十章#03 泣く資格なんてないクズ
雫、澪、大河。
あの三人が一緒に出かける場合、基本的に三人揃って家に帰ってくる。翌日が学校とかでもない限り、泊まっていくのだ。
しかも、今日の天気は雪だ。雫はさぞかし上機嫌になっているだろう。大河を家に呼び、ワイワイとはしゃぐ可能性は高い。
そんな日に、連絡しなくてはならない。
今日は帰れない、と。
俺が家を空けた経験は数度ある。
夏休みの帰省とか、澪とホテルに泊まったときとか、選挙のときとか。しかし、今回のはこれまでとは紛れもなく状況が違う。
――裏切り
そう表現しても寸分も違わない行為だ。
「……連絡するの、怖い?」
〈水の家〉の画面を開いて躊躇していると、時雨さんが声をかけてきた。
びくっ、と肩が震えてしまう。
それが肯定の合図であることは言うまでもなかった。時雨さんはそっと俺の手を握り、語りかけてくる。
「もしも友斗くんが望むなら、ボクはいつでも引き返す。あの子たちへの『好き』を貫くつもりなら手を貸すよ。どうする?」
「それは……っ」
今からでも、遅くはない。
時雨さんはそう言う。事実、まだ引き返せるのだろう。俺と時雨さんは手を繋ぐ以外に何もしてない。その程度なら従姉弟のじゃれあいの範疇でギリギリ流してしまえる。
けれど――これ以上は、ダメだ。
決してそういう行為に走るつもりはないが、それを連想するような場所で恋人として一晩過ごせば引き返せなくなる。
ここが、本当のほんとにターニングポイントだ。
けれど――考える必要はない。
引き返したところで、道は用意されていない。よしんば道を見つけても、その道を通ることは許されていないのだから。
「ううん、説明するよ。きちんと説明する……ねぇ時雨さん、明日って暇?」
「うん……? どうしてかな」
「うちに来てほしいんだ。ちゃんと終わらせるために」
口に出した声は震えていた。
唇をきゅっと引き結んで時雨さんの返答を待つと、こく、と時雨さんは頷く。
「いいよ。友斗くんがそうしたいのなら。ちょっと――だと思うけど」
「えっ、今なんて?」
「……ううん、何でもない」
そう言って、時雨さんは自分の言葉を隠す。
きっと何かを言っていたはずなのに、聞き逃した。胸のうちに罪悪感が広がる。時雨さんが言ったように、俺はまた何かを分かったいるくせに、分かっていないことにしているのではないか。ふと、そんな疑問が浮き上がる。
なんて、今はそういうことを悠長に言ってる場合じゃない。大丈夫だ、大丈夫だ、と自分に言い聞かせて、俺は電話をかける。
〈水の家〉のグループ通話。
誰か一人でも出てくれればいい、と考えながら。
しばしの発信音ののち、ぷちっ、と誰かが電話に出る。
「もしもし?」
『…もしもし、友斗?』
短い沈黙と共に聞こえたのは、澪の声だった。
「ああ、俺だ俺」
『あ、そういう詐欺には引っかからないので。真面目に働いてください』
「詐欺じゃねぇよ名前呼ばれて反応しただろうが。っていうかその前に、声聞けば分かるよね、君」
『ん。ま、ね。誰かさんみたいなつまんないジョークを飛ばそうと思っただけだよ、気にしないで』
「うん、今の言葉にこもってる悪意の方を気にするわ」
澪は呆れるくらいにいつも通りだった。
ツンケンとした言葉が、心を癒す。ああ好きだ、と心底心が躍って堪らない。だからこそこれから告げることを考えて気が重くなるのだけれども。
『それで、なに? 今、ご飯作ってるんだけど』
「あ、それは悪かった……って、あれ。まだ夕飯には早くね?」
時計が指す時刻は、5時15分。
家によってはもう夕飯を作り始めるのだろうが、我が家は7時前後からなことが多い。気にかかって言うと、ちっ、と小さな舌打ちが聞こえた。
「……澪?」
『っ、なに?』
「え、いや何って言うか……夕飯には早くね、って聞いたんだけど」
『それは…………』
沈んで黙する澪。
薄らとしたノイズが息苦しくて、何かあったんじゃないかと不安に――と、思っていると。
ふふっ、と悪戯っぽい声が聞こえた。
『今日は、手が込んだメニューなんだよ。折角の雪だし、って思って。私の一番の得意料理かも。胃袋掴んで離さなかったらごめんね?』
「――っっ」
日常の満ちたその声が、ぎゅぅぅぅ、と心臓を掴む。
せりあがってくる嘔吐感と眩暈に、今すぐスマホを手放したくなった。
雪を飲み込んだみたいに腹の中が冷えて、凍えそうだ。
『……友斗?』
「わっ、悪い。なんでもない」
『………そ、ならいいんだけど』
何故だろう、会話が妙に上滑りしているように感じる。
奥歯を噛み、そういや、と話を変えた。
