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十章#05 ねぇ友斗

 SIDE:澪


 家に帰ってまず驚いたことは、鍵が閉まっていたことだった。

 鍵が閉まっているということは、友斗が家にいないということに他ならない。RINEには特に連絡が入っていないし、今朝も予定があるとは言っていなかったから、驚いた。

 嫌な予感がした、と言うのが適切なのかもしれない。


 触れたドアノブが妙に冷たくて、凍傷を起こしてしまいそうだった。

 けれど同時に、よかった、とも思う。

 今の雫と大河が友斗に会ったらどうなるのか、不安だったのだ。友斗のことだから上手く察して慰めてくれるのかもしれないし、あんな亡霊の言葉を全て否定してくれた可能性もある。或いは気を遣って部屋にこもってくれたり、とびきりに道化を演じてくれたり、そういうことをしてくれたかも。


 でも、どう考えたって、ここ数日の友斗は様子がおかしい。

 何かを真剣に考えていたあの顔は、逆に言えば、他ごとをあまり気にしている様子がないようにも映る。


 だからもしもの場合には私が言って、何とか接触を避けるような手を打つつもりだった。私が緩衝材になるつもりで――っ、くそ。そう考えていることこそ、美緒ちゃんに否定された通りじゃないか。


「はぁ」


 自己嫌悪に浸りながら、安堵の息を零す。

 もっと自分を嫌いにならずに済んだという意味でも、友斗がいなくて助かった。

 手を洗った雫とトラ子を見て、んんっ、と私は咳払いをする。


「二人とも、お風呂入ってきな。ゆっくり浸かって、身体の隅々までちゃんと洗って、リラックスするの」


 言うと、二人は戸惑ったような反応をする。

 うちの浴室は、それほど狭くない。私たち三人ならやや手狭さを感じながらも入れるし、事実、トラ子が泊まる日には一緒に入ったりもしていた。それなのに二人にだけ言って私が入ろうとしないことに、少し引っかかりを覚えたのかもしれない。


「私は、少し早いけど夕食の準備する。今日はあったかいシチューとか、他にも二人の好物を作ったげるから」

「お姉ちゃん……」「澪先輩…私は」

「私がそうしたいんだから、これ以上の異論も反論も抗議も口答えもその他諸々の意見も一切受け付けません。分かったらお風呂に入ってきなさい」


 びしっ、と浴室を指さす。

 私も一緒にお風呂に入ればいいのかもしれない。

 けれども今は、二人にしてあげるべきだと思った。

 雫にとっても、トラ子にとっても、それがいい。私が二人と同じ立場にいていいとは到底思えないのだ。


「二人はこんな日まで巨乳への憎悪を私に感じさせようとしてるの? あんまりしつこいと揉むよ?」


 おどけて言うと、くすりとだけ雫が笑った。

 トラ子もその調子に合わせるように、はぁ、と肩を竦める。


「澪先輩。女性同士でもそういう言動はセクハラになりますよ」

「トラ子はうるさいなぁ……別にいいじゃん、減るものでもないんだし。いや、減ればいい、とは思うけど」

「そういう問題ではありません。だいたい、澪先輩だってだいぶ理想的なスタイルじゃないですか」

「そりゃどうも」


 友斗にどれだけ抱かれたと思ってんの、と口にしようとして、やめた。

 いつも通りに戻ればいいってわけではないのだ。

 今のは紛れもなく、言うべきでないことだった。強引に話を矛先を変え、トン、と二人の背中を押す。


「ほら、行ってきな。ちゃんとあったまるんだよ」

「うん……」「はい」


 二人はそう頷いて、脱衣場へ向かう。

 そうして一人っきりになった私は、キッチンに立ち、はぁ、と溜息をついた。


「作ろ」


 料理は昔から嫌いではない。

 雫は美味しそうに食べてくれたし、ママだって喜んでくれた。昔はパパも……いや、パパだけは渋い顔をしてたっけ。

 曰く、


『澪はそんなことをしなくていい。勉強をしてればいいんだ』


 って。

 結局あの人はママの仕事好きな態度に呆れ、不倫し、そして私たちを捨てていった。

 それでもあの人を『パパ』と呼んでしまうのは単なる慣れと、あと友斗のお父さんを『パパ』と呼ぶことへの複雑な気持ちのせいだった。


 ま、それは関係ないとして。

 考えるべきは別の家族のこと。

 私たちではなく、友斗のことだ。


 私たちの前に現れた美緒ちゃん。

 入江先輩が演じたこと以上に問題なのは、入江先輩が美緒ちゃんのことを知っている点だ。

 今まであの人が演じたのは、あくまで架空のキャラ。自らが想像し、創造し、幾らでも解釈できるキャラだった。


 でも美緒ちゃんはそうではない。実在の人物だ。仮に何かの拍子(例えばトラ子との会話とか)で美緒ちゃんの存在を知ったとしても、それだけではああは演じられない。生前の情報を深く知らなければダメなはずだ。


 ということはやはり、霧崎先輩が一枚噛んでいるのだろう。

 では、何のために?

