十章#04 守る
SIDE:澪
終わる気配のない雪は、色んなものを吸い込んでいく。
そのくせ胸のうちの苦しさや罪悪感を持って行ってはくれず、むしろ世界を白く染めることでそれらの黒さを際立てていた。
入江先輩が扮した美緒ちゃんが去ってから、もうどれだけ過ぎただろう。
1分かもしれないし、30分かもしれない。もしかしたら一、二時間ずっとこうしていたのかも、とすら思えてくる。
それだけの間、私たちはずっと立ち尽くしていた。
頭の奥で再生される言葉は、消えることのない疼痛を生む。
『またそうやって二人を守るんですね。そのおままごと、いつまで続けるんですか?』
『雫さんと大河さんのことを守るお姉さん。そんな立ち位置に酔っているだけじゃないんですか?』
『そうですか? 兄さんに誰より距離が近くて、兄さんと同じものを守れて、兄さんと色んなものを共有している――そんな、他の二人より優位な立場に酔ってるものかと思っていました』
どれも、これも、違うの一言で払いのけられるもののはずだった。
だって私には、ちっともそんなつもりはなかったのだ。
雫もトラ子も大切。
でもそれの何が悪い?
雫は妹だ。私にとって、唯一無二の妹。友斗が美緒ちゃんを愛するように、私は雫を愛してる。それだけなのだ。
それにトラ子は……私に、立ち向かってきた。
文化祭のとき、執拗に問い続けてきた。あんな風に真っ向からぶつかってきたのは友斗以外では初めてだった。
どちらも私に持っていないものを持っている、憧れの存在で。
強くて眩しくて、だからこそ弱さだって持っていることを私は知っている。
だから守ろうって決めただけのはずなのに、
――協力しよう。あの子たちを、守るために
友斗とした約束が私を逃がしてくれない。
欺瞞ではないか、と。
お前は雫やトラ子に嘘をついているのではないか、と問いかけてくる。
ううん、今はそんなことを考えている場合ではない。
あんなのは、過去の亡霊が残した戯言だ。今を生きる私にはやるべきことがある。雫とトラ子を見遣り、私は二人にそっと言う。
「家に帰ろう。このままじゃ、冷えて風邪引くから」
「っ……でも、お姉ちゃん…っ、私は」
雫が、苦しそうに泣いている。
ぽたぽた零れる涙を強引に拭って唇を噛む姿は、酷く悲痛に映った。罪悪感でどうしようもなくなっているのだろう、と私は気付く。
雫は、私よりも遥かに多くのことを言われていた。
いいや、それだけじゃない。
この子が言い出した『ハーレムエンド』を真っ向から否定され、挙句、歪んでいるとまで言われたのだ。雫がどれほど自分を責めているのかは想像に難くない。
なのに私は、自分のことばかりを――ッ!!
嫌気が差す。何が守るだ。昔も今も、私は何も守れていないじゃないか。
「言わなくていい。言わなくていいから、おいで」
「うっ、っぐ……おねぇ、ちゃんっ!」
「しずくっ」
こんなことに意味はないのかもしれないけれど。
私は雫を抱きしめる。
私の方が体は小さいし、多分弱い。それでも私は、雫の姉なのだ。たった一つしか違っていなくとも、私と雫は姉妹なんだ。
抱き締めた雫の体は、やっぱり冷えていた。
コート越しでも分かる。
冷え切っていて、凍ってしまいそうなほどに冷たい。
「ごめんっ、ごめん、お姉ちゃん……!」
「うん、うん、うん」
雫には、謝る理由なんてあるはずがないのに。
それでもこの子は、泣いている。
優しくて強いから。
「澪先輩。私は、先に帰ります」
もう一人の強くて優しい女の子が、そう声を上げた。
雫を抱きながら見遣れば、酷い顔をしていた。自戒や後悔の念、それから孤独感とか……色んなものが綯い交ぜになったような顔。
雫みたいに泣いたりはしないけれど、既にその顔は泣いているも同然だった。
苦しいよ、って。
哀しいよ、って。
助けてよ、って。
そう叫んでいるようにしか、私には見えなかった。
「トラ子、待って。一緒に帰るから」
「……三人のお宅には伺いません。行くのは自分の家です」
「は? 何言ってるの、そんなのダメに決まってるでしょ。だいたい、今日は泊まるって話だったじゃん」
今日はこの後、トラ子と家に行くつもりだった。
