二章#01 義妹との話(起)
夏の終わり、太陽と月、夜空に咲く花火。
あとは将来の夢さえあれば、ちゃんとお別れできていたのだろうか。十年後の再会を約束できたのだろうか。
――もしも美緒が生きていたら。
――もしも✕✕✕✕だったら。
頭に浮かぶIFを潰していく。線香花火でダンゴムシを焼く虐待みたいに、砂弄りでアリの行く手を塞ぐみたいに。
◆ ◆ ◆
お互いの唇が重なってから、もう何分が経っただろう。
夜を一つに集めたみたいな苦さと、星空をちりばめたみたいな甘さが、舌を通して伝ってくる。
体が絡み合って、激しくキスを続けた。
ちく、たく、ちく、たく。
鳴ってもいない秒針の足音が耳の奥で鳴っている気がする。
「んっ……」
「はうっ」
口の端から漏れ出る吐息が艶めかしくて、その分だけ間違っていることを突きつけられる。
綾辻と目が合うと、いつかの入学式みたいに視線だけでやり取りを交わす。
『始めないのか?』
『するよ。この感触に慣れなくて、口が上手く動かせなかっただけ』
けどもう大丈夫、と伝えてきたのは頬に触れた綾辻の小さな手だった。
行くよ? と視線で告げられる。うんと小さく頷くと、綾辻はゆっくり口を動かした。
「んん……はぅ。はぁ、はぁ……」
唇の感覚は、鋭敏なのに麻痺していて、靄がかかったようなメッセージしか受容できない。
それなのに俺は、綾辻が何を言っているのか分かった気がした。
「ぷはぁっ……今ので終わり」
綾辻の唇が離れていく。
一つだったものが二つになったような感覚は、ほんの少しだけ寂しさを孕んでいた。
「どう、百瀬。答えは分かった?」
「……分かったよ。多分、だけどな」
「ふぅん?」
答えをどうぞ、と綾辻が促してくる。
本当に答えを言ってしまっていいのだろうか。そんな風に迷うことはなかった。だって――綾辻はもう、降参しているようなものなのだから。
「『兄さん』って。そう言ったんじゃないか?」
もう自分が義妹になることを決めていて。
それでいいと思っていて。
だからこそキスをしながら、俺の体に義妹としての存在を刻みつけたのではないだろうか。
「……そっ、か」
「答えはどうなんだよ。正解なのか?」
「うん……そう、だね。ほとんど正解。私は『お兄ちゃん』って言ったから」
悪戯っぽく、綾辻が笑う。
間違えた。そう思うのも束の間、彼女は首を横に振った。
「ほとんど同じだし、そっちの勝ちでいい。けどちょっと間違えたんだからさ、一つだけ私のお願いを聞いてくれない?」
事後のように、綾辻の中の冷静さが息を吹き返したようだった。
あっさりと勝敗を決した綾辻の提案に、敗者になるはずだった勝者の俺は黙って頷くしかない。
「ルール通り、私は美緒ちゃんの代わりになる。もちろん学校とかでは変なトラブルの原因になるから遠慮したいけど……学校でもしてほしい?」
「……いや二人きりのときだけでいい」
よかった、と綾辻は笑った。
「そんな感じで義妹になるけど……この関係に慣れるまででいいから、週に一度だけ、義妹をやめさせてほしい。綾辻澪としてあなたと関わらせて」
真っ直ぐな言葉に俺は言葉を詰まらせた。
綾辻は俺を愛している。それはついさっき告げられた事実だった。あのときの悲痛な声は、今も耳奥で反響している。
「義手も義足も義眼も外すときがあるでしょ? それと同じ。本当に少しの間でいいから、義妹をやめる時間が欲しいの」
真摯に言う綾辻はとても綺麗だった。
世界で一番大切な人の瞳に俺が映っていることが、堪らなく心を満たす。
その顔にねだられて、嫌だなんて言えるわけがなかった。言う必要すら見つけられなかった。
「分かった。でもその週に一度でセックスをするのはなしだぞ」
「もちろん。あなたが求めてくれないと、私は気持ちよくなれないし」
「……っ」
胸で蹲る熱が苦くて、俺はふぅと息を吐きだした。
彼女と俺は共犯者であり、契約者であり、兄と義妹になる。