「雫と大河はどうした? スピーカーで聞いてたり?」
『ッ……ううん、そういうわけじゃない。二人でお風呂に入ってるよ』
「えっ、そうなのか。やけに早いな」
『雪で遊んで冷えたから』
「ああ、なるほど」
家にいれば、俺も一緒に遊んでいたかもしれない。
冷え冷えになりながら部屋に戻ると、雫がお風呂に入りたいって言い出す。俺もその後に入ろうかなぁとか思っていると、覗かないでくださいね、だとか、美少女の出汁を、だとか言ってからかってくるのだ。
そんな楽しい、ありふれた素敵さに満ちた雪の日になったかもしれないのに。
「…っ、……ッ」
ああ、どうして好きになってしまったんだろう。
雫を、澪を、大河を――三人を好きになってしまったんだろう。
誰か一人を選べればよかった。俺が選びさえすれば、それで絆が壊れるほど彼女たちはヤワじゃないはずだ。悲しませてはしまうだろうけれども、変わらず四人でいられたのだろう。
全ては、俺の罪。
三つの恋に同時に落ちた俺が悪いんだ。
「あの、さぁ。澪にどうしても言わなくちゃいけないことがあるんだ」
『……なに?』
「ごめん。俺、今日帰れない」
『…………』
今度こそ、沈黙が返ってきた。
ブラックコーヒーを煮詰めたような苦みが、歯を溶かしていく。これ以上言いたくない、冗談だよって言いたい。死に物狂いで走って、家に帰りたい。
そう、思うけどできないから。
「電車止まっちゃってな。タクシー待ちの人も多いし、バスにも乗れそうにないし、ここから歩いて帰ったら絶対に体調崩すから」
『どこ、いるの?』
「……蒲田」
『そう、じゃなくて。どこに、泊まってるの?』
「それは――」
聞かれたくないところを的確に見つけた澪が、聞いてくる。
答えに窮することはない。
だってそもそも、言うつもりだったのだ。5W1Hを知ってもらうことも、こうして泊まる意義の一つなのだから。
「――駅近くのホテル。時雨さんと一緒だ」
『……っ!?』
「カプセルホテルとかじゃない。澪と前に行ったような……そういうホテルだよ」
『――ッ、どうしてッ?』
その声は、心の大事な部分をがぶりと噛み砕いてしまうような強さと怖さがあった。
時雨さんを見遣ると、頑張って、と口の形だけで言われる。
うん……頑張らなくちゃいけない。
罪人の最低限の義務だから。
「時雨さんと付き合うことになった」
『は?』
「時雨さんと、付き合うことになったんだよ。今日一緒に話して、それで告白した。OK貰ったんだけど……わざわざ蒲田まで出てきたせいで雪に閉じ込められちゃってな。でももう付き合ってるんだし、別にこういうところに泊まるぐらいはいっか、ってことになったんだよ」
嘘はぺらぺらと口からまろび出た。
嘘八百って言葉は、どうやら本当だったらしい。
言い終えて口を閉ざしたとき、今すぐ自分の唇を切り取ってしまいたくなった。
『あの人と…ラブホ?』
「……ああ」
『っっ……付き合った? は? 意味わかんないんだけど。何言ってんの?』
「ごめん。詳しいことは明日説明する」
『――……っ』
爪が掌に食い込む。
それでも言い切ると、僅かな沈黙の後、
『――いで』
と、絞り出すように澪は言った。
「え?」
『言わないで。お願いだから……雫とトラ子にはそれ、言わないで』
言った、という表現はもしかしたら適切ではなかったかもしれない。
懇願した。
そう告げた方が適切に感じる声だったから。
「そういうわけには、いかない。俺を好きでいてくれたんだ。ちゃんと振るべきだろ」
『それでもッ! 今日は、絶対に言わないで。明日なら聞くから。今日は……今日だけは、その話をここだけのものにさせて』
そうしないと、と続ける澪の声は、もう掠れてほとんど聞き取れないもので。
それなのに最後の一言は、
『あの子たちが、潰れちゃうから……っ』
嫌になるほどはっきりと頭に残った。
「っ、…ごめ、……ごめん」
電話を切った俺は、壊れたCDみたいに何度も何度も謝った。
ごめん、ごめん、ごめん。
いつか俺がこうして謝罪を繰り返したときには、優しい唇が塞いでくれたけれども、今日その唇は俺のせいで哀しみと苦痛に震えたはずだ。
そう思うと、もうおかしくなりそうだった。
死んでしまいたくて、しょうがなかった。
「友斗くん。お風呂、入ってきなよ。全部、ぜんぶ、流してしまえるように」
「そう、するよ」
どこに泣く資格があるんだよ。
全部俺が悪いのに。泣いていいのはあの三人なのに。
零れる涙全てが忌々しくて、俺は、
「……っぐ、くそっ」
溺れるほどにシャワーを浴びた。
浴びて、浴びて、浴びた。