友斗と四人でテキトーにテレビを見て、友斗を誘惑するようなことをして、それで『ハーレムエンド』に同意してくれるのを待つ。
そんな風に楽しく過ごす予定だったのだ。
けれど大河は首を横に振る。
「今日は家に帰ります。二人に……ユウ先輩に、会わせる顔がありません」
「雫をこのままにして帰るわけ?」
「……ッ、それは――」
一瞬、躊躇したようだった。
おそらくはトラ子も雫を大切に思っている。おそらくは、私や友斗と同じぐらいに。
だからこそ今のトラ子なら折れると思っていた。
でも、
「――はい。私には雫ちゃんに言えることは、ないと思います。雫ちゃんの友達でいる資格も、ないですから」
「えっ……?」
言えることがない、どころか。
友達でいる資格がない、とすらトラ子は言った。
そういえば、と思い出す。
トラ子は美緒ちゃんに言われていたはずだ。
『大切な人なんてよく言えますよね。まだあれだけ大切なことを言えていないくせに』
『「ハーレムエンド」なんて現実的じゃない。そうはっきりと言えるのは、大河さんだけですよね? あなたは叱る立場のはずです。兄さんを叱って、一度は間違いを正したはずです。なのにそれができなくなっているのなら、秘密を口にもできないなら――そんなのはもう、偽物ですよ』
『偽物の関係のまま、それでも「ハーレムエンド」がいいと? 四人の中にあなたがいてもいいと思えるんですか?』
私にもよく分からない内容だった。
でもおそらく、トラ子は“何か”を隠している。
隠していることに後ろめたさを覚えていて、だから、こうして逃げようとしているのだろう。
もっと分かりやすく言うのならば、この子は孤独になろうとしているのだ。まるで自らを罰するかのようにして。
「そういうことですので、私は帰ります。雫ちゃんのこと、お願いし――」
「――トラ子、ダメ」
だから、私はトラ子の手首を握った。
行かせまい、と手に力を込めた分だけ、トラ子の身体の冷たさを実感する。雫に負けないぐらいに冷え切った体は、やはり、私より大きいけれど小さく見えた。
繋ぎ留めなきゃ、ダメだ。
私がこの子を、この子たちを、結んでおかないと。
私が澪標にならないと。
「っ、澪先輩、私は……っ」
「トラ子が何を考えてるのかは、分からない。私はトラ子の姉じゃないし、友達でもない。トラ子は私の不倶戴天の敵だから、分かるはずがないんだ」
「っぐ、だったら――」
「――でも行くな。今日は、今だけは、絶対に一人になっちゃダメ」
手首を掴む力が強いせいか、それとも私の言葉に思うところがあったのか。
トラ子の表情は苦悶に歪み、逡巡の気配を見せた。
「お願い。雫のために……私の、ために……っ。今日は、一緒にいて。うちに泊まっていって」
「…………」
「そうじゃないならトラ子の家に行く。絶対に一人にはしてやらない。ベッドがきちんとある私たちの家とそうじゃない自分の家、どっちがいいのかなんて考えなくても分かるでしょ?」
とうとうトラ子は、こく、と項垂れるように頷いた。
よかった、と思う。
助けてはあげられないけど、少なくとも一人にせずに済んだ。
一人が二人になって、二人ずつが三人になって、それから四人になって。なのにここから三人と一人になるなんて、認められるわけがないのだ。
「分かったなら、いい。雫も……一緒に、帰ろ?」
「…うん。ごめん、泣いてばっかで」
「いいんだよ。私は、お姉ちゃんなんだから」
口にした言葉の浅ましさを、私は心の中で呪った。
だって――こうなった原因の一端は私にある。
私たちがセフレにならなければ、妹の代わりにならなければ、おそらくはここまで拗れはしなかった。友斗と雫が結ばれて、私は義姉として、トラ子は彼女の友達として、友斗と程々の距離を保っていたはずなのだ。
セフレのときも、妹の代わりのときも、声をかけたのは私の方で。
受け入れた友斗に非がないなんて言うほど無垢でも都合がよくもないけれど。
でも間違いなく、私にも非があるのだ。
「ごめん」
二人に聞こえないように、そっと懺悔した。
聞こえていたら二人が気にしてしまうかもしれないから。
気を遣わせるのは最も罪悪であるように思えたから。
私たちはそうして、家に帰った。