いつまでも暗い雰囲気を続けるのは俺にとっても綾辻にとっても本意ではないはずだ。俺は口角をにっとつり上げる。
「週に一度の機会を使いたくないなら、二人きりのときは『兄さん』だ」
俺の意図を分かってくれたのだろう。綾辻は目を細め、きゅいっと目尻を下げながら笑った。
「分かったよ、兄さん。口調はどうすればいい?」
「そのままで。呼び方以外は基本変えなくていい。顔が似てるだけで充分補完できる」
「了解。口調とか意識するのは面倒だったし助かる」
普段から口調なんて意識してないしね、と綾辻が呟く。
……違うな。もう『綾辻』と呼ぶべきじゃない。二人きりのときの綾辻は義妹になる。そういう約束なのだから。
これからは『《《みお》》』。そう呼ぶべきだろう。
「みお。シャワー浴びに行くか」
「ん……だね。兄さんのせいで全身がべとべとだし」
ああ、まったく。
こんなにも最低なことをしているのに、どうして心が満たされていくんだよ。この子のことを『みお』と呼べることが堪らなく嬉しくて、ささくれだった気持ち全部が癒えていく。
濃厚なキスのせいで汗を掻いたから、とどちらかが言って。
俺とみおは浴室に向かった。
シャワーハンドルを捻ると44度の熱湯が顔を出す。みおと二人で、熱っ、と零す。
「ねぇ兄さん。髪にもついちゃったから洗いたい」
「あー、そうだな。温度下げるか?」
「ん、お願い。40度くらいで」
「うい」
一気に四度も下げたせいか、体温よりちゃんと熱いはずの40度のお湯が日だまりのように優しく感じた。
みおと俺の身体に纏わりつく汗を軽く洗い流してからシャワーノズルを渡すと、何故かすぐに戻ってくる。
ん……?
もう一度シャワーノズルを渡すが、みおは首をふるふると振った。シャワーノズルを俺に握らせ、湯船の縁に腰を掛ける。
「私、疲れちゃってるんだよね」
「お、おう……まぁちょっと激しくしすぎたしな」
「そういうエッチなことを言うのは禁止」
ぱちん、とデコピンをしてきた。
いつもより少しだけフワフワした雰囲気のみおが、だからね、と微笑む。
「兄さんが髪洗って。目は瞑っておくから」
「えっと……は?」
ん、とみおは俺に頭を差し出した。
無防備なその仕草はとても可愛いが、今はそういうことを考える前に言うべきことがある。
「普通に自分で洗った方がよくないか? そこに座りながら髪を洗えばいいし、逆に俺がやった方が疲れるだろ」
俺の言葉にみおは、はぁ、と溜息を吐く。
そしてからかうようにこそっと囁いた。
「兄さんはセフレに気遣えるのに義妹には気遣えないの?」
ちょっとだけ拗ねた声。
甘えるようなその声がどうしようもなく心を満たす。
「分かったよ。でも上手くできる自信はないからな?」
「口よりも手を動かしてよ、兄さん」
「声が冷たい⁉」
みおと雫が持ち込んだシャンプーを手に取る。男所帯の百瀬家にはなかったものだ。ワンプッシュしてから手で軽く揉みこみ、みおの頭をくしゅくしゅと洗っていく。
「……結構洗うの上手いじゃん」
「そうか? 親戚とかの髪はよく洗ってたし、その経験が活きてるのかもな」
「ふぅん。時雨姉さん以外にも仲がいい親戚がいるんだ?」
時雨さんのことを『時雨姉さん』と呼んでくれるのも義妹の一環なのだろう。細かなところに嘆息を漏らしつつ俺は答える。
「いた、だな。母さんが死んでからはほとんど会ってない」
今は夏に挨拶に行く程度になってしまったが、小さい頃は母方の親戚とよく遊んでいた。
そうなんだ、とみおは呟く。
「今度、会いに行こっか。夏休みにでも」
「……ああ、そうだな。父さんもきっとそのつもりだろうし」
「うん。あの人たちのことだから仕事が忙しすぎて、とかありそうだけど」
「ありえそうだから怖いよなぁ……」
せらせらと笑うみたいに鳴る水音。
くつくつと笑いあう兄と義妹。
綿毛のようにふんわりと柔らかいシャンプーの匂いだけが正しく春の夜だった。




