言って続ける。
「私も、大河ちゃんも、お姉ちゃんも、誰も悪くないんだよ」
「っ、そんなことは――」
「――けどね、それと同じだけみんなが悪いんだと思う。三人……ううん、四人全員が」
私が否定しようとするのを遮って、雫ちゃんははっきりと告げた。
おそらくそれは、事実に最も近い詭弁で。
「たぶん、全部ほんとなんだ。私が選ばれないかも、って思ってたことも。選ばれても大河ちゃんやお姉ちゃんが傷つくなら嫌だ、って思ってたことも。全部ぜんぶ、事実なんだと思う」
「…………うん」
「じゃあ、どうすればいいんだろうね。『ハーレムエンド』なんて、諦めるしかないのかな」
哀しげに雫ちゃんは言うけれど、私はその問いの答えを持ち合わせてはいなかった。
より正確に言うならば、《《この期に及んでまだ》》、《《現実的に不可能だという答えを答えだと認めることを拒否していた》》。
「雫ちゃんの体も、洗うから」
「うん」
くしゅ、くしゅ、とボディーソープを泡立てて、雫ちゃんの肌に触れる。
無垢で柔らかいその感触は、何か禁忌を犯しているかのような錯覚を生じさせた。同時に、ああ幸せだ、とも思ってしまう。
ずっとこのままでいたい。四人で、一緒にいたいのだ。
そのための道こそ、姉さんに拓いてほしかったのに。
どうしてあんなことを……残酷な現実を、突きつけてきたのだろう。
『秘密を口にもできないなら――そんなのはもう、偽物ですよ』
偽物、だなんて。
私が手にしたこの絆を、そんな風に呼んでしまうんだろう。
『「好き」って気持ちは、そういうの全部をどうにかしちゃえる魔法だ、って。俺はそう思いたいんだよ』
いつか、ユウ先輩から貰った言葉を思い出す。
『好き』は、全部をどうにかしてくれるのなら。
今のこの痛みも、罪も、どうにかしてくれるんだろうか。
「雫ちゃん……好き、だよ」
「っ、うん。私も、大好き」
湯気に満ちた浴室で、不確かな言葉だけが交差していた。