 帰省した際、あの人は雫に謝っていた。あの謝意までが嘘だとは到底思えない。あの人が雫やトラ子を傷つけることはない、そう信じていた。


 それなのにこれだ。

 正直、理解できない。

 こんな、私たちの前に立ちふさがるようなことをして、一体何がしたい? 


「……分かんない」


 また、例の『天才のきまぐれ』ってやつ?

 ふざけないでほしい。そんなことに巻き込んで、《《現実を突きつけないでほしい》》。

 私も、雫も、トラ子も、分かってるんだ。

 『ハーレムエンド』がどれだけ夢物語なのかなんて、理解してるんだ。それなのに――


 ――とぅるるるるるっ


 高らかに、スマホが鳴った。

 鈍くてひび割れた音は、さっきから頭の片隅で蹲っている嫌な予感が悪性腫瘍みたいに頭を《《犯す》》。

 ダメだ、手に取るな、と本能が告げる。

 けれどもそれが〈水の家〉のグループトークだと気付いてしまった瞬間、もう手に取る以外の選択が見つからなくなった。


 もしもスマホが鳴っていることに雫やトラ子が気付いたら?

 出てしまって、私の嫌な予感を私の代わりに引き受けたら?

 そう考えたら、出る以外の選択肢なんてないじゃないか。


『もしもし?』

「…もしもし、友斗?」


 嫌だな、こういうの。

 声だけで様子がおかしいって気付けてしまう。

 私は、友斗に似ているから。気付いてしまうんだ。


『ああ、俺だ俺』

「あ、そういう詐欺には引っかからないので。真面目に働いてください」

『詐欺じゃねぇよ名前呼ばれて反応しただろうが。っていうかその前に、声聞けば分かるよね、君』

「ん。ま、ね。誰かさんみたいなつまんないジョークを飛ばそうと思っただけだよ、気にしないで」

『うん、今の言葉にこもってる悪意の方を気にするわ』


 見ないふりをしたくて、質の悪い冗談で場を濁す。


「それで、なに? 今、ご飯作ってるんだけど」

『あ、それは悪かった……って、あれ。まだ夕飯には早くね?』


 ちっ、とつい舌打ちを打ってしまう。

 そういう察しのよさも好きだけど、今はやめてほしい。考え事をしながら、とんとん、とこれ見よがしに作業をした。そうして、頭から色んなものを追い出す。


『……澪?』

「っ、なに?」

『え、いや何って言うか……夕飯には早くね、って聞いたんだけど』

「それは…………」


 どう言い訳をすればいいだろう。

 いや、本当は言い訳なんてしなくていいのだ。ただ「今日はそんな気分なだけ」とでも言えばいい。それでも口ごもってしまうのはおそらく、友斗に気付いてほしいからなのだろう。

 何かがおかしいって気付いて、はっきりと指摘ほしい。

 大丈夫か? って聞いてほしい。


 ――兄さんをこれ以上苦しめるのはやめてください


 頭にその言葉がよぎった瞬間、ゾッとした。

 友斗はもしかしたら、私たちよりもきちんと現実を見ていたのかもしれない。現実を見て、『ハーレムエンド』が叶わないと分かっていて、だから苦しんでしまったのかもしれない。

