九章#39 波と君だけの秘密を。
昼食は寿司だった。回らないアレである。お金持ちは違うわね……と思いつつ、ありがたくいただいた。本当に美味しかったので、そこは悪くないな、と思ったり。
ただ談笑しながらの昼食はあまり気が休まるものではなかったのも事実。俺はやたらと構われてしまい、いちいち神経をすり減らした。
そんなこんなで昼食が終わったのが、午後2時すぎのこと。
思いのほか長居してしまったなぁと申し訳なくなりながらもその場を後にしようとすると、大河が声を上げた。
「お爺様。百瀬さんを神社まで送って行ってもいいですか?」
意外な申し出だ。
別に送られる時間でも距離でもない。それでも大河がこう言うのは……単に、家から出るスケープゴートが欲しいだけなのだろう。
「そうだな……構わんぞ。少し寄り道をしてもいいから、彼と仲を深めるといい。ぜひ彼は婿に欲しいからな」
「…………分かりました」
怪訝な顔をしながらも、大河はこくりと頷いた。
入江先輩を一瞥してから、俺は大河ににこりと微笑みかける。
「そういうことならお願いできますか、大河さん」
「はい。少し荷物をまとめて来ますので、玄関で待っておいていただけますか?」
「分かりました」
生徒会で関わりがあるとはいえ、普段の距離感で接するわけにはいかない。そんなことをすれば、すぐにでも婚約だ婿入りだという話になってしまうかもしれないのだ。
家の人に挨拶をしてから玄関に向かう。
入江先輩の意味ありげな視線は……今は、スルーしておきたかった。何を言いたいのかは何となく分かるし。
そうして玄関で暫く待っていると、
「お待たせしました」
と、大河がやってくる。
着物の上からダウンを羽織り、巾着を手に持っていて、和服デートという言葉が頭をよぎる。俺があくまで白衣と袴だし、和服かと言えば疑問が残るけど。
「いいえ、待ってませんよ。とりあえず外に出ましょうか」
「はい」
言って、二人で外に出る。
塀をくぐって少し歩いたところで、ほぅ、と俺は息を吐いた。
「ここまで来ればもう大丈夫、だよな……? 盗聴とかされてたら敵わんぞ」
「大丈夫だと思います。流石に盗聴とかをするほど非常識ではないと思うので」
「なるほどなぁ」
さっきの行動だけでも随分と非常識だったけど、とは言わないでおく。程度の差はあれど、普段から俺は色んな人に振り回されてる節があるし。
でも、考えていることが表情に出てしまっていたのか、大河は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お手数おかけしてすみませんでした。まさかユウ先輩があの場に来るとは思わず……」
「あー、うん。それは急に行ったこっちも悪かったし、大河は悪くないから気にすんな」
「はい……」
俺があれこれと言っても、大河はシュンと凹んだ様子を見せる。
家の空気で疲弊しているから、ってこともあるんだろう。それに、聞かれたくなかった話も、おそらくはある。
幸いなことに、帰りは遅くて構わないと柳さんからは言われていた。ならば言われた通り、ちょっとばかし寄り道していくか。
「ま、こうやって大河と一緒になれたんだ。そう思えば諸々計算してもお釣りがくるってもんだろ」
「ユウ先輩……そういう言い方は卑怯です」
「事実だしな」
肩を竦め、大河に笑いかける。
今度は作った微笑ではなく、心からの笑みで。
「で、どこ行く? どうせだし、思いっきり寄り道していこうぜ。俺も、戻ったら肉体労働をやらされるだろうし、テキトーに時間潰したいんだよな」
「……きちんと働いてください」
「辛辣だなっ!?」
「冗談です。私も折角出られたので家に帰りたくないですし……それに」
ちょこん、と袖を摘まんで大河が言う。
「雫ちゃんや澪先輩みたいに、二人っきりになれませんでしたから。ちょっとぐらいわがまま言っても、いいですよね?」
「――っ、ああ。そうだな」
「はいっ!」
考えたくないことも、目を背けたいこともある。
それでも逃げることが許されないのなら、許せないのなら。
せめて『待った』をかけることだけは、許してほしい。
それは逃げではないはずだから。
そう嘯くことが無意味だと知っていても。
◇
ざぶーん、ざぶーん。
寄せては返す波の音。
どこまでも広がる海を見渡しながら、裸足で砂浜の感触を味わっていた。
「なぁ大河」
「なんですか、ユウ先輩」
「どうして海?」
「いいじゃないですか。嫌なら来る前に反対してください。来てから異論を唱えるの非生産的ですよ」
「いや、別に異論を唱えてるわけじゃないんだが……純粋に疑問でな」
そう、俺たちは海に来ている。
汚すわけにはいかないので靴下と靴を脱ぎ、裸足で砂浜を踏んでいると、不思議な気分になってきた。
海風は特別に冷たいわけではなく、海も澄んでいて綺麗だ。
だから――海に来たのが嫌だったわけではない。
ただ単に疑問だったのだ。
「海を選んだ理由は、特にないです。ユウ先輩と少し話がしたくて。でもこの恰好でカフェとかに行くのも変だと思ったので、そうなるとゆっくりになれる場所はここだけかな、と」
「なるほど」
話がしたい、か。
大河は強いな、と思う。一つ一つのことに向き合って、『待った』をし続けることなく受け入れている。そんな大河だからこそ好きになったし、一緒にいたいと思うのだろう。
「水、冷たいですかね?」
「そりゃそうだろ。絶対足が死ぬぞ」