 だとしたら、心配させるわけにはいかない……っ。


「今日は、手が込んだメニューなんだよ。折角の雪だし、って思って。私の一番の得意料理かも。胃袋掴んで離さなかったらごめんね?」

『――っっ』


 雫をちょっと意識して、小悪魔っぽく言う。

 今度は、友斗があからさまに言葉に詰まる番だった。

 このタイミングで言葉に詰まること、それ自体が悪い兆しでしかない。不安になりながらも、友斗? と名前を呼ぶ。


『わっ、悪い。なんでもない』

「………そ、ならいいんだけど」


 なんでもない、わけがない。

 でも触れられたくないのだろう。友斗は、そういや、と話の矛先を変える。今度は私のアキレス腱へと。


『雫と大河はどうした? スピーカーで聞いてたり?』

「ッ……ううん、そういうわけじゃない。二人でお風呂に入ってるよ」

『えっ、そうなのか。やけに早いな』

「雪で遊んで冷えたから」

『ああ、なるほど』


 なんとか、誤魔化せた。

 そう思うのは、一瞬のこと。

 電話の向こうから聞こえる嗚咽交じりの吐息が、私の思考を握り締めて離さない。


『あの、さぁ。澪にどうしても言わなくちゃいけないことがあるんだ』


 やめて、と思った。

 言わないでほしい。その先の言葉が不幸を背負っていることは容易く想像できてしまうから。今日は、今日だけはやめてほしい。

 でも、


「……なに?」


 なんて律儀に返事してしまう自分がいる。

 逃げても無駄だと理解している賢い自分が忌々しい。

 唇を噛むのと友斗が話の続きを口にするのは、ほとんど同時だった。


『ごめん。俺、今日帰れない』

「…………」


 思考も、言葉も、吹っ飛んだ。

 けれども友斗は、残酷に続ける。


『電車止まっちゃってな。タクシー待ちの人も多いし、バスにも乗れそうにないし、ここから歩いて帰ったら絶対に体調崩すから』

「どこ、いるの?」

『……蒲田』

「そう、じゃなくて。どこに、泊まってるの?」

『それは――』


 悪性腫瘍は、ステージ4に達していた。

 次に続くのは、ホテルだ、って。


『――駅近くのホテル。時雨さんと一緒だ』

「……っ!?」

『カプセルホテルとかじゃない。澪と前に行ったような……()()()()ホテルだよ』

「――ッ、どうしてッ?」


 分かっていたくせに受け入れられなくて、それでも雫とトラ子に聞かせるわけにはいかなくて、なるべく小さな声で言う。

 頭が、街とは真逆の純黒に染まっている。

 バグを起こし始めた頭を決壊させるように、友斗は言ってしまう。


『時雨さんと付き合うことになった』

「は?」

『時雨さんと、付き合うことになったんだよ。今日一緒に話して、それで告白した。OK貰ったんだけど……わざわざ蒲田まで出てきたせいで雪に閉じ込められちゃってな。でももう付き合ってるんだし、別にこういうところに泊まるぐらいはいっか、ってことになったんだよ』


 なんで、そう、なるの……?

 だって、だって、だってッ!


「あの人と…ラブホ?」

『……ああ』

「っっ……付き合った? は? 意味わかんないんだけど。何言ってんの?」

『ごめん。詳しいことは明日説明する』

「――……っ」


 友斗とラブホで一夜を共にするのは、私だけの記憶だった。私と友斗だけの思い出なのに……っ。

 なのに、どうして――……ッ。


「泊まらないで」


 嫌だよ、友斗。

 あんたが一日そこらであの人と()る奴じゃないってことは分かってる。でも、やめてよ、そんなの。私との思い出を上書きするみたいなこと、しないでよぉ…っっ。


『え?』


 友斗に聞き返されて、ハッとした。

 私は何を言った? 私との思い出? 独り占め? なんだそれ。美緒ちゃんに指摘された通りじゃないか。結局、私は優位に立ってるって思ってたのか……?

 そんなはずが、ないッッ!


「言わないで。お願いだから……雫とトラ子にはそれ、言わないで」

『そういうわけには、いかない。俺を好きでいてくれたんだ。ちゃんと振るべきだろ』

「それでもッ! 今日は、絶対に言わないで。明日なら聞くから。今日は……今日だけは、その話をここだけのものにさせて」


 多分、色んな事情があるんだ。

 だって友斗は、私たちを愛してる。それは見れば分かることで、決して勘違いじゃないはずで。でも今の雫とトラ子が聞いたら……考えることなんて、多分できない。

 壊れてしまう。

 だから懇願するように、言う。お願いだから、と。

 だって、


「あの子たちが、潰れちゃうから……っ」


 私が、潰れてしまうから。

 ぷつり、と電話が切れる。

 逃げるように、分かった、とだけ告げた友斗の声は、どうしようもなく苦悶に満ちていた。やっぱり、何か事情があるんだろう。

 何か、事情が……事情がっ……。


「…っぐ、どうして……ぇ」


 涙がちっとも、止まってくれない。

 ねぇ友斗、分かんないよ。事情があるって、分かるけど。でも……でも、苦しくてしょうがないよ。


 雪みたいに白いシチューは、まだできそうにない。

 ママの唯一の得意料理のシチュー。

 私とか雫に辛いことがあったとき、特別だよ、って作ってくれた料理。唯一無二とも言える、母の味だから。


 雪みたいに、全部を白く染め上げてくれますように。

 雪よりも温かく、雫やトラ子を抱き締めてくれますように。


 隠し味の真心を込めるために、私は涙を拭う。

 あまりうるさくして、雫たちに聞かれてはいけないから。

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