「ですよね……じゃあここで海を見るだけで我慢します」
「そうしとけ。風邪引いたら元も子もないしな」
ざぶーん、ざぶーん。
海の音がチープに感じるのは、きっと聞く側の心が陳腐だからだ。
ちちんぷいぷいと魔法をかけたならさぞかし美しい音に変わってくれるのだろう。
「こうしていると、入水自殺をするみたいですね」
「っ……大河」
らしくない不謹慎な冗談を咎めるように言うと、大河はばつが悪そうに顔を逸らした。
「すみません……でも、冬の海ってそういう印象が強くありませんか? 文豪の中には入水自殺した人も多いですし」
「多いかって言うと微妙なところだが、まあそうだな」
冬の海は怖い。
それはこっちに来て最初に思ったことであり、今も朧気ながら思っている。
夏の海は違った。賑やかで、底抜けに太陽に照らされていて、楽しい思い出でいっぱいだったんだ。
その変化は季節が生んだものなのか、それともこれすらも『好き』が歪めてしまったにすぎないのか。
後者だったらと考えて、歯噛みした。
「海を見ると、学校での色んなこととか、足掻いてた自分とか、そういうのがちっぽけに思えますよね」
「そう、かもな」
大河は海を眺め、ふっ、と自嘲気味に口角をあげる。
そして、
「うちの家、25歳までにいい人を見つけられないとお見合い結婚をさせられるんです」
と漏らした。
ズキン、と胸が痛む。
何となく分かってはいた。あの人の語り口から察するに、大河や入江先輩が未婚のままであることを許すはずはないだろう、と。
「ユウ先輩にお見合いの話が行ったのも、その一環です。25歳まで行かなくとも、いい人がいればぜひに、と紹介されるので」
「そっか」
「はい。父はそういう古いしきたりに逆らって、母との結婚を押し切ったそうなのですが……それでも何かが変わるわけではなく、あくまで例外のような形になったみたいで」
だから。
そう続ける大河の唇は戦慄いていた。
その震えが寒さから来るものでないことは、見ればすぐに分かるだろう。
俺の知らないことは、まだ山ほどあって。
けれど大河が何を言おうとしているのかは、容易く理解できた。
「大変なんだな、色々と」
それでも俺は、まるで他人事ぶって返すことしかできない。
俺は子供で、狭い世界で生きていて、特別な力もなければ、さっき褒められたような大層な人間でもない。
ざぶーん、ざぶーん。
歯痒さすら押し流してしまうような海音が憎かった。
潮風が頬をそっと撫で、磯の臭いを運んでくる。
「あのですね、ユウ先輩」
「うん」
「さっき、ユウ先輩が来て。それで、お爺様がユウ先輩にお見合いの話をして」
「うん」
「喜ぶべきじゃないのに、喜んでしまっている自分がいたんです。ユウ先輩と結婚した日々を想像して、それは最上ではないかもしれないけど、幸せではあるな、って」
「……うん」
自責的なその声は、ジクジクと海に膿んでいた。
ふと、想像してみる。
大河と俺で結婚したらどうなるだろう、と。
それは―――きっと幸せだ。
家でだらしなくしていたら大河に叱られて、けど本当に疲れているときには労ってくれる。時折甘えてくれると可愛くて、二人でするときには大河は恥ずかしそうにして、でも嫌がってはいない。
ああ、うん、幸せだ。
でも――足りないものを、数えてしまう。
例えば雫の、底抜けの明るさとか。
例えば澪の、俺を振り回す強欲さとか。
雫と大河の仲睦まじい光景とか、澪と大河が言い争う様子とか。
色んな『とか』が列挙できてしまって、多分、有るものより無いものを数えてしまう気がする。
「だから……お願いです。この話は、あの二人にしないで貰えませんか?」
「この話ってのは」
「ユウ先輩が婿入りを誘われたことも、私が25歳になったらお見合い結婚をしないといけないことも、両方です」
力強く大河が言い切る。
「私から言いたいんです。きちんと、自分の口で。逃げちゃダメなことだと思うから」
波はその声を流していきはしない。
海を見れば、水平線が遥か遠くに引かれていた。まるで此方と彼方を分かつように。強さと弱さを、善と悪を区切るように。
「分かった。大河がそう言うなら、俺からべらべら喋ることでもないし、黙っておく」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことでもねぇよ」
俺は小さく首を横に振る。
むやみやたらに話すべきことでもないのだから、黙っておくのは当たり前だ。むしろ黙っておくことを詰られるべきだとすら思う。
それでも大河は、きちんと礼を言う。
礼を言って、頭を下げて、立ち上がった。まだ座ったままの俺に手を伸ばすので、俺はその手を取った。
温かくて柔らかくて、そして小さな手だ。
「私、ユウ先輩のことが好きです」
「っ……急だな」
「恋に枝葉末節もないじゃないですか」
「それもそうか」
恋に枝葉末節もなく、けれど色んなものには枝葉末節もしがらみもあるから、折り合いをつけないといけない。
なるべく大河の手に頼らないようにして立ち上がり、行くか、と呟いた。
「そうですね。あまり遅くなってもしょうがないですし、行きましょう。ユウ先輩のおかげでエネルギーもチャージできましたから」
「そっか」
そんな風に励ますことしかできないのなら、『好き』は本当に魔法なのだろうか。
所詮は何の力も持たない、ただの身勝手な感情だったのではないか。
繰り返す波の音に、俺の自問が鈍くダブった。




